第5話 噂



 アイリーデは眠らない街だ。

 妓館に火が入る夜は勿論、昼も劇場を訪れる人々や、大道芸人を見に来る者たちで絶えず賑わっている。

 大通りでは楽師や芸人たちが場を作って己の技を披露し、足を止めた旅客を軒先から店の者が呼び込む。

 渾然としつつも華やかな空気は、人の心を浮き立たせる魅力に満ちていた。


 うららかな春の昼下がり、笛の音が響く大通りを行くサァリは、立ち並ぶ店々を見渡す。

 嗅いだことのない香の煙が漂ってきた為、その出所が気になったのだ。

 月白の女たちは、半数以上が外出を好まず館に引きこもることを常としている。

 出入りの商人はいるが、新たな香を買って帰れば女たちに喜ばれるだろう。

 今もそうして細々としたものを買い出していたサァリは、香りを辿って一軒の店を覗き込んだ。南部由来の印が染め抜かれた暖簾をくぐろうとする。―――― その時、後ろから誰かに肩を掴まれた。


「買い物か? サァリ」

「……びっくりした」


 振り返って目の前にいたのは、旧知の人間だ。

 紺の制服ではなく、墨色の着物を着た男。金髪碧眼という典型的な南部の容姿の彼は、けれど生まれからしてアイリーデの人間である。

 男は愛想よく笑いながら少女を腕の中に引き寄せた。

「久しぶりだ。会いたかったぞ」

「暑苦しいので離して欲しいな……」

 いくらアイリーデとは言え、日中の往来で抱きしめられているのは悪目立ち以外の何ものでもない。

 サァリは体をよじって男の腕から逃れた。男が佩いている軍刀に指が当たり、飾り紐の先の黄水晶が硬い音を立てる。

 少女は、きちんとしていれば貴族の子息にも見える男の顔を、まじまじと見上げた。

「まだ帰ってきてないのかと思ってた」

「帰って来たばっかりだ。サァリの顔が見たくて探した」

「もっと出張しててもよかったのに」

 つい本音を言ってしまうと、再び男の腕が伸びてくる。

 サァリは慌ててその手に捕まらぬよう飛び退いた。


 アイド・ルクド―――― 新人の青年が来るまで、もっともサァリと年が近かった化生斬りの男は、少女の反応に不満げな声を上げる。

「つれない。サァリが言うから折角遠くの街まで行ってきたんだぞ」

「私は言ってません。月白は連名になかったでしょ」

 事実を指摘すると、アイドはますます口元を曲げた。甘さのある顔立ちのせいで、そういう表情をすると妙に幼く見える。


 だがサァリは、この男が自警団員の中でも屈指の腕を持つ剣士であることを知っていた。

 だからこそ、アイリーデの老舗たちは、得意客である豪商の依頼を受けて、彼を南部の街に出張させていたのだ。

 その豪商は月白の客ではなかった為、サァリは要請書の連名に参加していなかったが、求められたら署名してもいいかと思っていた。

 単にアイドが街にいると、こうして絡まれることが多いからだ。

「せっかく帰って来たんだから、少しは休んだら?」

「なら今夜にでも月白に行こう」

「紹介状書いてあげる。今」

 アイドに来られては、べたべたとまとわりつかれて仕事にならない。

 それでも化生斬りは基本多忙である為、そう長居はしないのが救いだろう。

 そこまで考えてサァリは、数日前に会った青年のことを思い出した。

「そういえば、アイド」

「なんだ? オレを客に選ぶ気になったか?」

「絶対やだ。―――― ね、新しく来た化生斬りの人にはもう会った?」

「はあ?」


 アイドの声音は、不愉快という文字が透けて見えるかのようだ。

 サァリは己の失敗を悟ったが、何かを言うより早く男の手に顎を掴まれる。無理矢理に上を向かされ、至近から顔を覗き込まれた。

「サァリはそいつに会ったのか?」

「あ、会った。巫なんだし……会わなきゃ後で困る」

「困らせとけ。怪しい奴に会うな」

「別に怪しくないって。トーマが連れて来たのよ」

 サァリにとって、王都にいた頃から知っているトーマは全幅の信頼を寄せる数少ない相手だ。

 その彼がいくら化生斬りとはいっても、問題のある相手を彼女のところへ連れてくるはずがない。

 サァリは抗議の意を込めて目の前の男をねめつけた。

 アイドは薄い青の双眸を細めて少女を見返す。

「サァリ、誰にでも気を許すな。最近王都で不審な噂が流れているのを知らないのか?」

「噂?」

 ここのところずっと月白で暮らしているサァリは、王都に一月以上帰っていない。

 トーマもそのような話はしていなかったはずだ。「分からない」という表情を読み取ったのか、男は溜息をつく。

「ここじゃなんだな。サァリ、おいで」

「どこに?」

 顔を拘束されていた手が離されると、少女は男から距離を取る。

 周囲を見回すと、見目のよい二人が揉めていることに好奇の視線を送る通行人もいたが、アイリーデの人間は、表面上は無関心を貫いているようだ。男女の諍いなど珍しくもないと思っているのか、関心のない振りをして聞き耳を立てているのかは分からない。

 このまま逃げてしまおうかと考えるサァリに、男は手を差し伸べる。

「茶屋にでも行こう。部屋が分かれてるところがいい」

「え……アイドと二人にはなるなって」

「誰がそんなこと言った」

「トーマ」

 その名を聞くと、男はますます顔をしかめる。

 サァリに絡もうとするこの化生斬りとトーマは、以前からどうにも仲が悪いのだ。


 正確に言えば、トーマの方はまともに彼の相手をしていないのだが、アイドは彼女の兄同然と言って憚らない男を目の敵にしている。

 サァリからしてみれば、どちらかと言えばトーマの肩を持ちたいし、それよりも仕事の邪魔をしないで欲しい。

 結論としてアイドの優先順位はすごぶる低く、巫としての仕事以外では大体邪険にされていた。

 男の手が届かぬぎりぎりの位置を保つ少女を、アイドはぶすっとした顔で見つめる。

「サァリ……」

「ちょっ、あ、そうだ。飴茶買わないと。一緒に行ってくれる?」

 これ以上平行線を辿って、また抱きつかれても困る。

 見え見えの機嫌取りだが、両手を合わせて頼むと、アイドは表情をゆるめた。

「仕方ないな」

「ありがとう、アイド」


 二人は暗黙の了解で近くの角を曲がると、大通りから外れる。

 この街には客たちが使う通りの他に、住人しか通らぬ入り組んだ路地も網の目のように存在しているのだ。

 そのうちの一本を通って飴茶屋へと向かいながら、サァリは隣を行く男を見上げた。

「それで、噂って?」

「王がアイリーデの解体を考えているそうだ」

「え?」

 男の返事は予想だにしないもので―――― サァリのぽかんとした返事は、寝耳に水を体現したかのように、間の抜けたものになってしまった。

 サァリは眉を寄せて聞き返す。

「解体って、なんで?」

「去年即位した新王があちこち改革に手をつけているのは知ってるか?」

「知ってる。若い王だからか凄いよね。まだ三十三くらいだっけ」

「他人事みたく言うな、サァリ。その王の次の目標はこの街だぞ」

「ええ……?」

 もう一度上げた声は、先程よりも訝しげなものになった。サァリは顔を斜めにして男を見上げる。

「でもこの街は」

「神話時代からの不可侵。けど明文化されてるわけじゃない。この国が出来た時も、不文律によってその権利を保たれたってだけだ」


 古き国の時代に作られたアイリーデは、今まで所属する国の名を変えながら、だが何処に支配されることもなく独自の位置を保ち続けてきたのだ。

 勿論、その権利を得る為に、アイリーデの店々は国へと一定の税を納めている。

 ただそれも、王にへつらっているというよりは、自分たちを擁する国への投資という意味合いが大きい。

 事実、大陸でも名高いこの街を庇護する国は、豊かで平和な時代を得ることが多いのだ。

 それはアイリーデの街が納める多額の税や、この街の客たちが持つ強力な人脈と無関係ではないだろう。

 アイリーデはそうして国と半ば対等な関係を持ちながら、今日まで栄えてきたのだ。


 そんな街で暮らしているサァリからすると、新王がこの状態を崩そうとしているとはまさに寝耳に水で、容易く理解出来ることではなかった。

 釈然としない顔の少女に、アイドは渋い顔で付け足す。

「疑問に思うのは分かるが、王の考えなんて俺たちに理解出来るものじゃないだろう。今まで手が入れられた他の件に関してだって、皆、不文律に安心しきっていたんだ。アイリーデも例外じゃない」

「でもいくらなんでもこの街を解体なんて」


 ―――― 物を知らない、と言いかけて、サァリは言葉を飲み込んだ。代わりに小さな溜息を落とす。

 その様子が消沈しているように思えたのか、男は俯きぎみの少女の頭をそっと撫でた。


「アイリーデを上手く使えば金も力も手に入るからな。王としては、そういう奴らを抑えたいってのもあるだろう。国が変わっても貴族であり続けるラディ家や、芸楽師を通じて膨大な人脈を築いているミディリドス。神話時代からの正統は王であっても無視出来ぬ力を持っている。―――― それに並びたいと思う者が出てきてもおかしくはないし、王が用心するのも無理はない」

「それは……」


 アイドの言っていることは事実だ。神話にある神が欲した三つの代価。

 そのうちの美酒と音楽を用意した者たちの正統は、今なお緩やかな繁栄を続けている。

 彼らの様を見て、自分たちもそうなりたいと考える人間もいるだろう。

 だがそれはそれとして、アイリーデはやはり不可侵の街なのだ。

 少女の浮かない表情に気づいて、アイドは苦笑する。

「同じ神供しんぐであっても、ひっそりやっている月白からしたら迷惑な話だろうがな。そういう噂は実際にあるんだ。用心するに越したことはない」

「……分かった」

「だから王都の人間は信用するなよ。トーマとかは特に」

「ひょっとして、それが言いたかったの?」

 真面目な話が最後で台無しになった気がする。

 私怨を口にして憚らない男に、サァリは冷たい目を向けたが、アイドは薄青い目を細めて笑っただけだ。



 二人は曲がりくねった路地を右に曲がる。馴染みの飴茶屋まであと少しというところで、アイドは彼女の手を取った。足を止めた彼女の、なめらかな掌に口付けを落とす。

「オレはもう行くが、サァリ、今の話を忘れるなよ」

「うん」

「王都から来た化生斬りには特に気をつけろ。もっとも、昨日から見回りに出たまま連絡が取れないらしい。もう死んだかもな」

「え……?」

 呆気に取られたサァリが聞き返そうとする間に、しかしアイドの姿は角の向こうへと消えた。取り残された少女は、聞いた話を反芻する。

「アイリーデの解体? あの人が行方不明?」

 それは何処までが関係している話なのだろう。アイド自身、一筋縄ではいかないひねた性格の持ち主である為、まるまる信じていいものか躊躇われた。


 サァリは首を捻りながらも飴茶屋に向かい、買い物を済ませる。そうして他の店を回り終える頃には、時刻はすっかり夕刻近くになっていた。

 火入れまで、もうあまり時間がない。

 そのことに気づいたサァリは、帰路を行く足を早める。

 大通りから離れた水路沿いの道は、中途半端な黄昏時のせいか、他に人影もなかった。サァリは暗い水面に映る赤い籠灯の光を見やる。


 ―――― この町は彼女が生まれてから今まで、変わらぬままだ。

 勿論、人の出入りや建物の変化はあるが、街の気風や空気は不変のまま保たれている。

 そうであることが当然の場所だと思っていた。

 しかし王が解体を考えているというなら―――― アイリーデは、彼女の代で終わってしまうということだろうか。サァリは困惑の目を空へと向けた。

「そうしたら、私とかどうなっちゃうんだろ」

 街や月白がなくなってしまった後のことは、考えてもやはり想像出来ない。

 王都に帰ればいいのかもしれないが、それは根本的な解決にはならないだろう。

 小さく溜息をついたサァリは、しかしふと足を止める。

 聞き間違えかもしれないと思った時、背後でもう一度、ぴしゃりと音がした。


「誰かいるの?」


 少女は誰何しながら振り返る。

 人の姿はない。サァリは音の正体を確かめようと、夕闇に目を凝らした。

 だが水路には何も怪しいものは見えない。薄気味悪く思った彼女は、無意識のうちに空の月を確かめる。

 少し膨らみ出した月は、けれどまだ半月は過ぎていない。

 巫の力は使える。しかしそれは、化生を殺せるような種類のものではないのだ。


 穢れた気の淀みから生まれ、人に病や災いを呼ぶ「化生」は、他の街においては動物の形を取った影として現れる。

 暗がりに潜んで動くそれを視認出来る者は多くなく、だからこそ化生斬りという存在が必要になってくるのだが、化生は、このアイリーデでは余所よりもずっと強力なものとして現れるのだ。


 ―――― そして今、サァリの傍に化生斬りはいない。

「ちょっと不味い……かな? 気のせい?」

 サァリは緊張を覚えつつ、念の為水路を覗き込んだ。

 ―――― やはり何もない。

 そう思った直後、黒い水面が跳ね上がる。

 少女がぞっとして立ち竦むうちに、水中から伸びてきた青白い手が、縁の石垣を掴んだ。

 続いて黒い髪が浮かび上がってくる。

 ―――― 化生ではない。

 その人物は、両手を縁につくと己の体を水から引き上げた。

 ずぶ濡れになった軍刀を外そうとして、ようやく彼女の存在に気づく。

 青年は黒い瞳を不愉快そうに細めて、少女を見下ろした。

「サァリーディ?」

「……あ、生きてた」

 どうしてこんなことをしているのか、水路から上がってきた人物は、行方不明と聞いたばかりのシシュ・ザクトルだった。

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