第7話 縛



 出された料理は、丸一日ぶりの食事であることを除いても充分に美味しかった。

 偶然が重なって月白の客となった青年は、香りのよい白茶にくつろいだ気分を味わう。

 しかしすぐに、我に返るとがっくりと肩を落とした。


「何やってるんだ、俺は……」


 街を見て回ろうとここ数日散策を重ねていたのだが、最終的に化生を追いかけて水路を回ることになってしまった。

 しかも巫の少女に聞いたところ、それは要らない苦労だったというのだから脱力ものである。

 どうして誰も教えてくれなかったのか、と言いたくなるが、子供ではないのでそんなことは言えない。言えるとしたら、彼をアイリーデに遣った男に対してくらいだろう。


「まったくあの人は……何が『どんな街か調べてきてくれ』だ。絶対化生のこと知ってて黙ってただろ」


 遠く王都に住む男ではあるが、その程度の情報が手に入らないわけがない。どうせ「面白そうだから黙っていた」などと言うのだろう。まったく腹立たしいが、そういう人間なのだから仕方ない。


 だがそれはそれとして、アイリーデについて彼が報告を求めていることは確かだ。

 シシュに期待されているのは、化生斬りの戦果などではなく、この街を見て感じたそのままの雑感である。

 王都より古くから在る街がどのような場所なのか、彼はシシュの口から直接話を聞いて、判断の材料としたいのだろう。

 軽くない責任を負わされた青年は、気を取り直すと白茶を飲み干す。

「―――― やはり帰るか」

 服は明日取りにくればいい。このままここに泊まるのも、自分の失態が発端とくれば、間抜けな話だ。


 シシュは軍刀を手に取ると、借りた着物の上から部屋にあった黒い外衣を羽織った。廊下に出て適当に出口を探す。

 来た時は床を濡らさないよう気をつけつつサァリの後をついてきたせいか、道がさっぱり分からない。突き当たりに出た彼は左右を見回し、適当に右の廊下へと進んだ。

 けれど、数歩も行かないうちに、別の廊下から出てきた女とぶつかりそうになる。

「危ない」

 余所見をしていた女の肩を抑えて留めると、彼女は幽霊にでも出会ったような顔をした。

「あなた……え? 向こうから来たの?」

「そうだが、出口を教えて欲しい」

「出口って、でもそっちはサァリの―――― 」

 遠くから少女の悲鳴が聞こえたのは、その時だった。


 シシュは女を置いて駆け出す。よく磨かれた廊下を、声のした方向に向かって走った。

 まもなくひらけた場所に出ると、そこにあった階段を下りる。

 階下には同じ悲鳴を聞きつけたのか、娼妓たちが集まってきていた。

 彼女たちは皆、表玄関の更に外を窺っている。その中にサァリの姿はない。

 青年は嫌な予感に駆られつつ、女たちをかき分け裸足のまま外へ出た。

 すぐに、門のところに立っている少女の後姿を見つける。

 巫である彼女の銀髪は、月光を受けて白々と輝いていた。


「おやめなさい」


 暗い中に響くサァリの声は、今まで聞いたことのない冷ややかなものだった。

 シシュはそのことに驚いて、彼女の視線の先を見やる。

 大通りから外れ灯りも乏しい闇の中、立っているのは一人の女だ。

 女性にしては長身の彼女は、黒い髪を振り乱しており、左腕に別の少女を抱きこんでいる。

 恐怖を露わにして固まっている少女は、服装からして月白の下働きなのだろう。喉を震わせて「ぬ、主様……」とサァリを呼んだ。

 サァリは少女を安心させようとしてか、小さく頷く。

「彼女をお放し。お前のやっていることは無意味でしかない」

「黙れ!」

 濁った声は、男のものにも女のものにも聞こえた。赤い両眼が暗闇で光を持つ。


 ―――― 化生だ。


 シシュはその特徴を認めると刀を抜いた。光を反射する刃に反応してか、化生が顔を上げる。つられてサァリも彼を振り返った。

「あ、聞こえてしまいましたか……」

「構わない。下がっていろ」

 いくら巫とは言え、化生と直接戦う力はないはずだ。

 シシュは彼女を庇って前に出た。化生は赤い目を憎々しげに歪めて彼を睨む。

「おのれ、化生斬りか」

「その娘を放せ」

 化生に捕まっている少女は、蒼ざめて息も切れ切れだ。

 だが、彼女を放しては分がないと悟っているのか、化生はますます少女を締め上げた。

 低い声がシシュを嘲る。


「見ぬ顔だ。新参か? 他の街で大人しくしていればよかったものを」

「それはお互い様だな。お前も実体を持たねば、消え入るように死ねただろう」

「ほざけ。視ることしか出来ぬ余所者が、我を殺せると思うているのか」


 その挑発は、他の街の化生斬り全てを指しているのだろう。

 普通は曖昧な影でしかない化生は、視認出来る者もそう多くはないのだ。

 そして、そんな化生を見ることが出来、なおかつ斬り捨てられるだけの剣の腕を持った者が「化生斬り」と呼ばれることになる。


 だがアイリーデでは、化生を見るだけなら誰にでもそれが可能だ。新参の余所者と侮られるのも無理はない。

 もっともシシュ自身、いつまでも侮られているつもりはなかったが。


 彼は軍刀を低く構えると一歩踏み出す。

 隙のない足捌きに、化生は気圧されたのか後ずさった。引きずられた少女が小さな悲鳴を上げる。

 ―――― 逃げられては不味い。

 正面からやりあって負ける気はないが、また昨日のようなことになっては困る。

 シシュがその可能性を考えた時、だが白い華奢な手が彼の腕に触れた。銀髪の少女が隣に並ぶ。


「これは、ちょうどよい機会かもしれません」

「サァリーディ?」

「巫の役割をお見せします」


 何をするのか、と言う前に、サァリの右手が彼の胸へと伸びた。

 細いしなやかな指先、薄紅の爪が、着物の合わせ目へと触れる。


 ―――― 否、少女の指は着物を突き抜けて、彼の体の中へと食い込んだ。


「……っ!」


 心臓を、何かの力が強く打つ。

 比べるもののない衝撃。


 シシュの全身は一瞬で戦慄した。彼は反射的に跳び下がって少女から距離を取る。

 しかし苦笑するサァリから自分の胸元へ視線を移した時、そこには何の傷跡も見られなかった。

 幻覚でも見たのだろうか。シシュは白い着物の少女を見返す。

「今のは……」

「慣れないうちは皆、嫌がるのです」

 サァリはそうして化生を振り返った。シシュに向けた右手を、ぎらつく赤い目へとかざす。

 月明りの下、サァリの白い手はまるで光そのもののように見えた。

 彫像を思わせる美しい造作。緩くまとめられた銀髪が揺らめいて非現実感を煽る。

 彼女のいる場所はそこだけ浮き上がっており、注がれる月光を吸い込んで溜めているかのようだ。

 シシュは一枚の絵を思わせる光景に、ほんの僅か見入る。


 少女は形のよい指で化生を指し、告げた。

「古き約において」

 短い呪。

 それを聞いたシシュの心臓にも、軽い痺れが走る。

 だがより顕著な変化があったのは化生の方だ。

 女の姿をした人外は、弾かれたようにわなないて悲鳴を上げる。人質の少女を放り出し、地面に這いつくばった。


 何が起きているのか、シシュには分からない。

 ただサァリは、這って逃げようとする化生の上に、嫣然とした声を投げた。

「まだこれからなのに」

 彼女は振り返ると、距離を取ったままのシシュを手招く。

「あれは、あなたに縫い付けてあります。もう遠くには行けません」

「……これが、巫の力か」

「ええ。一度縫い付ければ引き寄せることも出来ますよ。命じてみてください。『ばく』と」


 それもまた呪なのだろう。

 シシュが迷いつつも口の中で「縛」と呟くと、化生は耳障りな悲鳴を上げた。びくりと跳ねた体が、彼の方へと近づく。

 けれど、その動きと呼応して、シシュの心臓もずきりと痛んだ。

 彼の表情に気づいたのか、サァリは微苦笑する。


「引き寄せることも出来ますが、あなたの方にも負担はかかるのです」

「先に言ってくれ」

「試してみた方がいいかと思いまして……。でもこれで、あれはあなたから逃げられません。焦がれるようにあなたに引かれ、あなたの呪に縛られる……そういうものになってしまったのでございますよ」


 少女は目を閉じて、口元だけで笑う。

 その様はいびつな程妖艶で、触れるのも忌まわしい引力があった。

 たった一人を待ち続けている娼妓―――― そんな言葉をシシュは思い出す。まだ先程の衝撃を覚えている心臓が、不規則な軋みを上げた。


 動かない彼に気づいてか、サァリは両眼を閉ざしたままで促す。

「どうぞ」

 巫の声は、優しくも残酷でもなく、ただあるがままのものだ。

 彼女自身は中立ではないのかと思う程になめらかな声に引かれて、シシュは前に出る。

 人質は既にない。化生は道を這って、茂みの中へ逃げ込もうとしていた。

 彼は素足のまま一歩一歩その背へと近づいていく。サァリの声が後ろから場を打った。

「逃げることは出来ない」

 混じり気のない宣告に、化生は体を大きく震わせる。赤い目が恨めしげにシシュを振り返った。

「化生斬り……お前さえ」

 その後に続いたものは言葉ではなかった。


 髪を振り乱した女は、四肢をばねに大きく跳躍する。

 月の光を遮り、軍刀を構える青年に向かって空中から飛び掛った。

 首を刎ねようと女の手が一閃される。


 しかしシシュは、恐るべき速度の攻撃を、一歩右に動いて避けた。間髪入れず軍刀を斬り上げる。

 刃から伝わる感触は、人を斬った時となんら変わりのないものだ。

 どさりと落ちた腕には目もくれず、彼は悲鳴を上げて転がる化生へと歩み寄った。

 砂と血と涙にまみれた顔が、哀願を湛えて彼を仰ぐ。


「まって。ころさないで」


 憐れを誘う声はその時、子供のもののようにも聞こえた。斬り落とした右腕から流れる血が、女の着物を汚している。

 まるで人と同じ生き物。

 シシュはその血と、震える女の体を順に見た。

 最後に人ならざる赤い両眼に視線を止める。


 空隙。

 少女の言葉が耳奥で鳴る。


『――斬らねば街が立ち行きません』


 青白い月光が、汚れた刃を滑っていった。シシュはふっと浅い息をつく。

「化生は、地へと還るものだ」

 女の顔が絶望に歪む。

 次の瞬間その首は、斬り落とされ夜の闇へと霧散した。





 化生の死と共に、その血や腕もまた音もなく消え去った。

 軍刀の刃を確認して、そのことに気づいたシシュは、刀を軽く振って鞘に収める。

 振り返るとサァリは、少し申し訳なさそうな顔で彼を見ていた。


「後味の悪い思いをさせてしまいましたか」

「別に。それが仕事だ」


 少女は微苦笑して頭を下げたが、シシュの足元に目を留めると店の方を振り返った。すぐに客用の下駄を手に下女が駆けてくる。

 サァリは自分がそれを受け取ると、青年の前に歩み寄り、路に両膝をついた。

 履物を受け取ろうと手を出しかけたシシュは、目を丸くする。


「気づかず失礼いたしました」

「いや、待っ……」


 少女は有無を言わせず彼の足を自分の膝に上げ、土を払った。

 白い指が丁寧に挟まった小石を摘み、砂粒を撫で落としていく。

 艶かしいその光景に、シシュは自分の足下から目を逸らした。最後に下駄を履かせてもらい、言葉にし難い落ち着かなさを覚える。


 どうにも母親の手を借りる幼子のようだ。

 サァリが腰を上げると、青年は苦りきった顔で釘を刺した。

「客じゃないんだ。適当にしてくれ」

「……つい性分で。そのようなことを言われるとは思いませんでした」

「巫に膝をつかせて喜ぶ趣味はない。普通でいいんだ」

「普通?」

 サァリは考え込むように首を捻る。困惑しているのか迷っているのか、稚い仕草で彼を見上げた。


「普通でいいの?」

「いい」


 彼が頷くと少女は笑い出す。口元を押さえて楽しそうに笑う彼女は、年相応に愛らしく―――― シシュの目には、まるで先程の巫と別人のように映ったのだった。

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