第23話 誤解



 部屋の窓は、子供の身長には少し高い位置にあった。

 小さなサァリが背伸びをしてようやく桟に届くかという窓。

 庭に面している王都の屋敷のその窓は、幼いサァリにとって「外」を窺い知れる数少ない場所のひとつだった。

 外出を禁じられ、一日中薄暗い部屋で過ごしていた時代にはよく、彼女は椅子をそこにおいて中庭を見下ろしていたものだ。


 記憶にあるその日もサァリは、重い椅子を懸命に動かして桟の下に置くと、窓から外を眺めていた。

 季節は春であったのだろう。植え込みには白い花が咲き乱れており、下に落ちた花びらを下女が掃いていた。

 まるで代わり映えのない眺めは時間が停滞しているようで―――― だがその景色の中に、不意に一人の少年が駆け込んできたのだ。


 同じ祖母を持つ従兄弟の少年は、片手に厚い本を抱えて中庭を横断しようとしていた。

 だが、ふと足を止めると視線を上げる。

「あ……」

 三階の窓から彼を見ていたサァリは、突然視線があったことにぎょっとした。ほんの少し開けてある隙間から、外の風が吹き込んでくる。

 少年は訝しげに彼女を見上げたままだ。


 ―――― 何か言った方がいい。


 久しぶりに会う従兄弟に向けて、サァリは焦って口を開く。

「ね、あの……」

 昔の夢は、そこで途切れた。





「ゆ、夢見悪い……」

 呟きは、それを聞いたサァリ自身の意識を現実へ急速に押し上げた。

 離れにある自室で目覚めた少女は、仰臥したまま額の汗を手の甲で拭う。すっかりはだけた寝間着の胸元にも、じっとりとした重苦しさがこびりついていた。

 サァリは髪をかき上げながら体を起こす。


 ―――― あんな夢を見てしまったのは、蔵開けが気にかかっているからだろうか。

 祖母が死んで当主を引き継いだ彼女にとって、単独で蔵開けに立ち会うのは初めてのことだ。

 何も気にするようなことはないと思いながら、実は何処かで不安に思っているのかもしれない。

 実際、王都にいる二人の従姉弟に苦手意識を持っているサァリは、蔵開けの予定をあまり楽しいものとは捉えていなかった。


「あの時もなぁ……」

 先程の夢の続きは、確か散々なものだったのだ。

 子供の記憶である為、ぼんやりとして穴だらけなのだが、最終的に従兄弟である少年と激しい口論になってしまったことは覚えている。

 今でも耳に残る『一人じゃ何もできないくせに!』という彼の言葉を思い出し、サァリはむっと顔を顰めた。


 昔のことを思い出して今更腹を立てるのもどうかと思うが、これに関しては今でも従兄弟の見解は変わっていないのだ。

 彼と顔をあわせる度に、力不足の小娘と揶揄されるサァリは、苛立ちのまま勢いをつけて立ち上がる。

「大体、年だってそう変わらないのに」


 ―――― 十六歳の自分を若輩というのなら、十八歳の彼も大差ないと思う。

 そんなことを考えながら風呂へ向かおうとしたサァリは、しかし姿見に映る自分に気づいて足を止めた。右手の袖を捲くってみる。

「……何これ」

 寝る時までは確かに何もなかった。

 にもかかわらずサァリの右手首には何故か、人の手の形をした痣が赤く沈んで残っていたのである。




 ―――― 不可解なことを経験したのは初めてではないが、原因が分からないのはやはり気持ちが悪い。

 汗を流して仕度を終えたサァリは、しきりに首を傾げながら火入れの為に玄関へと向かった。

 三和土を掃き清めていた下女が、彼女に気づいて頭を下げる。

「主様」

「手を出して」

「え?」

 怪訝そうな少女に重ねて催促し、サァリは左手を出させた。それを自分の右手に残る痣に重ねさせる。


「うーん……全然大きさ違う。男の手とか?」

「ぬ、主様、それは一体……」

「幽霊かしら」

 適当に思いついた可能性を口にすると、下女は「ひぃっ」と小さく悲鳴を上げた。

 それは冗談としても、他に心当たりなどない。サァリはこの月白に、幽霊は入ることが出来るのか真剣に考え始めた。

「普通の化生は入れないはずなのだけど……そもそも幽霊って一体何なのかな」

「何言ってるんだ? サァリ」

「あ、トーマ。いいところに」

 火入れの前に兄が顔を出すとは珍しい。サァリは玄関に入ってきたトーマを手招くと、先程と同じようにその左手を痣の上にあてた。


「うー、トーマよりはちょっとだけ小さい?」

「……誰につけられた」

「それが分からないの。起きたらついてた」

 剣呑な空気を漂わせる兄は、サァリがそう言うと「なんだそりゃ」と顔を顰めた。

「泥棒か何かじゃないだろうな」

「まさか。いくらなんでもそれだったら起きるって。部屋荒らされてなかったし。っていうか、もう別にいいかな……」

「よくないだろ」

「いいの。幽霊に殺される私じゃないもん」


 ―――― それに実際、煩わされているのが面倒になってきた。

 サァリは、まだ問題にしたそうな兄の前で袖を戻すと、彼が持っている封書に目を留める。

「それは?」

「ああ、お前に預かってきた」

 そう言って渡された封筒は、表にも裏にも何も書かれていない。けれどサァリはすぐに、それが生家からのものであると分かった。

 蔵開けについて書かれているのだろう。彼女は礼を言って封書を懐にしまう。見たばかりの夢のせいか、我知らず溜息が零れた。

 気づいたトーマが心配そうに覗きこんでくる。

「平気か? 何だったら俺もついてくぞ?」

「ううん、大丈夫」


 蔵開け自体が嫌なわけではない。大体ウェリローシアの人間は、トーマがあまりサァリと親しくしているのもよく思っていないのだ。

 これに関しては関わる全員が体面というものを弁えている為、今まで問題になったことはなかったが、サァリとしてはわざわざ兄を針の筵に座らせたいとは思わなかった。

 軽く目を閉じて、気分を切り替えた少女は、青い瞳をトーマに向ける。

「ちゃんとやってきます。ありがとう」

 ―――― それが出来なければ、自分は自分である資格がない。

 サァリはアイリーデの為にも、そしてウェリローシアの他の人間たちの為にも、毅然と立たねばならないのだ。



 ウェリローシアからの手紙は、彼女の従兄弟の名で日程と必要事項だけが書かれていた。

 そっけない内容ではあるが、サァリにとってはその方が煩わしいことがなく助かる。

 一週間後には館を空けることが決まった彼女は、それまでに少しでも雑事を片付けておく為、黙々と仕事をしていた。

 あちこちの品を確かめ、不足があれば補充を手配し、出入りの商人の相手をする。

 女たちの様子を見て回り、変わりがないことを確認したサァリは、日も変わった夜更け過ぎ、ようやく休憩の時間を取った。

 十数人の女がくつろいでいる花の間で、長椅子に座り白茶を飲む。

「今日はもう誰も来ないかな……」

 元々客自体多くない月白だ。この時間になってから人が来ることなどほとんどない。

 女たちもそう思っているせいか、数人は床で輪になって駒遊びに興じていた。


 時間の流れが緩やかな中、窓越しに庭を見ていたサァリは、扉が開く気配に顔を上げる。

 そこには下女と、紺色の制服の大男が立っていた。

 アイリーデの化生斬りの一人「鉄刃」は、立ち上がったサァリに頷く。

「巫よ、いいだろうか」

「参ります」

 彼の要請ならば、着替える必要はないだろう。サァリは左手の腕輪だけを確かめると、鉄刃のもとに駆け寄った。

 並んで廊下を行きながら確認する。

「年恰好は?」

「二十過ぎの娼妓だ。朱色の着物に茶色の髪。三表の通りで複数目撃報告が入った。被害はまだ出ていない」

「ああ……早く片付けねばなりませんね」


 三表の通りは、アイリーデの中でも夜に賑わう大通りの一つだ。

 そのようなところを歩いているとは、直接人を害する種の化生ではないのだろうが、放っておけば面倒なことになる。

 特に娼妓の格好をした化生は、人を狂わすことが多いのだ。

 外に出た二人は、人通りも少ない夜の道を歩き出した。月白の館が見えなくなった頃、鉄刃がぽつりと口を開く。

「……新入りは、ちゃんと巫を労わっているか?」

「え?」

 脈絡のない話に目を丸くしたサァリだが、それがシシュについて聞かれているのだとは分かった。

 鉄刃の意図もよく掴めないまま首肯する。

「はい。彼なりに」


 シシュの要請に応えると、あちこちをひたすら走ることになるのだが、それにも段々慣れて来た。むしろ体力がついていいかもしれない。

 だが暢気に微笑む少女に、鉄刃は何故か難しそうな顔になった。丸い目が軽く細められる。

「まだお互い若いから、今はそれでもいいのだろう。だが巫よ、あまり遠慮して相手を自由にさせていると、結局は相手の為にならぬぞ。街での評判が落ちる」

「そうなのですか…………あれ?」


 ―――― もっともらしく、何か違うことを言われた気がする。

 そもそも巫と化生斬りは、一対一であるなら基本対等なのだ。

 勿論、巫は代わりがおらず、化生斬りは兵士だという違いはあるが、巫に化生斬りの行動を制限する権利はない。

 それともアイリーデの不文律を知らないシシュが、何か問題を起こしてしまったのだろうか。


 悩むサァリに、鉄刃は重々しく続けた。

「懐妊すれば巫の力が一時的に使えなくなることを気にしているのだろうが、その必要はない。後継を作るなら早い方がいいのだし、相手が化生斬りであるなら、巫を守るにも不足はないだろう」

「…………」


 ―――― 多大な勘違いをされている。


 おそらく原因は、以前飾り紐を渡した時のことなのだろう。事件が終わった後に飾り紐は返してもらい、主要な人間には事情説明をしたと思ったのだが、あろうことか鉄刃がそこから洩れていたらしい。

 サァリはどう説明すべきか困惑して、心の中で兄に助けを求めた。―――― しかし現実逃避をしても、事態は解決しない。


「あの、誤解があります……」

「アイリーデを離れる際には、あの男も連れて行くといい。何処で何があるか分からん」

「いえ、あの……彼はそういう人間では……」

「もうすぐだ、巫よ」


 鉄刃の言う通り顔を上げると、すぐそこには華やかな灯りに彩られた通りが迫っている。

 軽やかな楽の音。行き交う人々の流れを、サァリは眩しげに眺めた。鉄刃が彼女の肩を叩く。

「そこの角に」

「はい」

 言われた通り彼女が通りの角に立つ頃には、鉄刃の姿は何処にも見えなくなっていた。

 サァリは話に聞いた化生の容姿を反芻する。

「……朱色の着物に茶色の髪……二十歳過ぎの娼妓」

 鮮やかな着物を着た娼妓は、道を行く者たちの中にもちらほら混ざっている。

 だが今のところ、言われたような女は見えない。サァリは意識を集中して、通りを見つめた。心の中で数を数え始める。


 ―――― 鉄刃の仕事に間違いはない。

 彼はいつでも揺るがない人間だ。その刃は確実に、標的たる化生を両断する。

 だからサァリは言われた通り、夜の角で待った。


 心の中の数が五百を越えた時、誰かに追われるようにして四つ先の角から女が現れる。

 しきりに背後を気にしながら人波に紛れる娼妓は、まるで夜を飛ぶ蝶のようだ。ちらちらと人の隙間から見える朱色の着物が、堤燈の灯りを吸い込んで昏い。垣間見えるその姿を、サァリは息を止めて注視した。


 女はゆらゆらと、彼女の方にやって来る。背後しか見ていない娼妓は、巫の存在に気づかない。

 サァリはそうして角を離れ、人の波に乗った。白い指を軽く鳴らす。その先を―――― すれ違う女へと向けた。

「―――― 縛」




 囁く声は、雑踏に掻き消される。

 短い悲鳴を上げ蹲った娼妓を、サァリは振り返ることはない。

 彼女はそのまま人の流れに乗って、大通りを泳ぐ。四つ目の角で足を緩めると、そこで待っていた男に微笑んだ。

「ご武運を」

 紺色の制服を叩く指は一瞬沈んで、だが鉄刃は顔色を変えない。

 サァリはその背を見送ると、改めて賑やかな通りから帰路へとついたのだった。




「あ、誤解解いてない……」

 そのことに彼女が気づいた時には、既に月白についていた。

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