第10話 闇



 すっかり夜となったアイリーデは、昼とはまた違った賑わいを見せている。

 通りを行き交う客たちは、この時間ほとんどが男であり、その中に艶やかな格好の娼妓たちが混ざっているという具合だ。

 日の高いうちは閉まっていた鎧戸が開けられ、中からは白い腕を気だるげに垂らした女たちが顔を覗かせる。

 何処からともなく流れてくる甘い香りは、思い出せない花の名に似て、不思議な郷愁を人々に呼び起こさせた。


 昼の事件を忘れさせるいつも通りの景色。その中を、一人一人に目を配りながら歩くサァリは、街の西にある広場へと足を踏み入れた。

 小さな堤燈が紐に吊るされ、鈴のように連なっているそこでは、神供の正統であるミディリドスの楽師たちが、古い祭りの唄を奏でている。

 中央で四弦を爪弾いている男が、雑踏の中を行くサァリに気づいて頭を下げた。

 彼女も会釈してそれに返すと、隣の男が前を見たまま問うてくる。

「何か見つけたのか?」

「知人に挨拶しただけ。化生は見つからないね。人が多いところにはいないのかな」

「裏にも回ってみるか」

「うん」


 事件からそう時間が経っていないだけあって、街には見回りの自警団員がいつもよりも多く見られる。

 だが未だに何の連絡も来ていないところを見ると、問題の化生は見つかっていないままなのだろう。

 これは本格的に何処かで隠れているのかもしれない。


 サァリたち二人は広場を離れ、裏路地へと探索場所を移した。

 暗い物陰や茂みに注意しながら、水路の方へ抜ける道を辿っていく。

 その途中で彼女はふと、先程の不審な客のことを話題にした。

「―――― っていう感じの人なんだけど、見なかった?」

「見ていない。なんだそれは」

「あれ? でもアイド、私が出て行った時、もう門のところにいたよね。その少し前に誰か出てこなかった?」


 同性同士という点を差し引いても、例の男の容姿はひどく特異なものだったのだ。

 見ていて印象に残らないということはありえない。

 不思議がるサァリに、男は呆れた目で返す。


「オレは二時間後ぴったりに門に来たからな」

「珍しい……。いつも要らない時程待ってるのにどうしたの?」

「見回りをしていてどうしたのかと言われるのは心外だ。オレをなんだと思ってるんだ、サァリ」

「腕はいいのに気分屋」


 事実を指摘すると、男はサァリの手を取った。

 何をするのかと思いきや、指先に軽く口付けてくる。それはいつもの悪戯と同じであったが、少しだけ、抑えた不機嫌のようなものを感じさせた。

 けれどそう思ってサァリが彼を見上げると、アイドは優しげな微笑を湛えている。

「どうした? サァリ」

「……なんでもない。何か変な気もするけど」

「オレ以外の男に見惚れたりするから、変な気がするんだ。そいつを探してどうする?」

「別に見惚れてないよ。呆気に取られてただけ。っていうか、あからさまに不審だから用心してるの」

「目が赤かったとか」

「赤くなかったよ。……多分」

 何色だったかは思い出せないが、赤ではなかった。

 ただ直感的に「人間らしくない」と思ったのも確かだ。


 なんだか全てが食い違い、上手く対処出来ていない気がする。サァリが溜息をつくと、男の手が頭を撫でてきた。

「考えすぎるな。そのうちに全部片付くさ」

「アイドがまともだとちょっと怖い」

「オレに何を期待してるんだ」

 言いたい放題言うと、男の腕が伸びてきてぎゅうぎゅうと抱きしめられた。

 サァリは手を突っ張って反抗しながら、けれどいつも通りの男に安心する。


「見回りなんだから離して欲しいな」

 親しくはあるのだが、こういう時、アイドはいまいち何を考えているのか分からない。

 彼はサァリを地面に下ろすと、溜息をついた。

「あまりオレで遊ぶな」

「それはこっちの台詞なんだけど……」

「サァリはまさか、オレの言葉を全部冗談だと思っているのか?」

「大体そうかなと」

 そう口にしながら、少女はアイドの反撃を避ける為に飛び下がる。

 だが予想に反して、彼は目を細めてサァリを見つめていただけだった。

「あれ……? ひょっとして具合でも悪い?」

 これは熱でもあるのかもしれない。

 心配になって、彼女は男の前に戻る。爪先立ちして額に触れたが、別段熱いというわけでもなかった。


 一方アイドは、困惑顔のサァリの上に、真摯とも冷静とも言える眼差しを留めている。

 甘い顔立ちの彼がそうしていると、見惚れる娘も多いのだろうが、サァリにとって普段と違う彼は、ただ不安を抱かせるだけだ。

「サァリ、誰を客に選ぶんだ?」

「誰をって……分からないよ。真剣に考えたことないし」

「オレを選ぶ気はないのか」

「アイド……?」


 ―――― 自分を選べと、彼から戯れに言われたことは何度もある。


 しかしサァリにとってそれは、あくまでも冗談の範疇でしかなかったのだ。

 迷子の手を引くように、若すぎる主となった彼女の、或る意味「逃げ場」として、そのようなことを言ってくれているのだと思っていた。

 けれどそう思っていたのが彼女だけだったのなら、話は違ってくる。サァリは軽い動揺を嚥下すると、改めて男を見上げた。


 透き通るような金髪は、近くの堤燈の光を受けて紅色の艶を宿していた。

 長い睫毛が翳を落とす瞳は薄氷を思わせ、その先にあるものが見通せそうで分からない。

 サァリは、飲まれそうになる程の視線を受け止め、返した。

「まだ分からない。あなたを選ぶかもしれないし、違うかもしれない」

「今、決められないのか」

「決められない。主と巫だけで手一杯だし。それに私、まだ十六だよ」

「お前と同じくらいの年で客を取っている娼妓も山程いる」

「でも私は―――― 」


 違うのだ、と言いかけて、サァリはその言葉を喉元で留めた。

 それは今、彼に言っていいことではない。ままならない気持ちを振り切って、少女は首を横に振る。


「今は決められない。もうちょっと私が成長して、アイドの心が広くなってから考える」

「オレの心が広くなってからとはどういうことなんだ」

「今狭いもん。私が普通の娼妓だったら、それでいいかもしれないけど、そうじゃないし」


 月白の巫を抱く男は、或る種の割り切れなさを飲み込める人間ではなくてはならない。

 だからもし、彼が自分を望むのなら、そこを譲れるようになってもらいたいのだ。

 そうであるなら、二人は同じ夜を手にすることがあるのかもしれない。まだ分からない。サァリは自分自身のことで手一杯だ。


 少女の、身の丈相応の誠実に、アイドは眉を顰める。そのような顔は黒髪の化生斬りを思い出させて、だが彼とは違うとサァリは思った。


 沈黙が遠くの楽の音を浮き立たせる。

 角の向こうから、水の流れるささやかな響きが聞こえてきていた。

 その音は二人の噛み合わない感情を、繕わぬまま糊塗していく気がする。

 アイドは目を閉じると、眉間の皺を指でほぐした。

「……分かった」

 彼の返事はそれだけだった。

 だからサァリは、頷くことしか出来なかった。




 気まずい話になったとは言え、仕事は仕事だ。

 二人はどちらからともなく歩き出すと、何事もなかったように別の話を始めた。

 水路脇を行きながら、最近新しく出来た妓館について話していたサァリは、ふと通路の先の角から出てきた人物に目を留める。

 夜気に溶け入る黒い外衣に、一瞬だけ見えた横顔。異様に美しいそれは、月白で不審な質問を重ねたというあの男のものだった。

 思いもかけず不審な男を捉えたサァリは、アイドの袖を引く。

「あの人だよ、今日月白に来てたの」

「顔が見えない」

「間違いないって」

 ちらりと見ただけだが、確信はある。

 サァリは男を追おうと足を速めた。だがアイドの手がそれを留める。

「オレが追う。主が客を追っては、ばれた時立場に障るだろう」

「ああ……そうかも」

「離れてついて来い。別の男のところには行くなよ」

「分かった。気をつけてね」


 本気か冗談か分からない部分は流して彼女が頷くと、アイドは音をさせないよう走っていった。男から十数歩の距離を保って尾行を始める。

 その様子を更に離れた後ろから見つつ、サァリは暗い水路際を歩いていった。近くに赤い瞳がないか注意しつつ、無意識のうちに息を殺す。


 隣を行く男がいなくなったせいか、水がすぐ傍を流れているせいか、意識すると若干の肌寒さを感じた。

 サァリは外衣を羽織ってくればよかったかと、今更ながらに後悔する。

「それにしても……急に吃驚した」

 思い出すのは、先程アイドに言われたことだ。

「誰を選ぶのか」という、いずれは彼女が向き合わなければいけない問題を、ああまで直接的に他人から突きつけられたのは初めてである。

 サァリは自分の白い両手を見下ろした。


 ―――― 代わりがいない身だ、気をつけろ、と大人たちは彼女に言う。


 それは神話からの正統を継ぐものとして、彼女だけが特殊な位置に在るからだ。

 ラディ家は作る酒が、ミディリドスは奏でる楽が、神供に相当する。

 それは携わる人間を変えながら、けれど今までしっかりと保たれてきたのだ。


 しかし月白に限っては、重要なのは作られた「もの」ではなく、「人」自身である。

 それはサァリの両肩にのしかかる責任というだけでなく、彼女自身の内にあり、彼女と一体化した重みとして存在しているのだ。

 恋や愛の問題ではない。少なくともサァリは、そういった問題としては片付けられないと思うくらいには、誰か一人のことを考えたことはなかった。


「やっぱりもうちょっと落ち着いてからだよね……」

 少なくとも今は化生を捉えることが先だ。

 気分を切り替えて、サァリは先行する男の背中を見つめなおす。

 と、その時、ずっと先を歩いていたアイドが、急に走り出した。

「え? 何?」

 何があったのかと飛び上がって見ると、どうやら追っていた男が駆け出したらしい。

 尾行に気づかれたのかもしれない。サァリはどうするか一瞬迷ったが、すぐに二人の後を追いかけることにした。

 幸い昼間と違って、走る準備はしてきている。サァリは、アイドの背から目を離さぬまま、舗装された石畳を蹴った。


 一番前を行く男が、角を曲がって見えなくなる。

 距離を詰めたアイドが同じ角を曲がるのを、サァリは目を凝らして記憶した。袖を捲くり、引き離されないよう速度を上げる。

 ―――― そうして前だけを見ていた彼女は、次の瞬間、横からの体当たりに軽々と跳ね飛ばされた。何が起きたか分からないまま地面に叩きつけられ、呻き声を上げる。

「う……あ……?」

 痛みは認識出来ない。だが、体は動かなかった。

 どちらが上かも分からず、ぼやけた視界を探るサァリに、赤い両眼が近づいてくる。


 顔は分からない。視界が定まらないという以上に、それは白い面をつけていた。

 サァリは自分を覗きこんでくる赤い瞳に向かって、朦朧としながらも指を上げる。

 上げたつもりだった。

 彼女の体は直後、無造作に水路の中へと放り込まれる。たちまち何も出来ぬまま、サァリの意識は冷たい暗闇へと沈んでいった。


 こうして巫は、人知れず行方不明となった。

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