第6話 アイリーデ
「どうなってるんだ、この街は」
濡れ鼠になった青年の第一声は、不機嫌極まるものだった。
先日会った時と比べるといささか乱暴な言葉遣いだが、こちらの方が彼の地なのだろう。
我に返ったサァリは、懐から手布を出しつつ問う。
「この街がいかがいたしましたか」
「化生が実体を持っていた」
「ここではそうなのです」
驚愕の事実のように言われても、昔からそうなのだから仕方ない。他の人間に聞かなかったのだろうか。
サァリは背伸びして男の顔に手布を伸ばす。
青年はぎょっとしてのけぞりかけたが、結局はされるがままに前髪や顔を拭かれた。
居心地の悪そうな表情は、まるで十代の少年のようで、サァリは笑い出しそうになるのをぐっと堪える。
「化生を追いかけて水に入ったのですか?」
「ああ。もう殺したが」
「風邪を引いてしまいますよ」
昨日から行方が知れなかったということは、かなり長い時間化生を追いかけていたのかもしれない。
サァリは言いたいことを飲み込んで、青年の濡れた袖を引いた。
「ともかく、ここからはすぐですから月白にいらしてください。着替えと温かいお食事をご用意しますわ」
「そこまでしてもらうのは」
「このような状態の化生斬りを放置して一人帰っては、月白の巫の名折れです。すべきことをせずに苦戦をさせてしまったのですから」
「すべきこと?」
―――― この青年は本当に何も聞いていないのだろうか。
サァリは呆れつつも、表情にそれを出すようなことはしなかった。むしろにっこりと微笑んでみせる。
「アイリーデの化生は実体を持ち、人に紛れることが可能です。ですから巫は、化生斬りから要請を受けて、化生をその方に縫い付ける役割を持っているのです」
「縫い付けるって……」
「それが済めば、化生はその方から一定以上離れられなくなります。あとは糸を手繰ればおしまいです。―――― この街の化生斬りは皆、厄介な相手をそうして追います」
だからトーマも、この青年をサァリのもとへ連れて来たのだ。アイリーデの化生斬りは巫と無関係ではいられない。時には巫を伴って化生を追うことさえある。
しかし愕然としているシシュの様子を見るだに、誰もそれを彼に教えなかったのだろう。
サァリ自身も、トーマが説明するだろうと思って言わなかったのだから責任はある。
彼女は膝を軽く折って頭を下げた。
「次は私にお声がけください。きっとお役に立ちますから」
サァリは顔を上げ、もう一度「月白にお越しください」と誘う。
青年は今の話で気が抜けてしまったのか、今度は断りの言葉を口にはしなかった。
月白には十三の客間があるのだが、その全てが埋まることなどまずない。
その為、シシュを連れ帰ったサァリは、火入れをしてすぐ、もっとも奥まった二階の客室に彼を通した。下女に食事の支度を言いつけ、自分は着替えの着物を用意する。
客間はそれぞれ、敷地の外周の庭に面しているのだが、客間同士の窓が見えることはない。
ただ普段は使わぬこの部屋の窓からは、サァリの部屋がある離れが木々の向こうに見ることが出来た。
今は灯りのついていない建物を一瞥すると、彼女は膝をついて窓の障子を閉める。そのまま開けることの出来ぬよう掛け金を下ろした。
広い座敷を改めて見回したサァリは、溜息をつく。
「まさか本当に何も聞いてないとか」
ここまでの道中話を聞いたところ、化生斬りの青年は、王都からこの街に赴任と言われて何も知らぬまま来てしまったらしい。
さすがにそれは命取りだと思うのだが、アイリーデの人間が総じて不親切なのも悪いだろう。
特にアイドなどは、聞かれても絶対教えない気がする。変に独占欲の強い男は、彼女が他の化生斬りに同行するのもよく思わないのだ。
そこまで考えてサァリは、アイドに忠告されたことを思い出した。
「そういえば王が―――― 」
「王が何か?」
背後から掛けられた声に、サァリは飛び上がった。いつの間に風呂を出ていたのか、そこには紺色の着物に着替えた男が立っている。
きちんと軍刀を佩いている男を、サァリは見上げた。
「丈はちょうどよろしいようで」
「俺の服は」
「洗いに出しました」
青年の綺麗な顔がみるみる顰められるのを、サァリは面白く眺めた。
どうやら彼の険しい表情は、それ自体が普通の状態らしく、何かあるとより一層厭そうな顔になる。
その変化は見ていると楽しいのだが、主として楽しいで片付けては不味いだろう。
「朝までには乾きます」
「……朝までここにいろと?」
「自警団の宿舎より寝心地が悪いということはありませんわ。折角ですし、お客様としてご滞在ください。私がお世話させて頂きます」
たまにそうして娼妓を入れず、宿代わりに使う常連もいるのだ。別に気兼ねをされるようなことでもない。
しかしシシュの表情は、それを聞いても元の無愛想には戻らなかった。
青年の目は理解出来ない、といった風にサァリの上で留まる。
「貴女は娼妓ではないはずだ」
「はい、違いますけど、って」
サァリはぽんと両手を鳴らす。そういう誤解をされていたのかと、気づいてしまうと無性に可笑しくなった。笑いそうになる口元を押さえて訂正する。
「い、いえ、そういう意味ではないのです。あなたは私が招いた方ですし、広間を通していませんから……月白の女はつけられないのです。代わりに必要なものなどの御用事は、私が申し付かりますので」
ご安心ください、と微笑むと、青年は僅かに眉を緩める。
生真面目な性格なのかもしれない。サァリは彼のその様子に幾許か好感を抱いた。
他の化生斬りは揃いも揃って癖が強いので、普通の神経を持った人間が貴重に思えるのだ。
シシュは、自分の勘違いを気まずく思ったのか、彼女からふいと視線を逸らすと障子を見る。
「そういうことであれば、ご好意に甘える」
「ありがとうございます。あと……私で答えられることでしたら、どうぞお聞きください」
彼はまず、この街の常識について知らねばならない。立ち上がったサァリが微笑むと、シシュもそれを感じていたのか頷いた。
ちょうどよく下女が夕食を持ってくると、サァリはそれを手伝って卓に並べる。
酒は飲まないという青年の為にお茶を淹れつつ、二人きりに戻ると、少女は自分から口を開いた。
「この街の成り立ちについて、あなたはご存知でしょうか」
「古き国の王が、神に捧げる為に作った街というやつか」
「ええ。その由来は嘘ではありませんで、アイリーデにおいては未だその頃の力が残っているのです」
汁椀を置いた青年に、サァリはお茶を差し出す。
今日買ってきたばかりの白茶を見て、青年は嬉しそうにも見える様子で目を細めた。
お茶が好きなのだろう。職業柄、サァリは覚えておこうと、その表情を頭の隅に留める。
青年は白磁器の茶碗を手に取った。
「神の力が残っているから、化生が実体化すると?」
「享楽街であるから、というのもあるでしょう。人の気が満ちていて、更にそれが嵩上げされている。あなたがご存知の化生は、陽炎のように曖昧な存在で、鳥獣の姿を取り、人に悪しき誘いをかける、というものなのでしょうが、ここでは化生は、容易く人の姿を借ります」
「人の姿を、借りる?」
驚きの声は、サァリには予想出来たことだ。彼女は一つ頷いて付け足した。
「アイリーデの化生が取る姿は、人の想念に在る人の姿なのです。美女を空想してその姿になることもあれば、実在する者と同じ姿になることもある。そして虚が真になるように、実体を得て人の中に紛れ込むのです。昔の記録には娼妓に混ざって客を取っていた化生もおりましたよ」
「それは……凄い」
「ですが化生は基本、周囲に負を呼び込むものですから。害意のないものでも周りの人間が病に倒れたり気鬱になったりしますし、直接人を食らおうとするものもおりますしね。斬らねば街が立ち行きません。―――― あなたが追った化生は、どのようなものでしたか?」
「子供を攫おうとしていた。誰何したら子供を抱いて水に飛び込んだ」
「ああ……」
それであのようなことになったのか。サァリは、まだ若干濡れたままの男の髪を見やった。
「アイリーデの化生は実体を持つ分、余所の化生のように姿を変えられません。もし姿が特定出来たのなら私をお呼びください」
「縫い付けるというやつか」
「はい。化生斬りに繋がれてしまえば、化生は自由に動けなくなります。糸の一端を持つ化生斬りはそれを手繰ることが出来ますから捕らえるのは時間の問題です。追われるのを嫌って自分から向かってくる化生もいます」
「それならそれで面倒がないな……」
化生を追い回して水路を潜った経験は、青年に少なくない疲労感を植えつけたらしい。げっそりして見える彼の、白い茶碗にお茶を注ぎなおしたサァリは、卓から下がって腰を上げる。
「お食事がお済みの頃にまた参りますね。何か気になることがおありでしたら、その時にお伺いします」
「ああ、済まない」
「お気になさらず」
今日は彼を拾った為、そのまま客間へと来てしまった。残っている仕事を片付けねば他に滞りが出るだろう。
サァリはシシュを置いて部屋を辞すと、まず裏に回った。細かい報告を受け、下女たちに指示を出す。
奥にいた間にも、特に問題は起きていないようだ。彼女は一旦着替えてから、最後に花の間へと顔を出した。
広間の中央では馴染みの老人二人が、棋盤を挟んで向かい合っている。
そのテーブルの周りには女たちが興味深げに集まり、勝負の行方を見守っていた。
駒を手にした老人の一人が、サァリに気づいて手を上げる。
「主嬢、今日は遅かったね」
「裏に回っていたのです。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」
「構やしないよ。遊び相手はいっぱいいるからね」
そう言って老人が盤の向かいを指すと、真剣な表情で盤を睨んでいたもう一人は嫌そうな顔になった。
「いいからさっさと指せ。巫の邪魔をするな」
「負けそうだからって、そう怒らんでもいいだろう」
ぱちりと駒を指す音が広間に響く。
サァリが一礼して奥に戻ろうとすると、劣勢だった老人が彼女を振り返った。
「巫よ、最近急に化生が増えたらしいな」
「増えた……でしょうか」
サァリのところに来る要請は、特に増えているわけではない。半月に五件程で普段通りだ。
だが、化生に関しては、街の住人が見かけて自警団に連絡を入れるか、見回りをしている自警団員自身が発見するかで化生斬りが動き出すのであり、サァリに毎回話が来る訳でもないのだ。
先程の青年がそうしたように、巫へ要請を出さずに斬り捨てられる化生もいるだろうし、そういった化生の数まではサァリも把握していない。
もし本当に化生が増えているのなら、きちんと確かめた方がいいだろう。
神妙な顔になった少女に、老人は苦笑して見せる。
「そんな顔をするな、巫よ。いいかい、化生斬りは兵隊だが、お前さんは違う。代わりがない身だ。よく気をつけなさい」
ぶっきらぼうな言葉は、彼女を心配してのものだ。
化生斬りの命が軽いわけではないが、それ以上に彼女の存在は重い。
サァリが否定したくとも、事実はそうだ。それを弁えていなければ街自体に迷惑をかけてしまう。
サァリは二人の客に向かい、深々と頭を下げた。
いつでも肩に感じる重みは、既に身の一部になってしまっているような気がした。
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