第弐譚
第22話 金平糖
城の謁見室は、謁見室とは名ばかりの温室だと、シシュは思っている。
日頃多忙な王が、趣味である花を育てる為に作った広間。大きな窓を何枚も持ち、気温も計算されたそこには、大陸中から集められた鉢植えが、処狭しと並べられている。
薄紅の花弁を持つ大輪の牡丹は特に王のお気に入りで、最近は中庭にまで進出しているらしい。
もっとも王自身は、自らの手が及ぶこの部屋での世話を望んでおり、庭にまで鉢がはみ出ている事態を憂いているとも聞く。
噎せ返る花の匂いに囲まれて、床に膝をつくシシュは、花の手入れをしている主君を見上げた。
金糸の刺繍が施された白の外衣。王だけに許された豪奢な衣裳は麗しく、見る者に生来からの高貴さの存在を信じさせる。
後ろで一つに結われた艶やかな黒髪。十代の頃は女性に間違われることも多かったという横顔は、今は穏かな微笑を湛えていた。
シシュは溜息を飲み込んで、言を続ける。
「……ですから、正直なところをお聞かせ願いたいのですが」
苦みを出来るだけ抑えるよう努力した声は、けれどその努力も空しく恨み言同然にしかならなかった。
剪定鋏を手に鉢を覗き込んでいた王は、顔を上げると首を傾ぐ。
「おかしなことを言う。報告を聞かせてもらう立場であったのは余の方だ。労い以外に何を言えと?」
「アイリーデに私を送った本当の理由についてです」
分かりきったことでも、問い詰めなければ話は進まない。
思い切り顔を顰めている異母弟を、若き王は笑顔で見下ろした。
「真意を見せない面のような貌」とも影で称される秀麗な顔は、しかしシシュからすると悪戯大好きな悪童と大差なく思える。
王は鋏を持った手を、ゆったりとした衣の袖にしまうと嘯いた。
「本当の理由とは? 余はアイリーデの視察を頼んだだけだ」
「では報告も終わりましたので、近々王都に戻らせて頂きます」
「《彼女》を置いてか?」
揶揄にしか聞こえないその切り返しに、シシュは歯軋りをかろうじて堪えた。「冷静に冷静に」と空しくも自らに言い聞かせる。
―――― しかしその苦労は次の瞬間、無に帰した。
王はいつも通りの笑顔で、だが目だけは笑わぬまま青年を見下ろす。
「勝手に帰って来るなどとんでもないな。一度捧げたものを、こちらの都合で取り下げては見識を疑われる。ましてや相手が神であるならな」
「…………」
―――― やはりそういう狙いだったのか、と。
確認したシシュは、そのまま脱力して床へ同化しそうになる。
こんなことなら本当にただの臣下のままでいたかった。王族として政略結婚を振られる可能性は考えていても、さすがに神供にされるなど想定外である。
しかも相手はまだ子供の域を脱しきっていない少女なのだ。
ふつふつと沸き起こる頭痛に、シシュは主君への苦言を考え始める。
それら反論が全て捻じ伏せられるだろうことは、やる前から既に分かっていた。
※
古き世に、神への捧げ物として作られた街、アイリーデ。
時代が変わり、国が変わってもなお緩やかな繁栄を続けるこの街には、神供正統と称される三家が、神話時代からの伝統を受け継いで存在している。
邪悪なる蛇を討伐した代価として、神が欲したという美酒と音楽と人肌。
そのうちの最後の一つを司る妓館「月白」は、街の北はずれ、雑木林の中にひっそりとその門を構えていた。
日も暮れかけた時刻、玄関に吊るされた灯り籠へと火を入れたサァリは、石畳を濡らす霧雨に目を細める。
客の大半が常連ばかりであるこの妓館には、客寄せも派手な明かりも必要ない。
だがそれでも、このような陽気の夜には、足下を照らす光が必要になるだろう。サァリは中にいる下女を振り返った。
「傘と堤燈を持ってきて頂戴。今日は表門でお客様をお迎えします」
「はい、主様」
そう言ってすぐさま戻ってきた下女が、羽織物をも持ってきたのは、主であるサァリの体を冷やさぬようにだろう。
少女はその気遣いに礼を言って傘を開いた。白い半月が染め抜かれた薄青の傘は、サァリの帯と同じ意匠だ。
街の人間であれば見ただけで持ち主が分かる傘を手に、少女は路に面した門へと向かう。まもなく予想通り、見知った顔が角を曲がって現れた。
今日は二人の人間を連れているトーマは、門先に立つサァリに気づくと微笑む。
「サァリ、寒くないのか」
「大丈夫。ありがとう。―――― それで、今日のお連れ様は?」
「うちの新しい職人だ。挨拶に連れて来た」
「ああ」
言われて見てみるとトーマの隣にいる人間は、サァリと大して年も変わらないであろう少年だ。
先日の事件でラディ家の酒蔵も大分人手が足りなくなったという。その補充として連れてこられた見習いなのだろう。
サァリは門のすぐ前まで来た彼に、そっと大きな傘を差しかけた。優美な笑みで挨拶する。
「月白の主、サァリです。どうぞよろしく」
金色の髪を短く刈り込んだ純朴そうな少年は、そう言われても何処かぼうっとサァリに見惚れていた。
アイリーデの空気に慣れていなさそうなその様子は、他の妓館にとってはいいカモにしかならないだろう。
トーマが少年の後頭部を叩く。
「こら、ちゃんとしろ」
「あ……テテイです。よろしくお願いします……」
ぺこりと頭を下げたテテイを、トーマは門の中へと押しやった。次いで先程から無言でいる背後の青年を、親指で示す。
「で、こっちは王都から戻ってきたばかりのところを捕まえた。飯出してやれ」
「はい」
いつも苦い顔の青年は、霧雨のせいか普段より二割り増し顰め面に見えた。
雨避けを羽織る間もなく引っ張って来られたのだろう。シシュの湿った髪に気づいて、サァリは首を傾げる。
「先にお風呂にする?」
「要らない」
より一層苦い顔になる青年と、それを聞いて大笑いしだす兄。
二人の不可解な反応をサァリは怪訝に思いつつ―――― この夜最初の客を迎えた。
元々どのような客が来てもいいように、十数種類のお茶を常備していた月白だが、シシュがアイリーデに来てからその種類はほぼ倍増した。
意識しているわけではないが、珍しい茶葉を見るとつい彼が喜ぶかと思って買ってしまうのだ。
サァリは、この日も主としての仕事が一段落すると手ずからお茶を入れ、彼らのいる部屋を訪ねる。
職人の少年は先に帰ったのだろう。ちょうど食事を終えていたトーマとシシュは、座卓の上に珍しく酒盃を広げていた。
といってもシシュの盃に入っているものは、薄紅色の金平糖だ。化生斬りの青年は、盆を持った少女を一瞥するとその盃を彼女の方に押し出した。
サァリは二人にお茶を出しながら問う。
「何、これ」
「王都の土産だ。と言っても巫に王都土産もないと思うが」
「貰ってもいいの?」
「いい。もう一袋あるからそれも置いていく」
断って一粒口に入れると、上品な甘さで実に美味しい。アイリーデにある店ならば仕入れを考えるくらいだ。
王都に生家があるとは言え、ほとんど外に出たことがないサァリは、薄紅色の菓子に顔を綻ばせた。
「すごく美味しい」
「王室御用達ってやつだろ、それ」
「え、そうなの?」
「そうらしいな」
自分の土産物であるにもかかわらず何故か投げやりなシシュは、自らのお茶に口をつける。
そうすると少しだけ眉間の皺が和らぐのを、サァリはいつものように興味深く眺めた。
王都から直接来たとあって制服姿ではないのも面白い。灰色を基調にした洋装は、あっさりとしたもののせいか普段よりも彼を若く見せていた。
じっと見つめてくるサァリに、シシュは居心地が悪そうに茶碗を置く。
「……なんなんだ一体」
「シシュは王都で何してきたの?」
「主君に報告をして家に顔を出した」
「ああ、お兄さんなんだよね」
シシュと現王が異母兄弟であるということは、王からの手紙を読んでサァリも知っている。
しかしそれを口にすると、黒髪の青年はまるで歯軋りしたそうな顔になった。
「俺はあの方を兄と思ったことはない。主君は主君だ」
「そうなの? 私とか別々に育ってもトーマ大好きだけど」
「一緒にするな。まったく違う」
よくは分からないが、おそらく複雑なものがあるのだろう。サァリは兄の手招きを受けてその隣に座りなおした。
「ほっとけほっとけ。苛められてやさぐれてるだけだ。それよりサァリ、お前もそろそろ王都に戻る時期だろ」
「あ、蔵開け……」
月白の店はアイリーデにあるが、代々店を継ぐ家系ウェリローシアは、王都に屋敷を持っている。
最近はほとんど帰っていないが、サァリの家は王都の屋敷であり、現当主として年に一度は蔵の整理に立ち会わなければならない。
主の仕事が忙しくすっかり忘れていた予定を、サァリは思い出して呆然とした。
「あー……予定連絡してない」
「そろそろ向こうから来るだろ。今年は王都の祭りに重なってるしな。向こうも慌しいんだろ」
「そうなの?」
蔵の中には不思議な力を持ったものも多い為、そういった力が弱まる新月の夜に整理することが常となっている。
たまたまそれが今年は、祭りの日に重なったのだろう。サァリ自身は関わらないが、王都の名家たちは、祭りとなれば少なからずそれに労力を割かねばならない。どれだけ祭りの為に喜捨をしたか、酒や食べ物を人々に振舞ったかが、その家の器として判断されることもある。
躍起になって競い合うわけではないが、ウェリローシアもラディ家もこの時期は忙しくなるはずだ。
アイリーデで暮らしているとつい生家のことを忘れてしまうサァリは、王都の屋敷にいる従姉弟二人を思い出した。
「でもそれなら私、かえって気が楽かな。向こうが忙しいなら色々言われなくて済むし」
「どうせ蔵開けの時には顔を合わせるだろ。適当に聞き流しとけ」
「うん」
兄に頭を撫でられ、サァリは金平糖を一粒摘む。
だがそれを口に入れようとした時、彼女はシシュが向かいで顔を顰めていることに気づいた。
「あれ、食べちゃ駄目?」
「違う。―――― 巫は生家に戻ると何か言われるのか?」
「そりゃあ、今あの屋敷にいる人間は、こいつの正体を知らないからな。不出来な母親を持つただの若輩扱いだ」
ぽんぽんと頭を叩かれながら金平糖を齧る少女を、シシュは理解しがたいといった目で眺めてくる。
だがそれは、彼女の扱いが理解出来ないという意味の視線だろう。サァリは少し困ってこめかみをかいた。
「別に苛められているわけじゃないから大丈夫。若輩は本当だから口煩く言われるのは仕方ないの」
実際、王都におけるウェリローシアの立ち振る舞いについては、ほとんど知らないと言っても過言ではないのだ。
サァリはウェリローシアの当主としては表に出ることは決してない。お飾りとまではいかないが、対外的にはそれに近い状態だ。
祭りの準備なども従姉弟たちが率先して行っており、彼らからするとサァリは単なる何も出来ない当主でしかないだろう。
―――― それでも、アイリーデのことについては、彼らに口出しさせる気はない。
サァリは指についた紅を、手布で拭った。
「そういう訳で、今月は新月付近は街を空けます。何かあったらすぐ戻ってくるから」
「……分かった」
化生斬りたちには迷惑をかけてしまうが、手早く作業を進めればそう何日も不在にしなくて済むだろう。シシュはともかく他の化生斬りは毎年のことと承知している。
仕事に戻ろうと立ち上がるサァリの背に、トーマは穏かな声で付け足す。
「サァリーディ。そろそろ新しい化生斬りを呼ぶからな」
「…………」
―――― 本来五人いるはずのアイリーデの化生斬りは、今は一人欠員が出たままの状態だ。
だがそれも、いつまでもそのままにしておくわけにはいかない。巫が街を空ける新月が控えているなら尚更だ。
サァリは虚を突かれて、先日の事件によって街を去っていった男を思い出す。
アイリーデを追放された彼に二度と会うことはない。だがそれでも、空席が空席のままならいつかまた会えるような気がしていたのだ。
サァリは、唇を微かにわななかせて嘆息を飲み込んだ。
「……うん、お願い」
そう頷いた時、自分の中の子供時代が一つ、音を立てて扉を閉ざしたように、彼女には思えたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます