第12話 母親

 夜の水中は、底まで灯りは届かない。ただ黒い水が揺らめいて見えるだけだ。

 シシュは視界のほとんど定まらない中を、漂う帯を辿って潜っていく。

 濃紺の帯は、ゆらりと揺れながら底に伸びているようだ。

 水を掻いてその先を睨んだシシュは、暗く濁った底にうっすらと白く光るものを見つけた。重く感じる足を蹴ってそちらへと向かう。―――― そして、驚愕した。


 水底に横たわっていたのは、彼もよく知る少女だ。

 長い銀髪はほどけて波打っており、顔色はひたすらに白い。

 帯がほとんどとけてしまっている為、薄墨の着物もはだけて細い足が曝け出されていた。


 だが、シシュを驚かせたのはその姿ではなく、彼女の肌を覆っている薄い皮膜の方だ。

 白く光って見えたのはこの皮膜で、近づいて見るとどうやら空気を孕んでいるらしい。

 その証拠に、皮膜の外にある髪や着物は水の中をたゆたっているが、彼女の体自体は濡れていない。滑らかな肌は、血の気こそなかったが、水を吸って膨らんでいるということもなかった。


 予想もしなかった光景に、シシュは僅かながら怯む。

 美しく、だが異様な姿。

 目が離せないが、見てはならないものの気もする。

 はたしてこのような巫に、触れていいものか。


 決心をつけられないでいた彼は、けれどもう息が続かないと判断すると、思い切って少女に手を伸ばした。その体を両手で抱き取ろうとする。


 ―――― 指先が触れた瞬間、彼女を覆っていた皮膜は消失した。


 急に流れ込んできた水に反応してか、少女は体を半分に折って苦しむ。

 シシュは急いで彼女を抱きこむと、底を蹴って上昇した。水面に上がると、まず彼女を道へと押し上げる。すぐに自分も上がり、咳き込んでいる少女を覗き込んだ。


「吐け! 大丈夫だ!」

「あ……が……っ」


 水に触れたのはほんの数秒だけだ。命に関わる程ではない。

 そう思って彼女の肩に触れたシシュはだが、氷のような冷たさに驚いた。震える白い手が空中を掻く。

「さむい……つめたい……」

「待ってろ。すぐ月白へ連れて行く!」


 制服の上着を拾って、あられもない姿の彼女をくるむ。がたがたと全身を震わせていたサァリは、シシュに抱き上げられると再び意識を失った。


 外傷はない。だが一刻も早く医者に見せ、冷え切った体を温めなければ不味い。

 青年は、水を吸っても軽い体を庇うようにして駆け出す。

 その姿を草叢から赤い眼の蛇が、探るようにじっと見つめていた。



 ※



 悲しい夢を見ていた気がする。

 暗い中、一人で冷たい石室に立っている夢だ。

 他に誰もいない。裸の彼女は素足でそこを歩き回る。何もない。冷たい。


 淋しくなって、誰かの名を呼びたくなる。

 家族の名を呼ぼうとして、けれどサァリは、一言も声を出すことが出来なかった。


 ただ歩き回る。探し回る。

 何を探しているのかも分からぬまま、そうして疲れ果てたサァリは、膝を抱えて蹲った。




 ※



 目が覚めてすぐ見えたものは、柔らかそうな女の肌だ。

 微温湯に浸かっているような温かさ。それが、自分を抱く女から伝わってくるものだと分かったサァリは、視線だけを動かし辺りを見回す。

 白木の天井に障子窓。見覚えのあるそこは、月白にあるイーシアの部屋だ。

 サァリは、眠っているイーシアの腕をそっとどけて体を起こす。


「あれ、私も裸なの?」

 彼女を抱いて眠っていたイーシアだけでなく、サァリ自身も服を着ていない。

 ただ銀色の腕輪をいつも通り左手に嵌めているだけだ。

 子供の頃はたまに高熱を出し、こうして月白の娼妓に温められて眠ったことはあるが、また体調を崩してしまったのだろうか。


 記憶の定かでないサァリは、寝台から抜け出ると立ち上がった。近くに畳まれていた薄い襦袢を背に羽織る。

 イーシアに事情を聞きたいが、彼女を起こしてしまうのは悪い。

 サァリは、とりあえず何か適当に服を借りて、誰かに話を聞こうと思った。寝所である部屋から、続き部屋である隣へ顔を出す。そこには、座卓の上に書類を広げている男がいた。


「……トーマ」

「サァリ! 起きたか! 具合はどうだ?」

「平気。ちょっとぼんやりするくらい」

「まだ本調子じゃないなら寝てろ。店は大丈夫だから」

「でも―――― 」


 何も状況が分からないのだ、と言おうとした時、廊下に繋がる戸が開かれた。

 向こうから扉を開けた青年は、立っているサァリに気づいてぎょっと硬直する。

 何故そのように引きつった顔をされるのか、分からない少女は首を傾けた。


「シシュ?」

「服を着ろ、サァリ」

 苦い声をトーマにかけられ、サァリは自分の格好を思い出した。ほぼ裸と言っていい姿の自身を見下ろし、遅れて悲鳴を上げる。

「な、なんで、待っ」

「悪い、シシュ。外出ててやってくれ」


 一人だけ落ち着いているトーマの言葉は、凍り付いていた青年を動かした。何も言わぬまま彼が戸を閉めると、サァリは男へと叫ぶ。

「なんでなんで!」

「説明してやるから、まず服を着ろ。ほら」

 示された箱には彼女自身の着物が入っていた。

 慌ててサァリがそれを身につけ、帯を乱暴に結ぶと、トーマは「入っていいぞ」と廊下に声をかける。


 ややあってもう一度シシュが入ってくるが、とてもその顔を見ることが出来ない。

 サァリは急いでトーマの隣に正座すると、じっと俯いた。「失礼した」という青年の言葉が、余計に羞恥を煽る。

 耳まで真っ赤になった彼女が顔を上げないせいか、シシュはトーマに苦情をぶつけた。


「ああいう状態なら先に注意してやってくれ。自分は放置しとかないで」

「悪い悪い」

 自分だけ悲鳴をあげられ気まずいのかもしれない。

 思い切り顔をしかめてしまった青年にトーマは軽く手を振った。


「一応言っとくと、俺はこいつの肉親だからな」

「は? 兄同然と言ってただろう」

「そういうことになってる。色々問題があって表向きはな。でも血が繋がってる。実の兄妹だ」

 教えとかないと公平じゃないからな、と言う兄は、何を考えているのか機嫌がよさそうだ。

 サァリはそれを不思議に思ったが、事情がさっぱり飲み込めない為、ただ口を噤んでいるしかない。決して他人に明かしてはならない話を自分から教えたのだから、兄とシシュの間には何かがあったのだろう。

 アイリーデでも、トーマとサァリが兄妹であることを知る人間はほとんどいない。イーシアと、あとはミディリドスの長くらいだ。


 そして今、もう一人の例外となった青年は何かに化かされていたような、釈然としない顔で二人の顔を見比べた。

「似ていない兄妹だな」

「俺は父親似でサァリは母親似だからな。けどサァリと母親はそっくりだ。だから俺の母は公の場に出ないんだよ」

「神供の二家の血が混ざったと分かると不味いとかか?」

「まぁ、そんな感じだ。俺たちの母親は月白の巫になることを放棄して、父のもとに嫁いだんだ。母の生家は大分反対したが、強引に押し切った。代わりに、娘が生まれたら生家に戻すって条件がつけられて、サァリは条件通り、生まれた直後から生家で育てられたわけだ」


 トーマの話を、サァリもまた神妙な顔で聞く。

 同じ話を祖母から聞いたのは、十の時だ。

 だがその時は言葉の端々に「義務を放棄した娘への怒りと落胆」が感じられた。


 実際、母の第一子が男児であったことに、祖母はかなり驚いたらしい。

 月白の主はその由来もあって女系の血筋だ。

 そのような中で、余所に嫁ぎ、なおかつ男児を生んだ母への風当たりはさぞかし強かったのだろう。

 母とはろくに会ったこともないサァリだが、その辺りは純粋に「大変だったんだろうな」と思っている。


 ただそれらの話が他人事のように感じるのもまた確かだ。

 サァリには、母のように自分が負ったものを捨てて、月白から逃げ出したいと思う程の気持ちは理解出来なかった。


 トーマの説明に、シシュは苦い顔で頷く。

「確かに先代巫は祖母だったと聞いて、母親はどうしたのかとは思ったな」

「サァリの母親は病弱で、王都の屋敷からほとんど出ないまま死亡した、ってことになってる。―――― 他言無用だぞ」

「なら教えるな」

「教えないと、後で苛々するだろ?」

 にやにやと笑うトーマに、シシュは軽く舌打ちした。

 彼にしては珍しい所作に、サァリは驚いて顔を上げる。青年の黒い目と視線が合ったが、シシュは何かを言う前に厭そうな表情になると顔を背けてしまった。



 ―――― 何だかよく分からないが、いい加減事情説明をねだってもいいだろうか。

 兄を見上げたサァリは、大きな手に頭を撫でられる。

「で、サァリ。お前は何処まで覚えてる? 誰にやられたか分かるか?」

「誰に……?」

「お前は、シシュが水路の底から拾ってきたんだぞ。誰かに落とされたのか? 自分で潜ったのか」

「水路、って、あ!」


 枷を外したように、記憶が一気に戻ってくる。

 確かアイドと見回りをしていて、彼から離れた隙に、化生が襲ってきたのだ。

 体当たりを受けて転倒し、その後水路に放り込まれたことは覚えている。

 サァリは指でこめかみを押さえた。

「私を水路に落としたのは、面をつけてる化生だった……」

「確かか?」

「多分」


 赤く光る目を見間違えるはずがない。

 あの化生はおそらく、アイドとサァリが離れる時を狙っていたのだ。

 明らかにこれまでの化生とは違う。今までは、直接巫を襲う化生などはいなかった。


 サァリはそこで、兄に言われたことを思い出す。青年へと深く頭を下げた。

「助けてくれて、ありがとうございます」

「……別にいい。当然のことだ」

「あの、それで化生はどうなって?」


 その質問に答えたのはトーマの方だ。彼は座卓の上の書類を一枚、サァリへと渡した。

「こちらは完全に後手に回らされてる。昨日から急に人が襲われ出した。怪我人死人合わせてもう十二人だ。しかも神供三種の関係者や常連を狙ってるらしい。そんなんだから今は、月白もうちも店を閉めてる」

「え……何それ」


 ひょっとしてこれは、アイリーデが未だかつて経験したことのない非常事態ではないのか。慌てて立ち上がろうとするサァリを、兄は制止した。

「お前は出るな、サァリ。月は満ちてきてる」

「あれ? でもあと三日あるって……」

「こら。自分で分かってないのか。お前がいなくなってから五日が経ってるんだぞ。半月はもう過ぎてる」

「ええ?」


 五日というと随分な時間だ。サァリはまだイーシアが眠っている寝所を振り返った。

「私、五日も寝てたの?」

「寝てたのは二日。お前は三日間行方不明だったんだ」

「あれ……」


 水路に投げ込まれ、水路の底で見つかったということは、水の中で三日間いたところを見つかったということだろうか。月が満ちていたことは幸運だったが、そこをシシュに見られてしまったとは、どう言い訳をすればいいのだろう。

 サァリは引きつり気味の笑顔で青年を見上げた。


「あの……驚いた?」

「さすがに。この街の巫はどこまで変わってるんだ」

「色々ありまして……」


 それはともかく、彼女を助けてくれたということは、シシュはやはり、この街の敵ではないのだろう。

 サァリは自分でも不思議な程ほっとして肩の力を抜く。だがすぐに、トーマから受け取った書類に視線を落として息を飲んだ。


 そこには、この二日間にあった事件の場所と犠牲者の名前、そして目撃された化生の特徴が書かれている。六箇所に及ぶ襲撃は、全て意図的に狙ってのものなのだろう。被害者の名は見覚えのあるものばかりだった。

 主に名を連ねているのは、ラディ家の職人とミディリドスの楽師や歌手だが、中には月白の常連であった男の名もある。月白の娼妓が含まれていないのは、彼女たちは滅多に外出しないからだろう。

 サァリはそのことに安心しながらも、化生の凶行に憤りを覚えた。


「これ、化生って全員捕まってないの?」

「一人、鉄刃が見つけて殺した。他はまだだ」

「そう……」


 化生の目撃情報と襲撃の時間や場所を照らし合わせて分かることは、面をつけて人を襲う化生が何人も存在しているということだ。

 化生たちは男も女もおり、ただ共通点として白い面をつけている。


 一体何が起きているのか、サァリは迫り来る焦燥を覚えた。

 書類をトーマに返すと、彼は深い息をつく。

「こうなってみると、サァリを襲ったのは多分、巫が邪魔だったからだな。三日の間お前を無力化出来ればそれでよかったんだろう」


 サァリはそれを聞いて頷きはしたが、兄の言葉が半分は嘘だとも分かっていた。

 化生は、サァリを殺せるのなら殺したかったのだ。だから気絶させてから水に落とした。彼女が生きていたのは単純に誤算だろう。

 だが結果を見れば、サァリはもう巫としては動けない。劣勢であるのは、彼女たちの方だ。


 話を聞いていたシシュが、口を挟む。

「これはもう、何かが裏にいると思った方がいいだろうな」

「何かって……なに?」

「知らない。というか先に確認させてくれ。―――― この街には人為的に化生を作る術があるのか?」

「人為的に?」

 サァリとトーマは顔を見合わせる。兄の方が質問に答えた。

「ない。聞いたこともない」

「俺はあるんだ。勿論、この街の話じゃない」


 驚く兄妹にシシュが話したのは、二年前の話だ。

 彼が南部の街に出かけた際、或る豪商が化生につきまとわれ続けるという事件があったのだという。

 斬っても斬っても新たに出現する化生に、シシュをはじめ関わった人間は原因を探し回ったが、結果としてその豪商を恨む男が、不審な呪術師を雇って化生をけしかけさせていたことが分かった。


「呪術師って……え……そんなことが出来るの?」

「詳しいやり方は不明だが、要するに動物を殺して、その念を元に作っていたらしい。俺が男の家に踏み込んだ時には、家のあちこちに首を刎ねられた動物の死体が転がってた」

「うわ……」

 そんな話は初めて聞いた。口元を押さえるサァリを横目に、シシュは続ける。


「問題なのは、実はその時の呪術師には逃げられたんだ」

「逃げられた?」

 ひやりと、嫌な感覚が背筋を滑る。サァリは無意識のうちに、兄の服の袖を掴んだ。

 シシュが何を言おうとしているのか、予感は出来たが、その予感が彼女の喉を詰まらせる。

 黒髪の青年は、サァリを正面から見据えて言った。

「呪術師の男を追っていた人間たちは、死体で見つかった。それから男は目撃されていない。―――― で、だ。もしこういう人間がこの街に来たなら、やはり人為的に化生を生み出すことが出来ると思うか?」


 ―――― 不可能ではない。


 サァリはそう直感した。アイリーデの化生は実体を持つが、それはこの街の気が特殊で濃いだけのことだ。化生自体の本質は、他の街のものと変わりない。だからきっと、不可能なことではない。

「で、出来ると、思う。でもそれって」

「化生を生む為に、誰か人が殺されてるってことか?」


 兄の言葉に、サァリはびくりと体を震わせた。隣を見るとトーマは、彼女の知らない険しい表情を見せている。

 一方シシュは冷静そのものの様子であり、それはサァリに「彼はこの街の人間ではない」という事実を思い出させた。

「可能性を指摘しているだけだ。余所からの客が多いこの街じゃ、数人行方不明になったとしても分からないだろう。これだけ人手を割いて探しても、化生がなかなか見つからないってのも、誰かが匿ってるからじゃないのか? 誰かが裏にいて、糸を引いているんだろう」

「誰かって……誰が?」

「俺じゃないことは確かだ。王でもない」


 突然出された王の名に、サァリは目を丸くしたが、トーマが「後で説明する」と付け足した。どうやら彼女の意識がない間に色々あったらしい。

 少しだけ波打って感じられた二人の男の間の空気に、少女は首を傾げた。

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