第19話 顕現



 とても寒い。

 冷たい中を一人でいる。

 暗くて、淋しい。

 石室には他に誰もいない。ここは、神の室であるからだ。

「さむい……」

 口に出すと、余計に孤独感が増した。サァリは裸の体を抱きしめて、辺りを見回す。


『お前の力は強すぎる』

 そう祖母に注意されたのは子供の頃のことだ。

 その頃サァリはまだ、自分の力がどのようなものか分かっていなかった。だから半月を過ぎているにもかかわらず、禁を破って化生を縫おうとしたのだ。


 彼女の祖は、太陽を兄とする月の神だ。その為、月が満ちていればいる程、彼女の力は強くなる。

 それを知らなかったサァリは、結果として一人の化生斬りを死に瀕させた。人の体が、満ちてきた彼女の力に耐え切れなかったのだ。

 心臓を傷めた化生斬りはアイリーデを去り、彼女は王都の館に戻された。そして言われたのだ。「強すぎる」と。

 その日から、サァリは力を抑える腕輪を常に身につけ、また決して半月を越えて力を振るわぬようになった。


 月白の巫とは、いわばアイリーデの核そのものだ。神の血と力を継ぐ女。その座として、この街は存在している。

 なのに、蛇を封じ人を守る役を負った自分が人を害してしまっては本末転倒だ。アイリーデは返礼として神に与えられた街だが、王の血をも継ぐ女たちには、平定の義務が同時に受け継がれている。

 サァリもまたその役目を担う一人だ。だからこそ巫として主として、努力を重ねてきた。


 ―――― だが自分はまた、何かを間違ってしまったのだろうか。


 家族に会いたい。誰かに触れたい。

 そう思いながら、だが誰の姿も見つからない。ただ寒い。サァリは膝を抱えて蹲る。

 淋しいから眠ってしまおうか。

 俯いたサァリは、しかし不意に、名を呼ばれた気がして顔を上げた。

 誰かいるのだろうか。彼女は立ち上がる。立って人の姿を探す。


 その時、彼女の手に、そっと誰かの温もりが触れた。




「あああああああっ!」

 その絶叫は、よく知る少女のものでありながら、まったくの別人であるようにも聞こえた。

 穴の上に浮いている女。彼女は意識のない男の手を引いて、何もない中空に立っている。

 蛇たちに食い荒らされたのだろう。白い着物はずたずたに引き裂かれており、胸元も細い脚もあらわになっていた。

 小さな足や手は泥と血に汚れ―――― だが痛々しい姿のはずの彼女は、異様な程に美しい。


 長い銀髪は風もないのにたなびき、それ自体が光を宿しているように思える。細い肢体は艶かしさよりも、触れてはならぬ清冽さを放ち、それでいて見る者の目を離さぬ強い引力を持っていた。

 銀の睫毛が双眸に翳を落とす。何処を見ているのか分からぬその瞳は粛然として、花弁のような唇も固く結ばれたままだ。


 屈託なく微笑んでいた少女とはまるで違う―――― それ以上にシシュは、彼女を一目見て「人ではない」と直感した。場を支配するその気に飲まれそうになって、彼は息を吐き出す。隣のトーマが声を潜めて囁いた。


「無礼を働くなよ。あれはサァリであってサァリじゃない」

「神の寄代ということか?」

「違う。あいつ自身が神なんだよ。ただ意識の層が違う。今のあいつは上位存在だ」


 サァリは地下室の有様を睥睨すると、ゆっくりと宙を歩き出す。その姿を仰いだ蛇たちはさざめいて逃げ出し、穴の縁は空隙となった。彼女は何もいなくなったそこに降りると、アイドの体を地面に下ろす。

 人ならざる青い双眸が、異形となった呪術師を捉えた。


「おや、懐かしい気だな」

 透き通る声は、普段の彼女のものより若干低く、そして艶やかだ。

 蛇代は神の声に、膨らんだ顔を引きつらせた。

「あれで生きていたとは」

「随分と私を侮ってくれたようだ。力が安定しないのは、人の器に余るというだけのこと。今となっては、このようなものも要らぬ」

 左手の二つの腕輪を、少女は笑って投げ捨てる。力を抑え制御する為のそれを、彼女は踏みつけて前へ出た。嫣然と唇を歪めて、白い手を伸ばす。

 額を指さされた呪術師は、赤い目を憎悪でぎらつかせて彼女を見た。


「ならばこの手で直接あなたを引き裂いて、主への供物といたしましょう」

「やってみるがいい」


 蛇代は、それを聞くなり地面を蹴った。

 大きく跳躍しながら、丸太のようになった腕を振りかぶる。

 だが、自分を叩き潰そうとするその手を見ても、サァリはまったく動こうとしなかった。ただ白い指をくいと上に向ける。

ばく

 一言だけの呪が、蛇代の体を地に叩きつけた。苦悶の声を上げ潰れかけたその体に、サァリはふわりと飛び乗る。


 体重を持たない者のような動作。だが、鈍い破裂音がして呪術師の背には大きな穴があいた。

 地に飛び散る黒い臓腑を、彼女はくすくすと笑いながら見下ろす。

 それでもまだ生きている蛇代は、やはり人間ではないのだろう。男は彼女の足の下から這って逃げ出そうとする。サァリは白い爪先で、その肩を押さえた。


「何処へ行くつもりだ?」

「おの……れ」

「ああ、空気が悪い。息が詰まるわ」


 彼女は蛇代を踏みつけたまま、左手を払った。

 先程と同じ白い光が走り、蠢いていた蛇たちを薙ぎ払う。黒い蛇たちは、散り散りに逃げ出そうと動くが、光は小さな粒となってその一匹一匹を追っていった。


 あれ程いた蛇たちが、見る間に消し去られていく光景をシシュは唖然として眺める。思わずトーマに耳打ちした。

「最初からあれを出せばよかったんじゃないか?」

「出そうと思って出せるものか。それに出しても後が怖い。お前も責任取れよ」

「責任って」

 言い終わる間に、地下室を埋め尽くしていた蛇は、すっかりいなくなっている。


 サァリは蛇代の上でしゃがみこむと、その顔を覗き込んだ。

「もう終わりか?」

「き、貴様……」

「終わりか、そうか」

 少女の手が、おもむろに蛇代の頭へと伸びる。

 美しく白い指が肥大した頭部を掴み―――― 次の瞬間、ぐしゃりと不快な音が響いた。

 黒い頭の半分以上があっさりと潰され、醜い肉片となる。飛散した血肉から洩れる蛇の気が、黒い液体となって地面に沁み込んでいった。

 それらはみるみるうちにサァリの足下を染め、だがすぐにふっと消え去る。後には干からびた肉と崩れかけた骨だけが残った。


 彼女は喉を鳴らして笑う。

「地に溶け入って蛇に伝えよ。お前が戻れる日は永遠に来ぬとな」

 神である少女は、低く宣言すると己の手を払う。

 それがアイリーデに起きた異変の、呆気ない終わりであった。





 出すと後が怖い、とは言われたが、何が起きるのか予想も出来ない。

 すっかり人が変わってしまった少女を注視していたシシュは、不意に彼女が自分を見たことで身を竦めかけた。サァリは一見可愛らしく微笑みながら首を傾ける。


「つまらぬことで起こされた。これはもう、人が我らを必要としておらぬということか?」

「滅相もないことです」


 膝をついて頭を垂れたのはトーマだ。男は懐から小瓶を取り出すと、それを少女に向かって掲げた。

「酒は変わらずここに、ご用意しております」

がくは?」

「こちらに」

 言いながら階段を下りてきたのは、ミディリドスの長だ。彼女はトーマの隣に並ぶと同じように膝をついた。

「いつでも、あなた様のお望みの歌を奏でましょう」

「それは嬉しいな。では、最後の一つは?」

「これを」

「おい待て」

 自分を指されたシシュは、その意味を理解して凍りつく。


 神が求める最後の一つとは、彼女に伽をする男だ。

 何故自分にそのような役目が振られるのか。反論しようとした時、トーマに足を小突かれた。サァリには届かぬ小声が飛ぶ。

「責任取れと言っただろう。ここで三種を用意出来なかったら、この国は滅ぶぞ」

「は?」

「いいから膝をつけ。死にたいのか」

 あまりのことに周囲を見ると、ミディリドスの女も膝をつくよう手振りで促している。それだけでなく、黒い犬にまで裾を引っ張られ、シシュは叫びだしたくなった。


 サァリは、犬を振り払おうとしている青年を、不思議そうに眺める。

「私が嫌なのか?」

「そういう問題じゃ……」

「膝をつくのが厭か」

 少女の言葉は、それだけが原因ではないが、事実でもある。シシュは意を決して姿勢を正すと彼女に向き合った。

「俺の主君は現王ただ一人。神であっても膝をつくことは出来ない」

「現王? ならば私は、お前と引き換えにこの国を守ればいいのか?」

「それは―――― 」

 自分の足元に視線をやった青年は、黒い犬が頷いているのを見て言葉を失った。悪戯好きで、だが有能な主君の笑顔が思い浮かぶ。

「……嵌められた」


 何故自分をアイリーデに送り込んだのか。

 先視に優れた巫がついているのなら、今を予見することも可能だったろう。

 だが、王の本当の意図が分かってもただひたすら頭が痛いだけだ。


 返事をしない青年に、サァリは稚く笑いかける。

「どうした? 厭なら立ったままでも構わぬ。私がお前に欲しいものは忠誠ではない」

 少女は素足のまま土の上を歩いてくると、シシュの前に立った。しなやかな立ち姿は、肌がほとんど見えているせいでひどく扇情的だ。甘い香りが青年の鼻腔をくすぐり、艶治えんやな視線が屈せよと要求してくる。


 だがシシュは、強い圧力にも似たその魅力に眉を顰めただけで、彼女に手を伸ばさずにいた。それは目の前の女が、彼の知る少女とはまったく異なる存在と感じられたからかもしれない。

 動かない青年に向けて、サァリは白い腕を上げる。

 しかしその手は、彼の顔に触れようとする途中で止まった。青い瞳に揺らぎが生まれる。


「あ……、さ……むい」

「サァリーディ?」

 微笑んでいた少女の表情が凍りつく。

 上げかけた指ががくがくと震え、その震えはまたたくまに全身へと広がった。今にも倒れそうな様相で、彼女は自分の体を抱く。

「さ、むい……つめたい……」

「不味い、限界か」

 はっと顔を上げたトーマは、しかし神への返礼が済んでないせいか、立ち上がることが出来ないようだ。


 一人だけ少女と向き合うシシュは、震える彼女に手を差し出すべきか迷う。

 サァリの目が、さまよいながら彼を見上げた。小さな唇が微かに動く。

「―――― シシュ」

 少女の呼ぶ、己の名。

 シシュはけぶる青い瞳を見つめた。


 不安げな眼差しは、紛れもなく彼女自身のものだ。自分の無知を知りながら、はにかんで前を向く少女。

 綺麗な娘だと思った。それ以上に、すぐ必死になる姿が可愛いらしかった。女神などではない。自分の役目に懸命な、ただの、普通の少女だ。

 孤独を恐れているようなその目に、シシュはそっと手を伸ばす。冷え切った頬に触れ、彼女の体を抱き取った。


 言葉はない。腕の中に折れそうな肢体が収まる。

 サァリは目を閉じて、彼にもたれかかった。体の震えが止まり、安堵の息が零される。細い指が彼の服をぎゅっと握る。

 シシュは少女を抱く腕に力を込めた。

「サァリーディ」

 焦がれる程の熱情ではない。

 ただささやかな温度が伝わっていき、サァリは小さく頷く。

 彼女を抱き締める青年は、そうして胸の上で「あたたかい……」と囁く声を聞いた。

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