第24話 屋敷



 地面から突き出た白い石柱は、サァリの腰程までの高さしかない細いものだ。

 月白の敷地内、北の角にあるそれに、彼女は右手をついて深く息を吐き出す。

 息は、力を制御する為に重要な要素な一つだ。サァリは自らの内にある力が、ゆっくりと柱の中に染みこんで行くのを感じ取っていた。意識を波立たせることなく、地中に埋められた柱の先にいたるまで、彼女は力を浸透させる。


 柱は地上に出ている部分こそそう高くないが、地中にはその十倍以上の長さが埋まっている。

 同じものが月白の敷地には他に四本存在しており、この五本の柱の結界によって、館は化生の侵入を防いでいるのだ。

 サァリは柱から手を離すと、深く息をついた。


「こんなものかな……」

 月に一度、巫はこうしてそれぞれの柱に力を注いで結界を補強する。

 もう何代も前から続けられてきた習慣は、だが先日の一件でサァリにいささか疑念を抱かせていた。

 白い着物姿の少女は、鬱蒼とした雑木林を仰ぎ見る。


「術の調整も考えないと」

 元の術式を作ったのは十代近く前の巫だが、それを維持していくだけでいいものかどうか。

 先日、蛇代の呪術師が月白の中にまで入ってきたことは記憶に新しい。あの時はおそらく相手も結界に対しそれなりの策を打って来たのだろうが、対策を打たれたからといって気軽に侵入されても困る。サァリは真剣な顔で考え込んだ。


「どういう風に調整すればいいかな……出来れば幽霊も入れないように」

 手首の痣は、薄くはなったがまだ完全に消えていない。何処の幽霊につけられたか分からぬが、客商売をしている以上、これ以上痣を増やすわけにはいかないだろう。

 だがそうは言っても、具体的にどのように結界を弄ればいいか、知識に乏しいサァリにはよく分からない。神としての彼女ならそれを知っているのかもしれないが、今のところ自由に意識の階層を切り替えることも、記憶も共有することもサァリには出来なかった。


 館に戻りながら悩む彼女はしかし、ふとあることを思い出す。

「あ、そうだ。蔵に……」

 ウェリローシアの蔵には確か、代々の巫たちが書き留めた資料が残っていたはずだ。

 ひょっとしたらその中に、結界についての書付もあるかもしれない。

 サァリは希望の持てる心当たりに「よし」と両拳を握った。

 草履を脱ぎ、裏口から建物内に入ったところで、ちょうどやって来たイーシアと出くわす。


 月白の娼妓たちの中で、もっともよき相談相手である女は、火入れの前とあってか無地の着物に上着を羽織っただけの姿だった。

 イーシアは主の少女に気づいて足を止める。

「あら、庭に出てたの?」

「ちょっと結界の補強に」

「ああ。明日には王都にもう発つのね」

 その予定はもう周知させている。サァリは、ウェリローシアのことも知っている女に「何かあったら連絡下さい」と付け足した。

「自警団にも連絡してあるから、化生絡みの話は来ないと思うけど……。あ、シシュには日程言ってなかった」

「え? どうして?」

「ちょっと前から街を空けてるんだって。入れ違いで月白に来ちゃったら言っといて」


 そうでなくとも、彼が街に戻れば自警団から連絡が行くはずだ。

 どうにもシシュは、アイリーデの化生斬りにしてはおかしな動きをしていることがあるのだが、彼は実質、王の臣下であるのだから仕方ない。

 今回もまた何か役目を振られているのだろう。シシュの素性を知らない者たちは、彼の不審さをよく思っていないそうだが、実際の戦績としては、真面目な彼は他の化生斬り以上の成果を出している。


 勿論サァリとしてはそれだけしてくれていれば文句はないし、むしろ現王の動向を窺い知れる繋がりがあるのはありがたい。

 青年の不在を、サァリはそういう訳で彼に付随するものとして片付けており、自分が忙しくなることもあって、さして気に留めてはいなかった。

 イーシアは、あっさりとした少女の様子に苦笑する。

「もうちょっと気にしてもいいと思うのだけれど」

「え? どうして?」

「どうしてかしら」

 二人の間に流れる沈黙は、相互不理解を主成分としている。

 サァリはいまいち理解出来ない空気に首を捻りながら、イーシアと別れ出立の準備に戻った。

 そうしてアイリーデを離れ王都に着く頃には―――― 彼女の思考は蔵開けのことでいっぱいになっていたのである。




 サァリの生家であるウェリローシアの屋敷は、アイリーデの月白と同様、王都の北のはずれに存在している。

 周囲は大きな屋敷ばかりが立ち並び、人通りも少ない。

 太い柱の門前に立ったサァリは、憂鬱を黒いヴェールの下に隠して、大きな屋敷を見上げていた。

 六十年前に建てられた屋敷は、当時の流行を取り入れた作りで、今なお瀟洒な雰囲気を漂わせている。


「ちょっと早く着いちゃったかな……」

 サァリは手の中の懐中時計を確認する。

 普段の着物ではなく黒い古風なドレスを身につけ、紗布で顔を隠しているのは、月白の主とウェリローシアの当主を切り替える為だ。

 享楽街老舗の妓館の主人と、古き名門の家の娘が同一人物であると、外に知られることがあってはならない。

 その為に、子供の頃から自分の部屋に閉じ込められ続けていた少女は、手袋に覆われた手で門の鉄格子を押し開こうとした。


 だが力を込めるより先に、屋敷の方から冷ややかな男の声が上がる。

「馬車はどうしたのです」

「……ヴァス」

 思わずその名を呟くと、やって来る青年は左目だけを細めてサァリを睨んだ。

 彼女のものよりも灰色がかった青い瞳は、昔からそうしてサァリをねめつけてくるのだ。


 艶のない灰色の髪と中性的に整った顔立ち。だが険の目立つそれは、サァリとはあまり似ていない。

 ほんの子供の頃は実の兄妹みたいだと祖母に言われていたが、お互い十八歳と十六歳になった今、性別の差か環境の違いか、二人の容姿はまったく異なる種類のものへと分かれていた。

 痩身にあつらえた錆鼠の洋装は、派手さこそないが一目で質のよいものと分かる。

 見る人間が見ればすぐに貴族の子息と分かるその外見を、サァリは日頃の習慣でつい無意識に評価した。


 ―――― もっとも、彼が月白の客であったなら、若すぎるという理由で女たちは嫌がるだろう。

 そんなことを考えて無言の少女に、ヴァスは門を開けながら同じことを問う。

「馬車を手配してあったはずです」

「都の入り口で降りました。少し歩いてみたかったもので」

「そのような格好でここまで? ご自分の立場を弁えられたらどうです」

 敷地内に招き入れられながらの嫌味に、サァリはヴェールの下で顔を顰める。人形に似て表情に乏しいヴァスは、彼女の手から荷物を引き取ると、さっさと屋敷に向かって歩き出した。

 鉄格子の門がしまると、サァリはもう一人の従姉妹の名を口にする。


「フィーラはいるの?」

「ガラク侯の屋敷に出かけています。祭りの二日前にガラク侯が急遽酒宴を開くことになったそうで、その確認に」

「そう」

 ヴァスよりも口煩いその姉がいないと分かって、サァリはひとまずほっとする。

 だが、ガラク侯がどのような人物なのかはさっぱり分からない。かと言ってここで聞いても馬鹿にされるだけだろうから、あとで召使にでも尋ねようとサァリは思った。


 石畳の路が終わり、屋敷の玄関に着くと、ヴァスは振り返って彼女を見下ろす。灰青の双眸が不分明な光を湛えた。

「それでは……蔵開けまでの間、ごゆっくりお過ごしください。あまり徒に外を出歩かないように」

「分かっています」

 言われなくても、王都に出かけていい場所はサァリにはないのだ。

 彼女はヴァスの手から荷物を引き取ろうと手を伸ばした。けれどそうして身を屈めたサァリの耳に、青年の冷え切った声が囁く。


「―――― 客は決まりましたか」

「…………」

 刃物を差し込んでくるような問い。驚きかけたサァリは、しかし我に返って背筋を伸ばすと、従兄弟を睨む。

「それについては口出し無用と、以前も言ったはずです」


 月白やアイリーデについて、王都の人間に何かを言わせるつもりはない。

 サァリがウェリローシアのやり方にあまり口を出さぬのと同じく、彼らにはそれぞれ領分というものがあるのだ。

 余所に嫁いだ母のことがあるから言われるのだろうが、だからといって不遜を許すつもりはない。


 サァリの視線は、ヴェール越しに血族である青年を射抜く。しかしヴァスは怯むどころか口元の片端を上げて微笑っただけだった。

「なるほど。よく分かりました」

 青年は彼女の荷物を持ったまま、正面奥の階段に向かって再び歩き出す。

 その背を蹴りつけてやりたいと思いながら、サァリは黙って彼に後についていった。




「ああああ、もおおお! ちくちくうるさい!」

 寝台に置かれた枕に、思い切り拳を叩きつける。

 そうして枕を殴り続けていたサァリは、ついに息を切らすと、寝台へ仰向けに転がった。

 鬱陶しいヴェールは既に外して、今は素顔である。

 だがこうしていられるのも屋敷内だけのことであり、ヴァスならば「自室から出ないでください」と言ってくるところだろう。彼にとっては、ウェリローシアの当主は人形であった方がずっと都合がいいに違いない。


 慣れないドレス姿のサァリは、広い寝台をごろごろと転がった。

「……なんでこんなに腹立つんだろ」

 言われている内容としては、もっともと言えなくもないが、ヴァスの口から発されるとやたらと苛立ちを刺激される。

 おそらく声音や嘲りを含んだ視線が原因なのだろうが、どうせならもっと穏便な会話をしたい。

 これに加えて彼の姉が帰って来たらどうなるのか。サァリは夕食時のことを考えて気鬱になった。このまま朝まで眠ってしまいたい誘惑に駆られる。


 しかしそうして転寝をしかけていた彼女は数分後、扉をノックされる音に跳ね起きた。

 またヴァスが戻ってきたのかもしれない。慌てて身なりを整えながら、サァリは返事をする。

「はい、誰?」

「……お客様がいらしています」

「え?」

 その声はヴァスのものだったが、一体どんな客がここにサァリを訪ねて来るというのだろう。

 やって来るとしたらトーマくらいだろうが、ヴァスはトーマを客とは言わない。

 サァリは不可解さに用心しながら、元通りヴェールを身につけた。姿見で己を確認すると、緊張を飲み込んで扉の鍵を外す。


 ―――― そこに立っていたのは、予想だにしなかった相手だった。


 黒髪の化生斬りは、いつもと同じ居心地の悪そうな表情で、雰囲気の違うサァリを見やる。

 自警団の制服ではなく、王直属の士官姿である青年。彼は、顔の見えない少女に眉を寄せた。

「サァリーディか?」

「シシュ!」

 息苦しく思う場所で知己に出会うと、こんなに嬉しいものなのか。

 思わず飛び上がったサァリは、その勢いのまま青年に抱きついて―――― 二人の顔を思いきり引きつらせたのだった。

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