第16話 呪術
饐えた血の臭いは、微かではあったがサァリに軽い吐き気を催させた。
彼女は自分の予想が外れてなかったことに、今更ながら強い緊張を覚える。暗い廊下に、
アイドが足を踏み入れた。
「なんだ、ここは」
「気をつけて。化生がいるかもしれない」
「化生が?」
男はそれを聞いて軍刀を抜いた。二人は狭い廊下をそろそろと奥に進んでいく。
中に明かりはない。裏口の隙間から差し込む光だけが、唯一の光源だ。
アイドはやがて、両開きの大きな戸の前で足を止める。
「この先から臭いがする」
「鍵は?」
「かかってない」
アイドは言いながら、戸を押し開いた。
中は真っ暗だ。
だが血の臭いは一層濃くなる。
大分暗闇に目が慣れてきたサァリは、男の後ろから中を覗きこみ―――― 息を飲んだ。
死体などはない。化生もいない。
ただ広い土間になっているその地面には、大量の血が流れた形跡があった。
黒く変色した地面は何度か掘り返されたようで、誰かがここで何かの作業をしていたことが窺える。右の壁を見たアイドが、少女の手を引いた。
「サァリ、あれを見ろ」
「え?」
壁の木枠にかけられているものは、白い面だ。サァリを水路に落とした化生が、つけていたのと同じもの。彼女は嫌悪感に満ちた溜息をついた。
「……実は、なんでブナン候を疑ったのかって、アイドに前追いかけてもらった男のことが切っ掛けなんだけど」
「ああ、あのおかしな奴のことか。あいつがどうした?」
「あの人、化生を作れる呪術師らしいんだけど、前は南部の街で騒ぎを起こしてたんだって。で、その時にひょっとしてブナン侯と知り合ったんじゃないかと思って」
そうして呪術師は、アイリーデに呼ばれたのではないのか。
サァリは暗い土間を見回す。面がかかっているのと反対側の壁には、大振りの刃物がいくつか下げられており、その刃は血に汚れているようだった。
もうこれは、ここで忌まわしい何かが行われていたと見て間違いないだろう。サァリは空気の悪さに耐えかねて後ずさる。
「アイド、もう行こう。人を呼んでこよう」
「……本当にあの男が呪術師だったのか?」
「うん?」
部屋の中を見たままの男は、何かを考えていたらしい。念を押す苦い声にサァリは首肯した。
「そうだけど、なんで?」
「トーマと話しているのを見たぞ」
「え?」
―――― そんな話は聞いていない。
何かの間違いだろうと、サァリは聞き返した。
「それっていつの話? 私がいなくなる前だよね」
「その直後だ。水路際の通りで何かを話していた。人目を憚るような感じだったから声はかけなかったが」
「人違いじゃないの? トーマはあの男のこと知らないって言ってたよ」
「間違いない。あの二人だった。そもそもオレが、あの変な男について手配をかけなかったのは、トーマの知り合いだと思ったからだぞ。じゃなきゃサァリの行方を捜す手がかりとして、とっくに自警団へ知らせてる」
「ええ……」
―――― あり得ない。
サァリは反射的にそう思ったが、もしトーマが嘘をついているのだとしたら、今まで考えていたことの前提が、崩れ去ってしまう。
王都で噂が広まってなかったということさえ、兄の口からしか聞いていないのだ。
この離れの惨状を見れば、ブナン侯が事件に関わっているのは確かだが、それと呪術師とトーマはどういう繋がりがあるのか。
兄が本当に関係しているとしたら、イーシアと家のことが原因なのだろうか。
サァリは軽い眩暈を覚えてよろめいた。その体をアイドが支える。
「大丈夫か、サァリ」
「……トーマは違うよ」
口に出来たのはそれだけだ。アイドは憐れむような目で彼女を見つめる。
「ともかく、いったん外に出るぞ。ここは気分が悪くなる」
男はそう言うと彼女を抱きかかえるようにして裏口の方へと戻りかける。
しかしその時、廊下の反対側から鍵を開ける固い音がした。誰かが表からやって来たのだ。
このまま裏口に向かっては姿を見られる。そう判断したらしいアイドは、サァリごと素早く土間の部屋に入ると、元通り戸を閉めた。
真っ暗になった視界で立ち尽くす少女を引っ張り、奥の物入れへと共に隠れる。サァリは男の腕にしがみついて、近づいてくる足音に耳をそばだてた。
一人ではないのだろう。人の話し声がする。
土間の戸が開かれ、二人が隠れている狭い物入れの中にも、蝋燭の灯りが差し込んできた。苛立ったような男の声が聞こえる。
「ま、まだ片付けられないのか? 金は充分に払っただろうに」
―――― ブナン侯だ。
サァリはアイドの腕をぎゅっと握る。
何処かおどおどとして、粘着質な男の声。彼女はブナン侯のその態度に、胸の悪さを覚えた。
もう一人の男が答える。
「そろそろ終わります。大分気が溜まってきましたので」
滑らかに高い響きは、微笑んでいることが容易に想像出来た。聞いたはずもないその声に、サァリは美しい呪術師を思い出す。
禍々しい方法にて化生を生み出すという男。その相手を間近にして、胸に不快感を上回る緊張がこみあげてきた。体がひとりでに震えだし、それに気づいたアイドがサァリを抱き締める。
「気が溜まってきたとは、ど、どういうことだ。お前の役目は三家の排除だろう」
「その為の布石がもう終わる、と申し上げているのです」
二人のうちどちらかは、部屋の中をゆっくりと歩き回っているようだ。
近づいては遠ざかっていく足音に、サァリは乾いた喉を鳴らす。
血の臭いを消す為に焚いたのだろう香の香りが頭を圧迫し、彼女は湧き上がってくる嘔吐感を必死で堪えていた。
「布石? 何が布石なのだ」
「神供三家に関わる者たちの血を流させたことがです。そうやって気を溜めねば、充分な力が得られない。いいですか。アイリーデを手に入れたいのなら、巫をなんとかせねばならない。だが普通の化生には、巫を害する程の力はないのです」
「巫を……? 月白の娘を殺すのか。だがそれでは息子が……」
「或いは支配するか、でしょうか」
―――― この男は、何処まで知っているのか。
その場で崩れ落ちそうになったサァリを、アイドの腕が支える。彼女は物音を立てないよう、必死で己を律した。その彼女の耳に、だが決定的な発言が聞こえる。
「その為にもラディ家の息子の協力は不可欠です。彼を―――― 」
「トーマに関わらないで!」
飛び出してきた彼女を、二人の男が驚いた目で見やる。
ブナン侯と呪術師の男、そのうち血痕の真上に立っている美しい男を、サァリは怒りを込めた目で睨んだ。よく出来た面を思わせる顔で、呪術師は滑らかに笑う。
「これはこれは、こんなところにいらっしゃったとは」
「トーマに関わるなと言っているのよ」
どのような甘言を兄に吹き込んだのか。
だがこんな輩に好きなようにされるつもりはない。歯を食いしばって毅然と立つ少女に、我に返ったらしいブナン侯が声を張り上げる。
「ち、力を使えぬ巫が何を戯言を」
「お黙り」
サァリは腕輪を嵌めた左手を上げた。白い指先を、呪術師へと向ける。
「アイリーデから出ていきなさい」
意識を集中する。
子供の時のことを忘れた訳ではない。だが今は二つの腕輪があるのだ。自分と、母の分。
きっとうまくやれる。そう信じてサァリは息を吐こうとした。
だがその時―――― 首筋に冷たいものが押し当てられる。
何が起きたか分からない。しかしサァリは、すぐ目の前にあるその刃が誰のものであるのか、よく知っていた。背後に立つ男の名を呼ぶ。
「アイド……?」
「お、お前がこの娘をここに連れてきたのか! 見ているばかりでろくに手伝わないと思っていたら、どういうつもりだ!」
「オレが連れてきた訳じゃない。調子に乗ったあんたが、下品な呼び込みをさせるから、勘付かれただけのことだ」
「だからと言ってお前は……父親の言うことが聞けないのか!」
「父親?」
サァリはアイドを振り返る。首の皮が刃に触れて薄い痛みが走ったが、それも気にはならなかった。
彼女を見下ろす男は、穏やかに微笑んでいる。そうしていると甘い顔立ちの彼は確かに、貴族のようにも見えると思っていたのだ。
サァリは十年も昔から知っている男を、呆然と見上げた。
「アイド、どうして?」
「そういえば言ったことがなかったな」
男の左手が彼女の頬に触れる。大きな手は昔と変わらず温かく、だが何処か孤独を思わせた。アイドの指が、彼女の零れた銀髪を耳にかける。
「サァリ、オレはこの街が―――― 大嫌いなんだ」
呪術師の笑い声が響く。
首筋に痺れが走る。
サァリの体は次の瞬間、糸が切れたように男の腕の中へと崩れ落ちた。
白い目の犬は、裏路地をのろのろと歩きながらも、確かに目的地を持っているようだ。
店の多い区域を外れ、住宅や屋敷ばかりの場所に差し掛かったシシュは首を捻る。
「こんなところに、あの呪術師がいるのか?」
問うてはみても、犬は答えない。
だがきっとこの犬はかつての主人のところへ向かっているのだ。まだアイリーデの全部を把握している訳ではないシシュは、行く先の見当をつけることが出来ない。ゆったりとした速度で歩く犬についていくしかなかった。
そうして白い塀が、道の先に見えてきた時、シシュは見覚えのある人間が数人、先の角から現れたことに気づく。そのうちの一人は彼に月白に残るよう念を押した男で、シシュは一瞬身を隠そうか迷った。
けれど犬にはそんな逡巡など分かるはずもない。黒犬は変わらぬ速度で進んで行き、シシュはそれに気づいて振り返った男に、あっさりと見つかってしまった。
「なんでいるんだ、お前」
「俺は化生斬りだと言ったはずだ」
白々と言い返すと、トーマはわざとらしく肩を竦めて見せる。
「あいつは? 連れてきたりしてないだろうな」
「月白にいる。大丈夫だ」
妹の無事を確認して、トーマも安心したらしい。「ちょうど化生斬りの手が欲しいところだった。お前なら心配ない」と言うと、シシュを手招いた。
他にいるのは自警団員三人と、紗布で口を覆った年嵩の女だ。
朱色の衣を着た女を、トーマは「ミディリドスの長だ」と紹介する。シシュに向かって会釈をした女は、道を行く犬に目を留めた。
「この犬は?」
「別の街の巫に術をかけてもらった。おそらく呪術師を追跡している」
「その飾り紐は?」
「これは―――― 」
サァリから貰ったと、答えかけてシシュは、トーマの視線に気づいた。
射抜くような鋭い目には、気のせいか殺気が混ざっているような気もする。青年はそこで初めて、トーマが帯刀していることに気づいた。
「……で、俺が出て行った後、あいつに何してたか聞かせてもらおうか?」
「何もしてない……」
「お前もついに神供か。いいけどな。あいつまだ十六なのにな」
「何もしてないと言ってるだろう! 外に出ると言ったら渡されただけだ!」
「なるほど」
あっさりと納得されると、からかわれたとしか思えない。
シシュは疲労感を押し殺すと五人に加わって歩き出した。
犬はその少し前を変わらぬ調子で進んでいる。これは同じ場所を目指しているのだろうか。シシュは隣を行く男に聞いてみた。
「何処に向かってるんだ?」
「例の似顔絵を元に、誰が雇ってるのか情報を集めた。そうしたら一人怪しい奴の名が挙がってきたんだ」
「どんな奴だ?」
「最近アイリーデで勢力を伸ばしてきている南部貴族だ。そいつにとっちゃ、俺たちは目障りで仕方ないだろうからな。どれ程店を増やして稼いでも、街の中では正統の方が上と看做される」
トーマの口ぶりは自嘲的なものだ。正統が誉めそやされることに、それ程の価値はないと思っているのかもしれない。
しかしもう一家の女は冷ややかに付け足した。
「アイリーデには似合わぬ卑しい男です。いずれはぼろを出すだろうと思ってはいましたが、まさかこのようなことをしでかすとは」
「まだ確定じゃないけどな。確定したら追放は免れないだろう。巫にまで手を出して、この街にいられる訳がない」
二人の会話は既に終わったことを話しているかのようだ。
実際、彼らにとって問題の男は終わったも同然なのだろう。
シシュは、これが主君も知りたがっているアイリーデのもう一つの姿なのだと実感する。酒と音楽と聖娼で知られる街は、けれど華やかな享楽街としての顔の裏に、決して侵してはならぬ聖域を持っているのだ。
青年は内心の嘆息を飲み込んで返す。
「ということは、俺はその男のところに行って、呪術師と化生を始末すればいい訳か」
「ああ。ただ一緒にいるとは限らないからな。お前は犬の案内を優先してくれ。話を聞くと手強い奴みたいだし、本当はもっと人手を集めたいんだが、どうにも内通者がいるみたいでな」
「内通者?」
「いくらなんでも、化生が捕まらなすぎだろ。敵方に見回りの状況を把握している人間がいるか、誰かが見逃してるとしか思えない。しかもなぁ、どうやら化生斬りの中にその内通者がいるみたいなんだ」
シシュは、自分が疑われているのかと思い、顔をしかめたが、トーマは最初から彼を除外しているようだ。「お前が俺と一緒にいた時のこと」と前置いてから話を続ける。
「実は昨日、ミディリドスの楽師たちが寝泊りしてた屋敷に化生が襲ってきてな。その中の一人が逃げて助けを呼びに行ったんだそうだ。仲間が危ないから来てくれってな」
「……それで?」
「そいつはすぐに戻ってきて言った。『化生斬りに出会って助けを求めたから、もう大丈夫だ』と」
「見回り中の化生斬りに会ったのか」
「だろうな。でも呼ばれたはずの化生斬りは、結局その屋敷には現れなかったんだ。何人かは床下に隠れて事無きを得たが、助けを呼びに行った当の男は助からなかった。……で、どの化生斬りがその助けを無視したか分からなくなった、という訳」
「それは……本当に化生斬りだったのか?」
もし化生斬りの中に裏切り者がいるのだとしたら、事態は面倒なことになる。
化生斬りは腕の立つ者がほとんどなのだ。呪術師や化生に加えて厄介な敵が増えては、対処に困る。
おまけに味方を増やそうにも、誰が味方か分からないとあっては、状況は厳しい。
トーマもそれは分かっているのか、気だるげにかぶりを振った。
「分からない。違ってりゃいいが、本当だった時に困る。化生をけしかけた犯人が屋敷の外で見張ってて、そいつに騙されたって可能性もあるだろうしな」
「ややこしい」
「大元を締め上げれば誰が内通者かも分かるさ。お前はとにかく呪術師の始末を第一に考えてくれ」
「分かった」
「あ、無理そうなら逃げろよ」
「誰が逃げるか」
例の呪術師には、前回の事件で借りがあるのだ。あの時は、追っ手たちを殺して逃げ切った男だが、もう一度同じことをさせる気はない。王もそれを望んでいるだろう。
シシュは、前を行く犬に視線を戻す。いつの間にか白い塀に沿って歩いている犬は、時折足を止めては空中の臭いを嗅いでいるようだ。
トーマもそれに気づいたのか、塀の向こうを指さす。
「俺たちの目的地はこの屋敷の主人」
「やはり同じか?」
「それだったら面倒がないな。戦力を分散させなくて済む」
「化生が山程いたらどうする?」
「一旦退く。当たり前だ」
それでも犯人が特定出来れば前進はする。シシュは納得して頷いた。
―――― その時、突然犬の様子が変わる。
「なんだ?」
ぴたりと足を止めた犬は、塀の上を睨むと音もなく跳躍した。そのまま塀に飛び乗ると、中へと下りて姿が見えなくなってしまう。
トーマは唖然として呟いた。
「は? そんなのありか?」
「追う」
ここで見失っては王の助力を借りた意味がない。シシュは塀を蹴ってその上にあがった。
他の人間の制止も聞かず、中に飛び降りる。
幸い犬はまだ動いていない。黒い頭をもたげて庭の隅にある離れを見つめている。
だがそこが目的地かと思いきや、急に母屋の方に向かって走り出した。シシュはその後を追いかける。
一人で動いて大丈夫だろうか、トーマを待とうか、との考えが一瞬浮かぶが、それは直後に掻き消えた。
何故なら犬が母屋の窓に飛びついた時―――― 中からは覚えのある少女の絶叫が、聞こえてきたのである。
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