第26話 王都
屋敷を出て近くの角を曲がるのと、門の前にやって来た馬車が停まるのとはほぼ同時だった。
シシュに手を引かれて慌てて姿を隠したサァリは、馬車から楚々とした灰色の髪の美女が降りるのを見て、首を竦める。
「危なかった……」
「誰だ?」
「私の従姉妹。見つかると凄い目に遭わされると思う」
「凄い目?」
フィーラが門の中に消えたのを確認し、サァリは胸を撫で下ろす。少女は士官姿の青年を見上げて神妙な顔になった。
「多分シシュも、捕まったら凄い目に遭わされるよ。あの人の好みだもん」
「……何なんだそれは」
「そうなったら、何とかシシュだけでも逃がすからね」
右手で拳を作って真剣にサァリは頷いたが、同伴者の青年は理解しがたいといった目をしただけだった。
シシュは黒いドレスのままの少女を眺める。
「とりあえず着替えか」
「あ、うん」
「この辺りの店だと足がつくから、少し離れるぞ。歩けるか?」
「平気。最近走って体力ついてきたから」
それを聞いた化生斬りは微妙な表情になったが、サァリには理由が分からなかった。
彼女はシシュに案内されて、細い通りへと入る。屋敷からそう離れていないにもかかわらず、目新しいものばかりの景色に、ヴェールをつけていない少女はきょろきょろと辺りを見回した。シシュはそれを咎めるわけでもなく半歩前を歩いていく。
サァリは、左の高い壁から垂れている蔓草に手を伸ばした。そこに咲いている深い紅色の花に触れる。
初めて見る種の花は、日の光を吸い込んだかのような黄色いめしべを持っていた。
一輪摘みたいと思いつつ、サァリは花から手を離してシシュの後を追う。
そうして大きな屋敷ばかりの区画を抜けた頃、周囲の景色は多くの店が立ち並ぶ賑やかなものになっていた。
道を埋め尽くす様々な服装の人々。すぐ右には艶やかな白い石造りの建物と煤けた木造の店が隣り合って建っている。
同じ賑やかであっても、何処か根底に統一された空気のあるアイリーデとは違う、雑多な喧騒にサァリは感嘆の声を上げた。
「凄い。お祭り?」
「確かに祭りの仕度もされてるが、この辺りはいつもこんな感じだな」
道の片隅で、大きな笊に生きた小鳥が沢山詰められて売られているのを見て、サァリは駆け寄りたい衝動に駆られる。
しかしそれより先に、シシュが近くの衣装屋を示した。
「着物を置いてあるか見るか」
「あ、別になかったら洋装で平気だから」
「そうなのか?」
「うん」
アイリーデは古き国の伝統を継ぐ街であり、その古風な雰囲気も一つの特色だ。
であるからして街の人間は帯を締めていることがほとんどなのだが、別にそれに拘らなければいけないわけでもない。
現に王都を行く人間は、百年程前に《外洋国》から伝わった洋装姿の人間が大半であり、今のシシュやサァリもそうだ。
着物を着ればアイリーデの人間だとは分かりやすくなるが、その分目立って追っ手に見つかってしまうかもしれない。
どのような服装が無難なのか、サァリは考えながら衣装屋の中へと入る。
薄暗い店の中は、処狭しと色鮮やかな服が吊るされ、通路を左右から圧迫していた。
立ち込める香木の匂い。サァリは淡い紫色の衣装を手に取った。袖のない薄地の服には、大きな花が淡く染め抜かれている。
「これにしようかな」
「こっちの方がいい」
「え?」
シシュから渡されたのは、白い長袖のドレスだ。あっさりとした作りの衣装は、サァリの選んだものと違って袖も裾も長い。
むしろ小柄な彼女では少し丈が余るほどだ。サァリは受け取った服を抱きしめて少し考えたが、青年の居心地が悪そうな目に気づくと微笑んだ。
「じゃあこれ。着替えてくるね」
「……ああ」
奥にいた店主に断って、サァリは着替え用に仕切られた布の向こうへと入る。着ていた服を脱いでしまうと、シシュが選んだドレスへと着替えた。
やはり裾は少し引きずる程で、それを確認した少女は待っている青年へと声をかける。
「シシュ、帯選んで」
「帯?」
「代わりになるものでも」
サァリの意図は無事伝わったらしい。しばらくして仕切り布の上から薄絹の帯が投げ込まれた。
淡い紅色の帯には、先程見たのと同じ花が描かれている。サァリは、彼があえてこれを選んだのか、笑いを噛み殺しながら裾を上げ帯を締めた。いつもとは異なり、ふわふわと透ける帯は背中で蝶のように広がる。
最後にまとめてあった髪を下ろすと、サァリは脱いだ服を手に外へと出た。
「どう? 似合う?」
両手を広げて聞いてはみたが、シシュはいつもの苦い顔で頷くだけである。
それを肯定とみなして、サァリは店主に向き直った。着ていた元の服を示す。
「これを買い取りで足りる?」
「……釣りが出ますな」
「じゃあそのお釣りで、あれも貰うわ」
サァリが指さした先には、紅を入れた銀器が並んでいる。
そのうちの一つを手に取った少女は、くすんだ姿見を振り返って嫣然と笑った。
―――― 女の顔の印象は、化粧一つで変わる。
そうサァリに教えたのは従姉妹であるフィーラだ。
サァリより六歳上である彼女は、少女に体の手入れの基本を教えただけでなく、毎月月白に化粧瓶を細かい指示つきで届けてくる。
それをサァリは普段、大して考えもせず言われた通り使っているだけなのだが、日頃いい加減にしていても、一度教わったことは中々忘れないらしい。適当に買い上げた紅と色粉で化粧を変えた少女は、改めて賑やかな外の通りを眩しそうに眺めた。
隣のシシュが、少女の横顔を信じがたいものを見る目で注視する。
「どうしてそんなに印象が変わるんだ……」
「変えないと不味いでしょ。私はアイリーデの人間なんだし」
そう言うサァリの化粧は、普段のものよりも三割増し翳が濃いものだ。
夜の空気と、凛とした品の良さを兼ね備えた貌。小さな唇に差された昏い紅が、一滴の艶かしさを醸し出している。
本来の年齢よりも化粧のせいで数歳上に見えるサァリに、シシュは小さく溜息をついた。
「……そうしていると別人みたいだな」
「でも、それっぽいでしょう?」
渋々ながら肯定が返ってくると、サァリは相好を崩してシシュの腕を引いた。
「じゃ、行こ。何処に行っていい?」
「何処に行くか……。鍛冶屋通りにでも行くか」
「うん」
どんなところかよく分からないが、何もかも楽しい予感がするので異存はない。
アイリーデにいる時のように飛び跳ねないよう意識しつつ、サァリは人の流れに乗ろうと足を踏み出しかけた。
―――― その時、ふっとシシュが右後方を振り返る。
「不味い。追いつかれた」
「え?」
言われて同じ方向を背伸びして見やったサァリは、人ごみの中に剣呑な形相の従兄弟を見つける。
辺りをきょろきょろと見回していたヴァスは、彼女と目があうと顔色を変えた。名を呼ぼうとしてか口を開きかけて、けれどその名を飲み込む。
今のサァリを「エヴェリ」とは呼べないのだろう。代わりにヴァスは、サァリを指さして周りにいる男たちへと指示を出した。
ウェリローシアの下男であろう男たちは、途端に周囲の人をかきわけ、二人の方へ向かってこようとする。
サァリは思わず左手の腕輪を袖の上から押さえた。
「走る?」
それとも実力行使をするか、と。
問う少女をシシュは返事よりも先に、肩の上に抱き上げた。子供のような眺めにサァリは目を丸くする。
「え、ちょっと」
「この方が早い。喋ると舌を噛む」
「でもこれ目立つ―――― 」
最後まで言い切らないうちに、シシュは手近な角を曲がった。
左右にくねる細い路地を、彼女を抱えているとは思えない速度で走っていく。
王都出身の青年には土地勘があるのだろう。みるみるうちに変わっていく景色を、サァリは歓声を飲み込んで見送った。
すぐに追っ手たちの姿は見えなくなる。そのまましばらく走って人通りのない裏路地で下ろされたサァリは、息一つ切らしていないシシュを見上げた。
「今度から、化生追う時もこれで行ってみる?」
「……目立ちすぎる」
それについてはサァリもまったく同感だった。
運がよかったのか上手く撒けたのか、それからはヴァスに追いつかれることはなかった。
最初にいくつかシシュの選んだ場所を巡り、それがまったく味気ない選択だと気づいたらしい青年は、忌々しさを露わにしつつも王からの手紙に書かれていた場所を回っていくことにしたらしい。花が集まる市場や隠れ家的な茶屋、骨董品を扱う店や名門といわれる料亭などを点々と案内し、日が暮れると一軒の屋敷の前にやってきた。
何の看板も出ていない小ぶりな屋敷に、サァリは青い目をまたたかせる。
「ここは?」
「俺の家。正確には、母の家だな」
言うなり青年は勝手知ったる素振りで門をくぐる。きょとんとしていたサァリが慌ててその後を追うと、シシュは玄関の戸を開け、中に声をかけているところだった。すぐに返事が聞こえ、割烹着姿の女が戸口に現れる。
四十代になるかならないかという黒髪を結った女性は、化粧気こそないが充分に若々しい。彼女は整った顔に驚きの表情を乗せて二人を見た。
「あら……あなたが顔を出すなんて珍しい。そちらの方は?」
「世話になってる巫だ。王都に遊びに来ているんだが事情があって。泊まらせて欲しい」
「あ、サァリと申します。突然のご無礼お許しください」
シシュに何処となく似ている母親に見惚れていたサァリは、我に返るとぺこりと頭を下げた。
その様子がおかしかったのか、女はくすりと笑う。
「それは、息子がいつもご迷惑をおかけしてすみません。どうぞおあがりくださいな」
「……どうして迷惑かけてると決めつけるんだよ」
「あなた要領が悪いから」
「…………」
踵を返す女に続いて、苦い顔のシシュも中へと上がる。
一番後ろにいたサァリは自分もそれにならいかけて―――― ふと外の夕闇を振り返ると、首を傾げた。あちこちにある陰を凝視する。
「……気のせい?」
門の外には何も見えない。
だがかぶりを振ったサァリはその時、首筋から背筋にかけて、水を垂らすに似た寒気を軽く感じたのだ。
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