第8話 異変


 真昼間の裏通りは、場所によってはほとんどの建物が鎧戸を下ろし、夜に備えて深い眠りを貪っている。

 色褪せて塗装が剥がれ落ちかけた壁。石塀が黒い影を落とす入り組んだ路地を、二人は縫うようにして走っていた。

 前を行く青年が、ついてくる少女を軽く振り返る。

 白い着物姿の少女は額にも首筋にもびっしょりと汗をかき、あと幾許かも走らないうちに倒れてしまうのではないかという様子だ。

 シシュは、肩で息をしている少女を手で留める。

「足止めしてくる。ゆっくり来ればいい」

「で、も」

 サァリが言い終わる前に青年は走る速度を上げた。

 今まで彼女を連れているということで加減をしていたのだろう。たちまち路地の向こうへと見えなくなる青年に、サァリは諦めて足を止める。身を屈めて息を整えた。

「し、しんどい……」

 今まで化生斬りに同行したことは多々あったが、ここまで辛いのは初めてだ。

 呪をかけた化生斬りより先に心臓が爆発してしまいそうである。


 だがそれは別に、シシュのせいというわけではない。ただ単に、化生の数が増えたのだ。

 今日も要請を受けて出た最初の化生は既に始末しているが、それを皮切りとして次々別の化生に出くわしている。

 今追いかけているのは四人目の化生で、子供の姿を取っている分、小回りが効いて捕捉しづらかった。


 サァリは歩いて青年の後を追う。縫い付けることは出来ていないが、追跡用の印はつけている。

 曲がりくねった路地に、点々と落ちて見える赤い粒はその為のもので、サァリにしか見ることが出来ないものだった。

 粒を辿って三つ目の角を曲がったサァリは視線の先に青年の背を見出す。

「あ……」

 彼女のいる角度からでは見えない。しかし足下にいる何かに向かって、青年は軍刀を振り下ろした。

 鈍い音に続いて、赤い粒が溶け入るように消える。化生の消滅を意味するそれに、サァリは小さく息をついた。振り返った青年が彼女に気づいて眉を上げる。

「大丈夫か?」

「や」

「や?」

「役に立ってない……」

 これでは彼の後を追いかけて足を引っ張っただけだ。がっくりとうなだれるサァリに、シシュは目を丸くした。

「そんなことはない。前の三人はちゃんと縫い付けてもらってる」

「ああう」

 彼の言葉はありがたいが、もうちょっと頑張っておきたかった。


 サァリはかけ途中の呪を解こうと青年の傍に駆け寄る。制服の胸に手を触れさせた時、頭上から「うっ」と詰まった声が降ってきた。

 見上げると、シシュは顰めた顔を横へと背けている。

「まだ慣れないの?」

「いや……先に自分の着物を直した方がいい」

「え?」

 言われて見下ろすと、散々走ったせいか白い着物はどうしようもなく着崩れ、胸元が大きくはだけていた。

 安い娼妓でもここまでの格好はしないという有様に、サァリは慌てて合わせ目を掴んで閉じる。

「こ、こんな格好で走って」

「他に見ていた者はいないはずだ」

「あなたは」

「見てない」

「そう?」

 信用していいものか、いまいち納得出来ないが、短い付き合いながらも彼が誠実な人間であることは分かっている。

 サァリは急いで着物を直すと、崩れた髪から簪を引き抜いた。長い銀髪が背に滑り、じっとりと濡れた首筋にへばりつく。


 彼女はシシュにかけた呪を解くと、青年と並んで裏路地を歩き始めた。

「それにしても、一日四人はさすがに初めてです」

「そうなのか。アイリーデでは普通かと思っていた」

「さすがにそれは……。いつもなら半月で五人くらいかな」

 その人数からすると、今日の遭遇率は異常だ。サァリはまじまじと隣の青年を見上げた。

「ひょっとしてシシュが凄く化生に好かれるたちとか」

「そんな記憶はない」

「だよね……」

 冗談で言ってはみたが、そのような性質の人間が実在したなら困ることこの上ない。どう考えてもアイリーデには不向きな人材だ。


 二人は狭い路地から通りへと出る。

 道幅が広くなったことで空がひらけ、昼の白い月が見えた。日に日に膨らんでいく月を、シシュが見上げる。


「あと何日だ?」

「三日くらいだと思う」


 あと三日で、半月になる。その後はしばらくの間、サァリは巫として動けなくなるのだ。

 不自由ではあるが、これが彼女に課せられた制限だ。サァリは青年の横顔を仰ぎ見る。


「少しの間、面倒かけちゃうけど、満月になったら落ち着くから」

「次の半月まで力は戻らないんじゃなかったか?」

「巫としてはそうだけど、満月近くなると化生は出なくなるの。本当は月が大きくなるにつれて今でも減っていくはずなのだけど……」


 今日だけでなくここ数日の様子を見るだに、逆に増えてきているとしか思えない。以前「化生が増えてきている」と客に言われたが、あれは事実だったのだろう。かつてなかった事態に、サァリは首を捻った。


 ――何か原因があるのだろうか。


 だとしたら、それを放っておくことは出来ない。真剣に考え出す彼女の思考に、青年の不思議そうな声が重なった。


「変わってるな。他の街だと満月に一番化生が増えるものだが」

「アイリーデは逆。新月が一番多くて満月が少ないの」


 だから彼女が動けなくなっても、数日を切り抜ければ街には平穏が訪れる。今までもそうやって同じ周期を繰り返してきたのだ。

 しかし当然の事実として流したサァリに、シシュの黒い目が留まる。


「よく出来てる。まるで巫にあわせたみたいだな」

「え……」


 ぎくりとして身を竦めたが、青年の視線は既に道の先を向いていた。サァリはほっと胸を撫で下ろす。

 その辺りの話は、あまり突っ込んで聞かれたくない話だ。彼女がそれについて話す相手は、生涯にただ一人と決まっているのだから。


 それとも自分は、彼を選ぶ可能性があるのだろうか――――


 化生斬りを選ぶこと自体は問題ない。

 性格は無愛想で頑ななところもあるが、真面目で誠実だ。彼女の事情を聞いても、きっと真剣に考えてくれるだろう。


 ただそう言えば、シシュの前歴については何も分かっていないのだ。

 王都から来たと聞いただけで、王都で何をしていたのか、どのような家の生まれなのか、サァリは何も知らない。

 気づいてしまうと謎めいて思える黒髪の青年を、彼女はじっと見つめた。

 しばらくそうしていると、視線に気づいたシシュがぎょっとした顔になる。

「……どうしたんだ」

「私、あなたのことほとんど知らない」

「知らなくてもいいだろう」

「何歳?」

「二十一」

 ということは貴族の子弟では多分ない。

 この国では、ほとんどの貴族は十代のうちに結婚する。

 その大半は名目上のことであり、家同士の付き合いの為だが、結婚すれば化生斬りなどしていられないことは確かだ。


 中にはトーマのように二十七歳になっても妻帯していない変り種もいるが、あれはラディ家という特殊な名家に属しているがゆえだろう。

 サァリは彼が、月白の女であるイーシアを妻にしたがっていると知っていた。そんな貴族は王都に何人もいないに違いない。


 ―――― 王都。


 これはやはり、確かめねばならないことだろう。

 どんな質問で切り出そうか、考える少女の肩をシシュが叩く。

「ほら、ついた。ゆっくり休んでくれ」

 顔を上げたそこは、もう月白の前だ。

 まだ火の入っていない玄関を一瞥して、サァリは振り返る。去っていこうとする青年の服の裾を咄嗟に掴んだ。


「あなたも休憩した方がいいと思うの」

「報告書を書かないといけないんだ」

「昨日、レイエン茶を仕入れました」


 南部以外では滅多に手に入ることのない銘茶の名を口にすると、シシュは眉根を緩めた。


「……少しだけだ」

「はい」


 このようなところはとても分かりやすい。

 サァリは笑いを堪えながら、まだ誰もいない花の間に彼を案内した。

 この時間、月白の娼妓たちは基本的に眠っている。

 サァリは下女に命じてお湯を持ってこさせると、手ずからお茶を淹れた。


 伝手を辿って入手したレイエン茶は、澄んだ琥珀色を湛えている。

 西国から取り寄せた薄い白磁のカップに、その色はよく映えた。

 胸のすくような香りのお茶に、サァリは老舗の茶菓子を添えて、客人へと出す。

「はい、どうぞ」

「頂く」

 満足そうな顔でお茶を飲む青年を見て、サァリはテーブルの向かいに座った。

 本当は風呂に入って汗を流してきたいのだが、それをするときっとシシュは帰っていってしまう。

 月が満ちている間は、彼の性格では月白に寄りつかないだろうし、この機会を逃す訳にはいかなかった。


 サァリは、彼が茶碗を置いた時を見計らって問う。

「シシュって、昔からそういう感じなの?」

「そういう感じとはなんだ」

「いつも苦い顔」

 あたりさわりない質問から切り出してみようと思ったのだが、それを聞いた青年の表情はこの上なく苦いものになってしまった。

 選択を間違えたかもしれない、と思いつつ、サァリは答を待ってみる。

「……確かに、愛想がないとは昔から言われてきた」

「子供の頃から?」

「どうだろうな。覚えてない。士官学校に入った時にはもう言われていたな」

「士官学校」

 彼女がその単語を復唱すると、青年は己の失言に気づいたらしい。ばつが悪そうに続ける。

「昔の話だ。今は関係ない」

「なんか……シシュが固い性格してる理由が分かった気がする……」

「昔の話だと言ってるだろうが……」

 冗談として紛らわせながら、サァリは更に分からなくなった青年の素性に悩んだ。


 王に仕える士官を育成する学校は、上流の家の人間か、平民であれば飛び抜けて優れた成績を持つ者しか入れない。

 この青年はどちらに属する人間なのか。仕草や振る舞いに粗野さはないが、それは上流の人間の多くが持つ優美さとはまた違う。まったくもってよく分からない。


「士官学校を出て化生斬りになったの? すごくもったいない気がするんだけど」

「なろうと思ってなった訳じゃない。昔から見えてたからな。そういうことを押しつけられているうちに、いつの間にかそうなった」

「どうしてアイリーデに?」

「化生斬りを増やしたいと自警団から王都に要請があったそうだ。それが回り回って俺のところまで来た。―――― と言っても、この街の化生斬りは、別に見える素養がなくてもいいのか」

「うん。見えるに越したことはないけど、見えなくても平気。実体だし。むしろ腕が立って、化生の動きに慣れてるって方が重要かな。シシュも団長と手合わせしたでしょう?」

「した。三本勝負と聞いたが、一本しかやらなかったな」

「それで通ったんだ。凄い」


 一本手合わせをしただけで、化生斬りの飾り紐が渡されたということは、この青年がかなりの腕前の持ち主ということだ。

 感嘆の声を上げる彼女に、シシュは白い目を向ける。


「こんな話を聞いてどうするんだ」

「あなたに興味があるから」


 さらりと返して、サァリはお茶を注ぎ足した。青年は今の返事に厭そうな顔をしたが、それには気づかぬ振りをする。


 普段は女たちがくつろいでいる広間には、今は彼ら二人しかいない。

 甘い香りも心地の良い楽の音もない部屋は、少しの緊張を含んで、だがそれでも不思議と落ち着く気がした。

 サァリはテーブルに置かれたシシュの手を注視する。長い指は、刀を握る節くれだったものだ。彼女はそれに触れてみたいと、ぼんやり思う。


 ともあれ、今重要なのは別のことだ。

「王都に帰りたいって、思わない?」


 ―――― 王都と彼の関係。


 それがもっとも知っておきたいことだ。王はアイリーデの解体を考えているというが、その目的も手段も、サァリは未だ何もつかめていない。

 あれから一応、王都に住むトーマには聞いてみたのだ。だが彼は「そんな話は聞いたことがない」と言う。

 一方、アイリーデの街で囁かれる噂に耳をそばだてれば、同じようなことを言っている人間は何人もいる。

 この不穏な話題は決して表に出ることはないが、夕闇の昏さに紛れるようにして、街の中に広まりつつあった。


 噂が語られ出す直前に王都から来た青年を、サァリは注意深く観察する。

 媚態や好奇心を盾にしての探りに、シシュは見たところ虚実を混ぜこぜに返しているようだ。

 少なくとも嘘はついていないのかもしれないが、本当のところは微妙にはぐらかされている気がする。

 それが彼の性格によるものなのか、もしくは隠さねばならない理由があるのか、サァリは今のところ判別をつけられないでいた。


 彼女の質問に、シシュはかぶりを振る。

「何処であろうと自分の仕事をするだけだ。場所には拘りがない」

「この街にも慣れた?」

「少しは」

「私にも?」


 化生を縫う右手をひらひらと振ると、彼は苦笑した。


「さすがに慣れた。好きではないけどな」

「じゃあ好きになってもらえるまで縫います」

「何故……」


 嘘のないげっそりした様子からすると、余程呪が苦手なのだろう。

 サァリが笑い出しかけた時―――― だが、広間の扉が乱暴な音を立てて開けられた。下働きの少女が飛び込んでくる。

「ぬ、主様! 大変です!」

「どうしたの?」

「化生が人を殺しました! 召集要請がきています!」

 その叫びに、二人は同時に立ち上がった。

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