第17話 岐路
裏切られた、と思ったのはどちらなのだろう。
少なくともサァリは、目が覚めた時そのようには思わなかった。そこは見知らぬ座敷ではあったが、彼女はちゃんと布団に寝かされていて、隣にはアイドが胡坐をかいて座っていたのだ。
彼はサァリが起きたことに気づくといつもと同じように笑いかける。
「目が覚めたか。気分はどうだ?」
「普通……変な夢、見てたかも」
「どんな夢だ?」
「あなたが―――― 」
サァリはそこで言葉を切った。体を起こし、部屋を見回す。
「アイド」
「なんだ?」
「ここ何処?」
―――― 夢かと思っていた。
それくらい現実味がないように思えたのだ。アイドが、自分を裏切っていたなどということは。
サァリは後ろ手に腕輪を確かめる。二つともがまだ左手に嵌ったままであることを確認し、彼女は内心ほっとした。
だが、だからと言って状況が芳しいわけでもない。用心を表情に出した彼女を、アイドは宥める。
「ここは母屋の客間だ。離れは空気が悪いからな」
「……どうして?」
「ん? 何がどうしてだ? あのままあそこに置いた方がよかったのか?」
「違うよ! どうしてブナン侯を手伝ったりしたの?」
「血が繋がっているから、と、あの男なら言うだろうな」
男の声音はその時、まるで唾棄しているように聞こえた。聞く者を打ち据える鞭に似た声。思わず身を竦ませかけた彼女に、アイドは微笑んで見せる。
「オレがこの間まで南部の街に出かけていたのは知っているな?」
「……うん」
「その時にあの男に呼び出され、聞かされたのだ。自分が父親なのだとな。まったく、反吐が出る話だ」
「アイド……」
少年だった彼が一時期荒れていたのは、父親が誰だか分からなかったせいもあったのだという。そのような彼からしてみれば、今更と思うのも無理はないだろう。
金髪碧眼という南部に多く見られる容姿の彼は、忌々しげに顔を歪めて続ける。
「何故そのような話をするかと思ったら、オレが化生斬りであることに目をつけたらしい。アイリーデの正統三家を廃したいから、手を貸せと言ってきた」
「それで、引き受けたの?」
「断った。受ける筋合いもない。だがそう言うオレに、あの男は報酬を出すと言ったんだ」
「報酬?」
「お前だ、サァリ」
男の手が彼女に伸びる。急に腕を掴まれ、サァリは体ごと引き寄せられた。男の足の間に座らせられ、そのまま腕で拘束される。物のような扱いに、サァリは抗議の声を上げた。
「私を? でもなんでそんな」
「自覚がないのか、サァリ。月白の主を手に入れるということは、この街の人間の上に立つも同じだ。オレは、ずっとそれが欲しかった。オレを捨て、疎んじ、遠巻きにした人間たちの、鼻を明かす為にな」
「ア、 アイド」
「お前のことを知った時から考えていた。娼妓でありながら生涯一人しか客を取らない女。その一人にオレがなったら、アイリーデの面目は潰れるも同然だろう。何しろオレは問題児で有名だったからな。最初からアイリーデの由来も正統もどうでもよかった。むしろそういうものをありがたがる奴らの顔に、泥を塗ってやりたいと思ってたんだ」
碧い瞳に揺らぐものは昏い復讐心だろうか。
サァリは自分を捕らえる男が、かつてのぶっきらぼうだった少年から、そのままの影を引き摺っている気がして言葉を失った。
男の指が乱暴に簪を引き抜く。支えを失って落ちる銀髪を、アイドは掴んだ。
「サァリ、オレはお前に近づく為、化生斬りになったんだ。―――― もっとも巫がただの娼妓のように、呼ばれればどの化生斬りにでもついていくと知った時には失望したが」
男は言いながら掴んだ髪に口付ける。その眼差しには拭えぬ侮蔑が浮かんでおり、サァリは思わず唇を噛んだ。アイドはそれに気づいて相好を崩す。
「ともかく、オレはゆっくりと待つつもりでいた。お前がオレを選んだ、その後のことを」
「その後に、何をするつもりで?」
「さぁな。子を孕ませぬままお前を捨ててもよかったな。他の二家を追放するでもいい。精々好き放題やってやるつもりでいたさ」
「そんなの、無理だよ」
「無理なら無理で構わない。昔の話に拘っている奴らの、顔が真っ赤になるのを見たいだけだ」
―――― まるで子供の八つ当たりだ。
そしてそれは、真実なのだと思う。
アイドの精神は、少年だった頃からほとんど成長していない。自分を冷たくあしらった周囲への敵意から、大人になった振りをしていただけだ。
そしてサァリは、その仕返しの為の道具にされかけていたのだろう。
今まで自分に向けられていた執着の、本当の理由を知った少女は、けれど悔しさよりも強い虚脱を覚える。
「……アイリーデに意趣返しをしたいなら、私だけを狙えばよかったじゃない。ここまでしなくてもよかったでしょう」
「そういう価値観は人それぞれだと、知っておいた方がいいぞ、サァリ。それに、近道になるかもと言っただろう。オレはお前を手に入れる為に、邪魔者を排除しておきたかった」
「邪魔者って」
「トーマ・ラディ。お前が唯一目に見えて執着している男だ。……もっとも、主としての立場があるからあの男は選べないのだろうがな。にしても目障りだ」
「トーマは」
血を分けた実の兄なのだ。特別なのも当然だ。
サァリにとってただ一人の家族。だがアイドはそれを知らない。愉しそうに笑う男の指が、髪を掻き分けサァリの耳朶をなぞっていく。
「お前が悪い。サァリ。早くオレを選んでいればよかったのだ。そうすればオレは、父親を殺してお前の役に立ってやった」
「アイド……」
「もう、遅いだけだがな」
疲労感に満ちた呟きは、繕いのない彼の本音に聞こえた。
傷ついた少年のように見える表情。笑うのをやめた男の顔に、サァリは指を伸ばす。
アイドは頬に触れる少女の手を、払いのけたりはしなかった。
碧の目に映る自分の顔を、サァリは見つめる。
初めてそうして彼を見上げた子供の日、その時も彼はアイリーデを嫌っていたのだろうか。
サァリは少年の手の温かさを思い出す。彼女は何も知らぬまま、その手にずっと甘えてきたのだ。
「アイド、私は―――― 」
男の背後の襖が音もなく開く。
そこに立っていたのは人形のような呪術師だ。黒い着物を着た男は、寄り添っている二人を見下ろし微笑する。
「準備が出来ました。彼女を連れてきて頂けますか」
「ああ」
「何を……」
問い質そうとしたサァリを、アイドが抱き上げて立ち上がる。彼はそのまま呪術師の先導で廊下を歩き始めた。
一体何処に向かっているのか、嫌な予感しかしない。
サァリは男の胸を叩いた。
「アイド、下ろして」
「駄目だ。お前を追いかけるのはいい加減疲れたからな」
「私を殺すの?」
「その呪術師に聞け」
投げやりに話を振られた呪術師は、けれど振り返って笑っただけで何も言わなかった。
まもなく男は、長い廊下の途中で立ち止まる。そこには、取ってつけたような粗末な木の戸があった。
「この先です」
呪術師が戸を開くと、そこには地下へと伸びる階段があった。
急な坂道に板が張られただけの階段を、呪術師は滑るような速度で降りていく。
壁に止められたいくつもの蝋燭が、男の進みにあわせてひとりでに灯っていった。アイドは少し遅れてその後に続く。
「足もとに気をつけてください。何分急ごしらえですから」
「分かっている」
「何処に行くの」
「すぐそこですよ。ほら、もう着きました」
呪術師の言う通り、階段はそう深くないところで終わった。
その先はだだっ広い地下室になっており、離れの部屋と同じく、床の代わりに剥き出しの地面が広がっている。
壁や天井は掘ったままの状態なのか、崩れ落ちそうな土をあちこち柱を組んで支えていた。その柱には全部で百近い蝋燭が不規則な間隔で杭打たれてれている。
蝋燭の火によってほの明るく照らされた部屋の真ん中には、大きな穴が開いており、どれ程の深さがあるのか分からなかった。
胸の悪くなる死臭に満ちた場所。サァリは、暗い広間を見回し、あちこちに化生が蹲っているのを見つける。
大人も子供もいる彼らは、か細い呻き声をあげながら己の膝を抱えており、顔を上げようとはしない。まるでよく出来た泥人形のようだ。
「こんな化生初めて見た……」
「私が作ったものですから。私の命を聞くように出来ています」
「作ったってどうやって?」
「察しはついているのでしょう」
それはつまり、人間をあの離れで殺して作ったということだろう。サァリはぎりぎりと奥歯を噛んだ。
「外道が……覚えていなさい。必ず報いをくれてやる」
「どうぞ。楽しみに待っております。―――― もっともあなたにはもう、その為の時間も残されてはいないのですが」
呪術師は言いながら、壁にかけられた何かを手に取ると、アイドに向かって放り投げた。
サァリを抱き上げたままの男は、器用にそれを受け止める。見るとそれは、黒い鞘に収められた小刀だった。
「これは?」
「呪を込めて作ったものです。それで彼女に傷をつけ、穴の中に落としてください」
「刀を落とすのか」
「彼女を落とすのです。本当はあなたのお父上にやってもらう予定でしたが、怖気づいてしまわれましてね」
ブナン侯の姿は、確かに何処にも見えない。
アイドは父親の臆病を鼻で笑うと、呪術師を見た。
「そう言うお前がやらないのは、オレを試しているのか?」
「いいえ。そうしたいのは山々なのですが、今の私程度では彼女に触れられないのですよ。水路に落とした時もそう説明したでしょう。触れられないから、隔離しておくのだと」
「私に、触れられない……?」
その言葉に疑問を持ったのはサァリの方だ。彼女に触れられない人間などいるはずがない。化生でさえ、実体を持っていればサァリと触れ合うことは可能なのだ。
―――― ならばこの男はいったい何者なのか。
自分の考えに沈みかけた彼女は、しかしアイドに下ろされて思考を中断した。
男は片手で彼女の腕を掴んだまま、もう片方で小刀を鞘から抜く。サァリは、その刃を見てぎょっとした。
「毒刃?」
「違いますが、あなたにとっては似たようなものですね」
呪が込められているという刃は、青黒く変色している。乏しい灯りへそれをかざして確認するアイドに、呪術師は釘を刺した。
「突き立てたりはしないように。かえって厄介なことになります。薄く肌を切って血が流れれば、それで充分です」
「分かった」
「アイド、やめて!」
「動くな。暴れると痛むぞ」
アイドはそう言うと彼女の右手を取った。手の甲にすっと刃を走らせる。
痛みはほとんどない。白い肌の上に血の線が浮かんでくるのを、サァリは戦慄して見やった。そのままアイドは穴に向かって彼女の手を引く。
「来い」
「や、やだ」
「手を焼かせるな、サァリ」
逃げようとする彼女を、男は容赦なく引き摺る。サァリは足を突っ張って逆らったが、化生斬りとの力の差は歴然だ。たちまち彼女は穴の縁に立たされることになった。
大きな穴の深さは、長身の男がすっぽり収まるくらいのものだ。
底には何も見えない。だがその中から漂ってくる気に、サァリは嫌悪感で全身を震わせた。これから何が始められるのか、遅ればせながら直感する。
「アイド……やめて」
「怖くなったのか?」
「違う! 駄目だよ! これは―――― 」
「早くしてください。あなたはこの街に復讐したいのでしょう?」
呪術師の声は、毒のように甘い。
人の心を篭絡する響きに、アイドは不快そうに眉を寄せた。
「オレに命令するな」
「アイド!」
サァリは左手で男の胸元を掴む。
今、自分たちがどれ程の窮地にいるのか。
それを訴えたとしても彼は聞かないだろう。ましてやアイリーデの民の義務など、説く意味もない。
だからサァリは、ただ懇願した。
「アイド、もういいよ。一緒に帰ろう」
「帰る? 何処に帰るというんだ、サァリ。オレに家などない」
「それでも、何処かには帰れるよ。まだ戻れる。私は、そう思ってる」
迷子であったのは、本当はずっと彼の方だったのかもしれない。
月白に幼いサァリを送り届けた少年は、少しだけ落胆したように踵を返して去っていったのだ。あの時彼は、帰るべき家を探していたのではないか。サァリは男の服を引く。
「一緒に帰ろう……ね?」
「サァリ」
アイドの目が、一瞬遠くを見るように細められた。
失われたものを眺める眼差し。堪えがたい郷愁が、そこには宿って見える。サァリはじっとその感情に向き合った。
男の手が、彼女の頬に触れる。長い指が瞼の上をなぞっていく。刀を握る固い指は、けれどその時、とても優しいものに思えた。唇に添えられた指先に、サァリは吐息を落とす。
「サァリ……、ならお前は、オレとこの街を出て何処かへ行けるのか?」
「え……?」
思ってもみなかった問いかけに、彼女は刹那息を止めた。真摯な目の男を見上げる。
―――― 気を抜いたのは、ほんの一瞬だけだ。
しかし僅かな空隙に、呪術師は軽く腕を上げる。
穴の中から飛び出した黒い紐が、サァリの体に絡みついた。右手の傷にひんやりとした何かが触れる。滲んだ血を啜る音。サァリはそれが何であるか悟って、絶叫した。
「―――― あああああああっ!」
アイドが驚いた顔で、彼女に向かって手を伸ばす。
だが、その手が触れるより先に、サァリの全身を嫌な浮遊感が包んだ。浮き上がった彼女の体は、黒い紐に引かれ穴の底に叩きつけられる。
サァリは全身に響く衝撃に息を詰めたが、それだけでは終わらなかった。
何もなかったはずの穴の底から、次々黒い蛇が湧き出してくる。化生と同じ赤く光る目を持った蛇は、たちまちサァリの右手や、擦り傷の出来た足に群がった。
体中に絡みつく蛇の大群に、サァリは声にならない悲鳴を上げる。
「いや……っ! やめ……」
左手は上がらない。曝け出された喉に、小さな牙が突き立てられた。血を飲んだ蛇たちが、今度は彼女自身を食らおうとする。眩暈がする。気持ち悪い。何も分からない。
「サァリ!」
アイドの声が、穴の上から彼女の名を叫ぶ。
けれどその時サァリは既に、凍えるような寒さの中で、口をきくことも出来なくなっていた。
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