第27話 性格
数十種類の茶葉が硝子瓶に入れられて戸棚に並んでいる様は、個人の家とはとても思えない。
客扱いが落ち着かず、手伝いを申し出たサァリは、台所に置かれている茶葉用の棚を感嘆の目で眺めた。お湯を沸かしている女の背に声をかける。
「これだけ揃えるには、さぞ大変でいらしたのではないですか?」
「そうでもないわ。昔の伝手があるから」
にっこりと微笑む彼女は、充分に若々しく美しい。
シシュの母親、リアナは、今はこの家で一人悠々と暮らしているのだという。
息子が士官学校に入ったのを切っ掛けに、生家を出てこの家を買ったという彼女は、かつては城に仕えていただけあって、柔らかな物腰の裏にしっかりとした芯を持っているようだ。戸棚を見上げているサァリに白い手を差し出す。
「好きな葉を持ってきてくれる?」
「私が選んでもよろしいのですか?」
「もちろん」
サァリは並んだ瓶を眺めて少し悩んだが、結局真ん中手前にある瓶を手に取った。リアナのところに持って行くと、彼女は一瞬目を瞠った後、苦笑する。
「あの子の好みに合わせなくていいのに」
「私もそれが好きなのです」
咄嗟に言い繕ったものの、リアナにはお見通しなのだろう。くすくす笑いながらお茶を淹れる女に、サァリは落ち着かなさを味わった。
どうにもアイリーデの外にいるせいか、調子がつかめない。いつも店で客に対しているようにすればいいと思うのだが、相手がシシュの母親であることに気を取られるらしく、自分でもぎこちなさが分かる程だった。
サァリは会話の糸口を探して、台所にいない青年のことを口にする。
「彼の子供の頃のことを、お尋ねしてもよいでしょうか」
「ええ。と言っても、残念ながら今とあまり変わりがないけれど」
「変わらないのですか? 昔からああいう感じで?」
「さすがに小さな頃はもうちょっと笑うことも多かったけど」
「え……」
笑顔のシシュなど、あまり想像出来ない。それどころか子供の彼もなんだか現実味がなくて、自分から聞いておきながらサァリは首を捻った。
「あの、どんな時に笑ったり……」
「何を聞いてるんだ」
背後からの声にサァリは飛び上がる。
まったく気配を感じさせずやって来た青年は、忍び笑いをする母親の手からお茶の盆を受け取った。
慌ててその後についていきながら、サァリは彼の顰め面を覗き込む。
「シシュの笑顔、見てみたいな」
「見てなんの得があるんだ……」
「わくわくするかも」
「俺はしない」
取り付くしまもない返答に、サァリは残念さを噛みしめる。後ろに続くリアナが笑い声を弾ませた。
「じゃあその代わり、私が色々教えるわ」
「やめてくれ……」
母と息子の会話は、サァリの知らない温かさが根底に流れているようだ。
生母とほとんど話したこともない少女は、密やかな憧憬に目を細めた。振り返ったシシュがそれに気づいてか眉を上げる。彼は盆を持っていない方の手を、サァリの頭の上に置いた。
「―――― 明日はまた街を案内する」
「うん……ありがとう」
きっとまだ淋しくはない。
ただそう言ってくれるシシュの優しさが、サァリには嬉しかった。
母親と巫の少女の会話を、シシュは何十回も止めたそうな顔で聞いていたが、サァリに気を使っているのか実際に止めたのはほんの数度だった。
青年の苦い表情を横目にたっぷり探究心を満たしたサァリは、夜も更けた頃ようやく客室に辞する。
部屋に備え付けの浴室で、陶器の浴槽に身を沈めた彼女は、お湯の上に長い息を吐いた。両手で器を作って、顔を浸す。
指の隙間から零れていく水滴は、精神に溜まる疲労を吸い取っていくようだ。サァリは揺らぐお湯越しに自分の白い躰を見下ろした。
「少し足が張ってる……かな?」
確かに以前より体力はついてきているが、限界というものはあるらしい。
サァリは足の裏からふくらはぎまでを、入念に揉んでいった。それをしながら右手の痣に目を留める。
「ちょっと薄くなったけど……」
謎の手形が完全に消えるにはまだかかりそうだ。
特に痛くもないのですっかり忘れかけていたサァリは、けれどそこであることに気づいた。濡れた左手で前髪をかき上げる。
「……あれ」
違和感が、ひやりと背筋を滑っていく。
その理由を認識するより先に、サァリは温かいはずの浴槽がまるで氷室であるかのように感じられて―――― 思わず両腕で自分の躰をきつく抱いた。
空に見える月は研いだかのように細い。
新月が近づいてきているのだ。シシュは、ウェリローシアの蔵開けが新月の晩にあるという話を思い出した。
手の中の刀の感触を確かめながら屋敷の外へと出た青年は、足音をさせず表門へと向かう。
そこには険しい目をした人間が立っていて、現れたシシュを見るなり剣呑な気配を叩きつけてきた。
サァリより二歳年上だという従兄弟のヴァスは、挨拶もなしに本題を切り出す。
「彼女を返して頂きましょう」
「屋敷にいても部屋から出られないと聞いたが。仕事がある時までに戻ればいいだろう」
「そういう問題ではありません」
シシュの返答を論外と切り捨てるヴァスは、片手に細身の突剣を抜いている。
それに気づいたからこそシシュも帯刀しているのだが、相手は今のところすぐに剣を振るってくる気はないようだ。
月光が降りそそぐ中で、二人は距離を取って睨みあう。
ヴァスは左目だけを細めて、青年の頭から足の先までを検分した。
「……あなたがどういう人間であるかは、存じ上げています。ただ、このように彼女を連れ去ることはやめて頂きたい」
「巫の同意は得ている」
「我が家の問題です。あなたに口出しされる筋合いはない」
「口出しする権利はあるぞ」
―――― 夜に通る声。
それが誰のものか知るシシュは、ぎょっとして屋敷の方を振り返った。
青白い光の下で艶を放つ銀髪。寝間着姿の少女は、たおやかな微笑を浮かべて二人を見ていた。
体の線が分かる薄地と白い素足に、唖然としていたヴァスがようやく苦言を発する。
「そんな格好で……」
「煩い」
にべもない一蹴に、シシュは彼女が誰であるのか確信して頭を抱えたくなった。
その間にサァリは、素足で石畳を踏んで彼の隣にやって来る。肩から露わになっている白い両腕が、シシュの右腕に絡みついた。
青い瞳が嫣然とヴァスを睨めつける。
「これは私のものだ。私に口出ししたいというなら好きにさせればいい」
「で、ですが」
「分かったなら帰れ。身の程を弁えろ」
サァリはヴァスを追い払うように右手を振る。
従兄弟の青年は一瞬大きく顔を歪めたが、すぐに仮面のような無表情になった。彼は自分の抜いた突剣を一瞥する。
「……あなたこそ、自分の立場と役目を弁えているのですか」
「無論。だからこそ、これと共にいる」
そう言ってしなだれかかってくる少女に、シシュはげっそりした気分を味わう。
だが彼女が何を言わんとしているか、ヴァスもそれで分かったのだろう。表情は変わらぬままだったが、短い歯軋りが聞こえた気がした。
年相応の苛立ちを振りまいて、ヴァスは踵を返す。
「分かりました。蔵開けまでには戻るように」
「ああ」
夜の闇の中へと消えるヴァスは、最後まで背筋を伸ばしたままだ。その矜持に感心し、また同情もしたシシュは、静寂が戻ってくると傍らの少女を見下ろした。サァリは彼の視線に気づくと右手を上げる。そこに残る手形に、シシュはこめかみを押さえた。
普段の彼女とは違う空気。神である少女は、悪戯っぽい目を彼へと投げかける。
「お前につけられた痣がまだ消えない」
「……悪かった」
そう小さく呟くと、サァリーディは嬉しそうに笑った。
シシュの上着を羽織らされた少女は、ご機嫌顔でテーブルの上の金平糖を摘んでいた。そのすぐ傍には透明の酒が湛えられた盃がある。
楽はなくとも、甘味と美酒でとりあえずの面倒は避けられたらしい。離れようとしない彼女を自室に連れて来たシシュは、溜息を飲み込んで少女の様子を窺っていた。簡素な木の椅子に足を組んで座っているサァリは、テーブルに手を伸ばすと、そこに置かれたお茶のカップをつつく。
「飲まないのか?」
「……飲む」
少し冷めかけていたはずのお茶は、彼女が何かしたのか再び湯気が上がり始める。
これは適温を通り過ぎてしまったかもしれない。ただ彼女の好意を無にすると後々厄介な気もしたので、彼は大人しく熱されたカップを手に取った。
難しい顔でそれを飲む青年を、サァリは興味津々の目で眺める。
先日アイリーデにて起きた事件の際、神としての意識が表に出たサァリーディは、その余波で今でも時々こうして意識が切り替わる。
何が切っ掛けかは分からない。ただその度に彼女はふらりとシシュのところにやってきて、精神的圧力をかけてくるのだ。
おそらくは先の事件のせいで神供と看做された為だろう。少し前には触れてこようとする彼女の手を掴んで留めて、逆に痣を作ってしまった。
その時の痣はまだサァリの細い腕に残っていて、見る度に何ともいえない気まずさをシシュに抱かせる。
彼は熱されたお茶を嚥下すると、小さなランプに照らされる少女の貌に視線を戻した。
「巫は眠っているのか?」
「勘違いがあるようだが、私は別に人格が二つあるわけではない」
「普段のサァリーディと性格が違いすぎる」
思ったままを指摘すると、サァリは椅子の上で体の向きを変えた。だぼつく袖の下から細い指がシシュを指す。
「なら、お前はどのような人間に対しても同じ態度で接しているのか? 違うだろう。それと同じことだ。相手によって向ける性格が変わるように、私は私の意識階層によって表に出る性格が異なる」
「分かるような分からないような。酔って態度が変わるようなものか?」
「近い気もするが、腹の立つ喩えだ」
言うなりサァリは勢いをつけて立ち上がった。膝の間に乗ってくる少女を、シシュは反射的に制止しかけたが、痣のことを思い出して手を上げることが出来ない。無抵抗な青年を膝立ちのサァリは楽しそうに見下ろした。
「そもそも今、意識が変わっているのも、手形の犯人に気づきかけたからだぞ。お前の自業自得だ」
「特に何かした記憶はない……」
「袖のある服を勧めただろう。らしくないことをするからだ。私はお前に痣のことを言った覚えはないからな。それを知っているのはつけた本人だけだ」
「……ああ、なるほど」
言われてみれば迂闊だった気もする。
これがトーマにばれたなら何と言われるか分からない。
大きく項垂れて息をつくシシュの頭に、サァリは両手を置いて顎を乗せた。
「あともう一つ、理由がある」
「今度は何だ」
「街を案内してもらっていた時から、何かがつけて来てるぞ。我が家の馬鹿ではなく、もっと別のものがな」
「……は?」
ヴァスがつけて来ていたことには気づいていたが、それ以外の気配など感じなかった。
自分が察知出来ない相手とは一体何なのか。窓の外を窺おうとする青年の腕の中に、けれどサァリは体を反転させてよりかかる。彼女は満足そうに微笑んで目を閉じた。
「とは言え、結界を張ったからこの敷地内には入って来られまい。面倒だからまた明日だな。もう眠い。寝所に連れて行け」
「…………」
言いたいことを言った神は、既に軽い寝息を立て始めている。
その横顔に沈黙したシシュは、だが少女が小さく身震いしたのを見ると、改めて細い体を上着でくるみなおした。
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