第15話 潜入
今でも時々、夢に見ることがある。
十年以上前の記憶。あの時のサァリはまだ本当に子供で、ただひたすらに愚かだった。
物を知ったつもりで、何も分かっていなかったのだ。だから、自分の力を左右する月の満ち欠けにさえ、大した注意を払っていなかった。きっと自分は大丈夫なのだと、根拠のない自信を持っていた。
その愚かさの代償となったのは、一人の化生斬りだ。
立ち尽くすサァリのすぐ目の前で、倒れこんだ彼。まだ若かったその男の顔を、彼女は覚えていない。彼はそれきり、サァリの前から消えてしまった。
それでも夢に見る。
月光の下、路上に倒れた化生斬りの背中と―――― それを硬直して見下ろす、幼い自分の姿を。
※
無茶をするなと言われて聞く人間はいない、とはシシュの言葉だが、サァリもまったく同感だ。
とは言え、兄にあれだけ念を押されたのだから、彼女も月白で大人しくしているつもりはあった。そのつもりがなくなったのは、シシュから「王は関係ない」と聞いて、ある推測に辿りついたからだ。
部屋に戻って片付けをした彼女は、綺麗になった引き出しの中から、畳まれた白い布を取り出す。
サァリはそれを一旦鏡台の前に置くと、急いで着替えを済ませた。動き回ることを考えて、前と同じように裾を若干短くする。
本当は薄墨の着物にしたかったのだが、あれは水路に落ちた時に駄目にしてしまったのだろう。少なくとも部屋の中には見当たらなかった。
サァリはいつもの白い着物に濃紺の帯を締める。
ただ帯に染め抜かれているものは、半月ではなく白の真円だ。彼女は姿見の前に立つと、自分の姿を確認する。
「―――― よし」
何も問題はない。きっといけるはずだ。
鏡台に戻るとサァリは白い布を開く。
そこに入っていたものは、銀色の細い腕輪だ。
自分がいつもしているものと同じ腕輪を、サァリはもう一つ左手に通す。腕輪同士は袖の中でぶつかって、かしゃりと音を立てた。
「借ります、お母さん」
自分の言葉がいくらか空々しく思えるのは、母をそう呼んだことがほとんどないせいだろうか。
だとしても、サァリとトーマの母には違いない。少女は鏡の中の自分に頷いて部屋を出た。先程シシュを案内した裏門を開け、自らもそこから出ていく。
彼女はそのまま人目を避けて、推測を確かめる為に表通りへと向かおうとした。
だが最初の角を曲がったところで、いきなりよく知る顔に出くわす。相手は彼女を見て、驚きに目を見開いた。
「サァリ……無事だったのか!」
「アイド!」
早くも見つかってしまった。
サァリは、連れ戻されるかと身を竦めたが、男は駆け寄ってくると彼女を抱き締める。ほっとしたような声が耳元で囁かれた。
「心配したぞ。何処にいたんだ」
「水路」
「そうか、水路か。何にしろよかった」
あんまりよくない気もするが、男の様子を見るとそう言う気も失せてしまう。アイドもアイドで、共にいた彼女が行方不明になったのは堪えたのだろう。抱き締めてくる腕には、いつになく力がこもっていた。
サァリは男の背に手を回すと、とんとんと軽く叩く。
「あの、心配かけてごめんね」
「いい。オレが離れたせいだからな」
言いながらアイドはようやく腕を解くと、代わりに彼女の手を取った。いつか迷子だったサァリに聞いたことと同じことを問う。
「それで、何処に行きたいんだ?」
「……アイドは危ないから帰れって言わないの?」
「帰りたいのか?」
「ううん」
「なら帰さない」
「う、うん」
何とかしたいと思って出てきたのだ。帰る気など最初からない。サァリは、男が自分を連れ戻す気がないと分かると安心した。
「実は、ちょっと思いついたことがあって、確かめてみようと」
「考えたこと?」
「そう」
呪術師の話を聞いた時から気にはなっていたのだ。
シシュは前の事件の時、その呪術師を雇った男がいるのだと言っていた。ならば今回も、誰かが呪術師を雇っているのではないか。
それが誰なのかは分からない。だがサァリはアイリーデ解体の噂が関係しているのではないかと疑った。そうでなければ時期が合いすぎているのだ。
サァリは男と手を繋いで歩きながら、自分の考えを口にする。
「それで結局、今回のことって全部アイリーデに対しての悪意じゃないのかなって」
「アイリーデの? 王が街を解体する為に呪術師を雇ったということか?」
「うーん、それも考えなかったわけじゃないけど、でも神供正統を狙ってるってのが引っかかるんだよね」
シシュが言ったから「王は関係ない」とは言えない。そんなことを言ってもアイドは信じないであろうし、サァリにとってもそれは考える切っ掛けでしかないのだ。
思考をまとめようとする彼女に、男は推測を重ねる。
「神供がいては解体する上での障害になるからではないか? 力も由来もあるとあっては邪魔以外の何物でもないだろう」
「そうなのかもしれないけど、でも普通は、神供だけを潰しただけじゃ足りないって思わない? 他にも大きい店はあるんだし」
「さぁ……王都に住んでいてそこまでは分からないだろう」
二人は話しながら少しずつ表通りへと近づきつつある。サァリは男に手を離すよう頼むと、その背中に張り付いた。
「そーっと行ってね」
「行ってどうするんだ、サァリ」
「何処の店が開いているか見たいの」
隠れて様子を見ようとしている彼女を振り返って、アイドは「オレが見てくる」と言ってくれたが、それで分断されては先日の二の舞になりかねない。
サァリは彼にくっついたまま、道の角から表通りを覗き込んだ。いつもより行き交う人の数は少ないが、変わらずやっている店も多い。
それらの店は、事件を用心してか戸を閉ざした他の店を食う勢いで、派手に客を呼び込んでおり、アイリーデの空気はほんの僅かいつもと違って粗野なものとなっていた。
サァリは、軒先に掲げられている店々の印を確認して頭を引っ込める。
「……やっぱりそうなのかなあ」
「なんだなんだ。全然わからないぞ」
「ちょっと歩きながら話そう」
こんなところにいて誰かに見つかっては面倒だ。二人は裏通りに戻ると、今度は別の方向へと歩き出した。次の目的地に向けて、サァリは男の半歩前を行く。
「さっきの話だけど、たとえばさ、アイリーデを潰したいと思った時、アイドなら何処を狙う?」
「何処を? ……それは、やはり神供の三家だろう。アイリーデの象徴であり街における実質的な影響力も大きい。他を叩いてもそれは、アイリーデを攻撃したことにはならない」
「そう思うよね。うん」
アイドの答はサァリの考えたものと同じだ。この街に住んでいる者なら、多くはそう思うだろう。―――― それが、鍵であるように思えるのだ。
「でもね、王都に住んでる人ならそうは考えないんじゃないかな。だって神供三家は収めている税の内訳から言ったらそう上でもないでしょう? 王に近い人間であればその内訳を知れる訳だし……。神供だけ潰しても、他を放置しといたら、それらが三家に代わるだけだと思うんじゃない?」
「そうか? ラディ家などは王都でも名門だ。目障りと思われても無理はない」
「そういう観点で狙うなら、月白は外されるよ。うちって王都だとほとんど無名だし」
「他の二家のついでだろう」
「ひどい……」
事実なのかもしれないが、まったくもってひどい指摘だ。サァリは溜息をつくと、まだ上手くまとまらない言葉を口にする。
「今回なんか、ちぐはぐだなって思うの」
「何がちぐはぐなんだ?」
「こう、アイリーデについて中途半端によく知っている人が、糸を引いてる感じ」
「中途半端なのか、よくなのかどっちだ」
「両方」
この辺りは中々伝えづらい曖昧な線だ。
ただ、王都の人間が犯人であるなら、果たして化生を使って人を襲わせることを思いついたりするだろうか。他の街では化生は実体を持たない。それが当たり前のことなのだ。サァリは、シシュの最初の反応を思い出す。
「ううー、そうじゃないのかなぁ」
小さく唸り声を上げる彼女に、アイドは怪訝そうな声をかけた。
「ではサァリは、今回の犯人は王ではないと思うのか?」
「多分……違うと思う」
「王に誰かが入れ知恵をしている可能性もあるだろう」
「それは、あるかもしれないけど」
「あの新しい化生斬りか……トーマ・ラディが関わっている可能性もある」
兄の名に、サァリは虚を突かれて首を傾げる。男を見上げる青い目に剣呑な光が宿った。
「トーマが? どうして」
「あの男は月白の女を妻にしようとして、家の反対にあっているのだろう? この街自体がどうにかなれば、女を娶れると思っているのではないか?」
「違うよ」
否定の言葉は、反射的に口から出た。
トーマは犯人ではない。そんなことは誰よりもよく分かっている。彼は、サァリの大切な兄だ。そしてまた―――― アイリーデについて本当によく知っている一人でもある。
そして、そのような人間ならば、この街の核はサァリであることを分かっているはずなのだ。
アイリーデを潰したいのなら他の二家を攻撃する必要はない。サァリ一人を何とかすればそれで済む。その真実を、少なくとも残る一家のミディリドスの長もまた知っているだろう。
しかし、それは、気軽に口にしてはならないことだ。サァリは「とにかく違う」と言い張ってアイドに呆れたような溜息をつかれた。
「あまり人を信じすぎると痛い目を見るぞ」
「いいの! それよりここ!」
道の先に見えてきた白い塀をサァリは指し示す。それはアイリーデでもっとも大きく新しい屋敷の塀で、元々この辺りにあった小さな家や店を買収して建てられたものだ。
長身の男の背丈を上回る高い塀を、アイドは目を細めて見上げる。
「ここがどうした。ブナン侯の屋敷じゃないか」
「うん」
ブナン侯とは、ここ二、三年でアイリーデに多くの店を出してきた南部貴族の名だ。
月白の人間からは火入れの時間の件などで、あまりよく思われていない彼だが、噂ではそれに留まらず、あちこちで南の流儀を押し通そうとして疎まれているらしい。
その男の屋敷を前にして、サァリは頷く。
「ここを調べたいの。アイド、手伝って」
「調べる? どうやって」
「忍び込む」
「は?」
サァリは左右を見回し、見張りがいないことを確認すると、塀に駆け寄り飛びついた。
だが勿論彼女の背では、塀の上に手も届かない。ぴょんぴょんとその場で跳ねながら、サァリは振り返る。
「アイド、持ち上げて」
「届かないのがかわいいぞ」
「いいから早く!」
こんなところで馬鹿をやるつもりはない。
サァリが重ねて呼ぶと、男は彼女の帯下を持って塀の上に押し上げた。自分も壁を蹴ってその隣に上がる。
二人は誰かに見咎められないよう、素早く中の庭へと飛び降りた。
広い庭は、月白の雑木林と違って綺麗に手が入れられている。サァリは華美な彫像が多い庭を見回すと、植え込みに沿って小走りに駆け出した。
その後ろをアイドが大股でついてくる。
「一体どうしたんだ。いくらサァリでも見つかったら問題になるぞ」
「だからさっと調べて出たいの」
「何を調べるんだ? ブナン侯がどうかしたのか」
「さっきの話覚えてるよね、アイリーデについて中途半端によく知っている人が犯人じゃないかって」
「ああ」
探しているものは、母屋にはないだろう。
サァリは庭を見回した時に見つけた、小さな離れに向かって走る。そこは昼であるにもかかわらず、全ての鎧戸を固く下ろしているようだった。
幸い庭に見張りの姿はない。彼女にはそれが、下手に人を入れて余計なことを知られぬようにとの配慮に思えた。
サァリは母屋の窓を窺いながら離れまで辿り付くと、その影に隠れる。中からは微かに香の匂いが漂ってきた。ついてきたアイドが隣の壁に寄りかかる。
「そもそも解体の噂って、王都で流れてるって話だけど、実際王都ではそんな噂ないみたいなんだよね。トーマに聞いたけど知らないって。でもアイリーデでは広まってる。これって変じゃない? アイドは誰から聞いたの?」
「オレ? オレはアイリーデで客が話しているのを聞いたな」
「うん。そうなんだよね。つまりこの噂って誰かが意図的にアイリーデで広めたものじゃないのかな」
「意図的とは何の為に?」
「人の目を王都に向かせる為に」
サァリは離れの壁沿いに裏口へと回る。そこには鍵がかかっていたが、扉の下から塀の裏門の方まで、何人かが往復した足跡が残っていた。足跡の中には大人のものも子供のものも混ざっている。
「さっき、表通りを見たでしょ」
「ああ」
「あの時、開いてる店の中でも、派手に呼び込みしてる店がみんな、南部由来の印を掲げてたのに気づいた?」
少女の問いかけに、アイドは大きく目を瞠る。男は見てきたばかりの光景を思い出そうとしているのか、視線を中空に漂わせたが、すぐにかぶりを振った。
「いや……気づかなかった」
「そうだよね。でも注意してみると、みんなほとんどここ二、三年の間に出来た新しい店なの。それも南部出身のブナン侯の息がかかってる店ばかりで……。事件を用心して閉まってる店も多いのに、いつも以上に賑やかにしてる店があって、どれも同じ人に繋がってるって、おかしくない?」
思いついてみれば単純なことだ。アイリーデの街のことをそこそこ知っていて、正統の三家を疎んじている人物。それは後からこの街に来てこの街を欲しがっている男のことではないだろうか。
南部出身のイーシアは、ブナン侯を「臆病かつ病的な所有欲の持ち主」と称していた。
そんな人間が、事件を受けて用心しないのもおかしい。最近めきめきと勢いを伸ばしている南部の店が、次に狙われないという保証は何処にもないはずだ。
それに彼は、以前から月白に気に入らぬ客を誘導するなどの小細工を弄してきた。
今回の件が嫌がらせの延長で行われたのだとしたら、月白が標的に混ざっているのも当然のことだろう。ブナン侯はおそらく、この街の古い正統を壊して、その上に自分が新たなものを打ち立てたいのだ。
サァリは、鍵がかかっている扉から諦めて手を離す。
「駄目か……。中を見たかったんだけど」
「少し待っていろ。オレが開けてやる」
「え?」
アイドはサァリに代わって扉の前に座り込む。そのまま彼は懐から薄いへらのような金属板を取り出すと、それを僅かな隙間に差し込んだ。
他にも長い針のようなものを出して、何やら内側の掛金を弄っているらしい。
しばらくして、軽い金属音と共に錠が外されると、サァリは感心の吐息をもらした。
「さすが元問題児。凄い」
「誉められている気がしないぞ。感謝の気持ちは態度で表してくれ」
「今度、手料理振舞うから」
「それは楽しみだ」
裏口の扉を、アイドはそっと開ける。途端に中からむっと強い香の匂いが流れ出し――― それには饐えた血の臭いが混ざっていたのだ。
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