第20話 結



「風邪引いた……」

 小さなぼやきは、他の人間には聞こえなかったようだ。

 広い寝床で転がっているサァリは頭痛のするこめかみを押さえる。普段使わぬ主の間に寝かされている為、周りには何も退屈を紛らわせるものがない。

 だが、自室に人を入れたくないとごねたのは自分なので、ここは我慢するべきだろう。


 じたばたと暴れていると、隣の座敷にいたイーシアが気づいて覗きに来てくれる。

「起きたの? 飴湯でも飲む?」

「飲みたい……」

「ちょっと待ってて」

 微笑んで出て行った女を、サァリは大人しく待つことにした。

 子供の頃はよく力に引きずられて熱を出し、女の人肌でそれを緩和されていたものだが、本当の風邪ではどうすることも出来ない。先日の事件時、裸同然の姿で歩き回ったというのだから、どう考えてもそれが原因だろう。


「力使いすぎると記憶がなくなるってのがなぁ……寒い夢見るし」

 自分が変わっている間のことも、見ていた夢のこともよくは思い出せないが、それはどうにも孤独を思わせて好きではないのだ。自分一人だけが人間ではないのだと思い知る。


 そんなことをトーマに言うと、「お前はまだ神供の男を迎えてないからだろ」と笑われるのだが、伴侶に等しい男を迎えたところでこの孤独が本当に拭われるものなのか、サァリはまったく自信がなかった。

 彼女は白い布の上に溜息を吐き出す。


 ―――― アイリーデに起きた異変の件は、彼女の記憶がないうちに終息したらしい。


 まだ詳しくは聞いていないが、事件を通じて少なくない犠牲者が出たことは知っている。その犯人であったブナン侯が王都に連行され、処分を受けるのだということも。

 ブナン侯の支援者など、この一件に関わった他の者たちにも、多かれ少なかれ相応の処分が下されるというが、それには王の判断も働いているらしい。

「詳しいことはシシュに聞け」と兄は言っていた。だがシシュには、飾り紐を渡して以来一度も会っていないので聞きようがない。サァリはそのことを少し淋しく思っていたが、誰に言うようなことでもないので黙っていた。


 そこまでを辿った彼女は、もう一人の男の行方に思いを馳せる。

 左目を失ったアイドは、アイリーデを追放された。

 本来なら彼は、父親の所業を知りながら傍観していたということで、やはり王都で処分を受けるはずだったのだが、神供三家がそれを拒否したのだ。

 アイリーデの化生斬りは、アイリーデの不文律によって裁かれる。追放を提案したのはトーマであり、「この方があいつには堪える」と主張して通したのだが、或いは兄は、サァリが口に出来なかった願いを汲んでくれたのかもしれない。処分を下されたアイドは、何を言うこともなくこの街を去っていったという。


 別れの挨拶も出来なかった男が、今何処で何をしているのか。

 サァリはじっと己の掌を見つめる。胸の奥で強い喪失感が疼いた。

「私が大人になったら……」

 彼が早すぎたのか、自分が遅すぎたのか。

 その答は、いつか得られる気がした。




 飴湯を持って戻ってきたイーシアは、恋人をもまた伴っていた。

 病床の妹の頭を撫でてトーマは枕元に座る。

「ゆっくり休めよ。無理すると体に残る」

「うん」

 イーシアが作ってくれた飴湯は、ほどよい甘さで体が温まる。ほくほくとそれを飲むサァリに、トーマは一通の封書を差し出した。


「何これ?」

「後で見ろ。王からの手紙だ」

「手紙?」


 事件の後処理に関することだろうか。正統とはいえ、妓館の主にわざわざ王が書面で連絡するとは変わっている。

 サァリはそれを受け取ると、手元で裏返した。差出人のところには、確かに王の名が記されている。

「何だろ」

「弟をよろしくとかそんなんだろ」

「弟って誰。私の知ってる人?」

「ま、そのうちな。今は自分の体を治すことだけ考えろ」

「うん」


 寝込んでいて動けない彼女と違って、兄は多忙であるらしい。

 早々に立ち上がったトーマに、サァリは用事を思い出すと慌てて声をかけた。

「ね、トーマ、頼んでいい?」

「なんだ?」

「あ、あのね、シシュに渡したものがあって……それを受け取って返してもらいたいんだけど」


 あの飾り紐は、特別な意味を持つものなのだ。いつまでも彼に渡したままでは、迷惑をかけてしまうだろう。

 だがそう言った彼女に、トーマはいい笑顔を向けてくる。

「分かってる。まだお前には早いからな」

「う、うん。あれ、何だか知ってるの?」

「知ってる知ってる。大丈夫だ。あいつも往生際が悪いみたいだが、ちゃんと責任取らせてやるからな」

「責任って何……」

「いずれ毎晩この部屋に来るようにしてやる」

「トーマ! 私そんなこと頼んでない!」


 叫んで抗議したものの、兄は笑いながら出て行ってしまった。取り残されたサァリは真っ赤になった頬を膨らませて飴湯を飲む。

 イーシアのひんやりとした手が、額に添えられた。

「熱は下がったかしら」

「うん……」

「何か欲しいものがあったら言って」

「大丈夫。ありがとう」


 甘く温かい味は、体を芯から温める。それに加えて大好きな人たちがいるのだから、他に欲しいものなどない。自分はきっと孤独ではない。


 サァリはそう己に言い聞かせると、広い寝台へ横になった。

 もう少し眠ろうと目を閉じた時、隣の座敷からイーシアの誰何する声が聞こえてくる。誰かが訪ねて来たのだろう。戸が開かれる気配がした。

「サァリ、お見舞いの方がいらっしゃったわ」

「え、ちょっ、なんで」


 ここは月白の主が客を迎える為の部屋だ。

 サァリが知らないうちに身内以外の人間が通されることなどあり得ない。

 ましてや今は寝間着でいるのだ。一体誰が来たのか、彼女は慌てて上を羽織る。

 崩れた着物の合わせ目を寄せて、何とか体裁を保とうとした。それでも不恰好な姿なのは変わりない。頭から掛布にもぐりこんだ方がましかもしれない。


 サァリが諦めきれず乱れた髪を撫で付けていると、やって来た客が姿を見せる。サァリはその顔を見て瞠目した。

「あ……」

 理由は分からない。ただ安堵する。

 胸に満ちてくる温かさに、彼女は顔を綻ばせた。気まずそうな相手に微笑みかける。

「―――― 来てくれてありがとう」

 そうしてサァリは改めて、彼の名を呼んだ。




【第壱譚・結】

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