第2話 月白

 古い鏡に映る顔は、よく出来た人形のように表情がなかった。

 サァリは血の気の薄い己の顔を見つめる。濡れた前髪はついさっきまで水を浴びていたがためのものだ。

 彼女は指を伸ばして、明るい銀の髪を摘む。邪魔にならぬよう、それを他の髪と共にピンで脇に留めた。指についた滴を紙で拭う。


 化粧をするのは面倒だ。だがもうすぐ店を開ける時間となれば、仕方がないことだろう。まだ少女と言っていい年齢とは言え、今のサァリはこの店を預かる主人だ。身なりをきちんとしなくては、客にも店の女にも呆れられてしまう。

 彼女は、古い鏡台の引き出しから化粧道具を取り出した。遠く南の国から取り寄せた白粉や紅の器、香水の瓶を順に並べる。

 それらの大半は家から送られてくるもので、彼女の選んだものではない。

 化粧にさしたるこだわりもない少女は、白い肌の上に薄く色を乗せていく。瞼に陰をつけ、頬に紅を差した。小さな唇には花弁の色を重ねる。

 元々の肌色のおかげで、そう多くの色は必要ない。加えてサァリは娼妓ではないのだ。近くで見て化粧をしていることが分かれば充分だった。


「よし」


 鏡台の上の細工時計を見ると、いつの間にか大分時間が過ぎている。

 サァリは羽織っていた浴衣を脱ぐと、白い着物を身につけた。薄青い帯に染め抜かれている半月は、この店の名を示すものだ。

 街でもっとも古い妓館 《月白つきしろ》。その名はいくつかの意味を孕んでいる。


 サァリは最後に、左手に細い銀の腕輪を嵌めた。

 何の装飾もない腕輪は、袖の中に滑り込んですぐに見えなくなる。少女は振り返って姿見を確認した。

 長い銀の髪に青い瞳。ほっそりとした肢体はしかし、綺麗に伸ばされた背のせいか、本来の小柄さをほとんど感じさせない。

 そつのない己の姿にサァリは微笑んだ。鏡の中に立っている少女は、薄暗い部屋の中、月光のように硬質な美しさを湛えている。


 ――今夜も問題は何もない。


 サァリは自分に頷いてみせると部屋を出た。

 廊下の窓から外を覗くと、そこには既に夕闇が広がっている。

 街の中心部であれば、そろそろ色とりどりの燈りが灯る頃ではあるが、この店は敷地内に林があるせいか、窓越しに見えるものは迫る夜の昏さだけだ。

 少女は古い廊下を軋ませて、自室のある離れから店へと向かう。

 しかし渡り廊下の半ばに差し掛かった時、店の方からは野卑た男の怒鳴り声が聞こえてきた。サァリは顔を顰めて足を早める。

「――って言ってんだろうがよ!」

「困ります!」

 男の声は聞き覚えのないものだ。東方の訛りがあることからして、遠方からの客だろう。

 実際、彼女が広い上がり口についてまず目にしたものは、まだ火を入れていない戸口で騒いでいる二人の男と、それを留めている下働きの少女だった。

 珍しくもない光景に、サァリは眉の一つも動かすことなく割って入る。

「いかがなさいました」

 凛とした声は、それだけで場の空気を変える程の力があった。

 揉みあっていた少女の肩越しに、サァリの姿を見た男たちは息を飲む。

 繊細に整った顔立ちは、しかし化粧の薄さゆえに、この街では地味な部類に入るものかもしれない。

 だが彼女の貌は、見る人間の居住まいを正させる透徹があった。

 長い睫毛の下、濡れて見える青い瞳が二人の男を見上げる。彼らと揉めていた少女が慌てて振り返った。

「ぬ、ぬしさま、すみません。あの」

「いいわ。代わりに《花の間はなのま》を開けてきて」

「あ、はい!」

 少女はサァリに頭を下げると、脱いだ外履きを手に店の奥へと消える。

 留める者がいなくなって、男たちはすぐに中へ上がろうとした。

 しかし、板張りの上がり口に腰を下ろした彼らを、サァリは薄く微笑んだまま制止する。

「お待ちを」

「なんだ? ここも紹介がなけりゃ東部の人間は入れないって言うのかよ」

 不機嫌が露わな口ぶりは、彼らがここに来るまでに数軒から門前払いを食らったことを物語っていた。

 サァリは男たちの反感を買わぬ程度に苦笑して見せる。

「今、この時間から開いているのは、南の流儀に従った店だけなのです。あちらは夜が早いですから」

「だからおれたちみたいなのはお断りって言うわけか。お高くとまったやつらだ」

 サァリは微笑んだまま沈黙を保つ。

 この国において、貴族たちが支配する南部と、戦士を多く輩出してきた東部はどうにも折り合いが悪い。

 気風や習慣からして異なる彼らは、国の至るところで小さな衝突を起こしており、それはどの領にも属さぬ街アイリーデにおいても例外ではなかった。

 上がり口に座ったままの一人が、皮肉げに彼女を見上げる。

「で、この店もそうだって言うんじゃねえだろうな」

「いえ。ここはれっきとした《北》の店です」

 ――この街の住人が《北》とだけ言う時、それは古き神話に由来する正統を意味する。

 東部から来た男たちもそれは知っていたのだろう。険しく寄せられた眉が緩んだ。

「神に捧げられた聖娼か。噂には散々聞いちゃいたが、見るのは初めてだな」

「ええ。ですが、この店は《北》の店。後からできた他の妓館とは毛色が異なることをご了承ください」

「なんだそりゃ。託宣でもしてくれるってのか?」

「いいえ」

 サァリは首を僅かに傾けて微笑む。

 月のようと讃えられる少女の美貌に、男たちは息を詰めた。透き通る声が天井の梁にあたって跳ね返る。


「この妓館は、アイリーデで唯一、秘された神話を継ぐ場所でございます。ゆえにここでは――女こそが己の客を選ぶのです」


 神が呼ばれてから約八百年。

 忘れ去られた伝承を継いで在る少女は、客になる前の男たちにむかって艶美に囁いた。

「ですから、選ばれぬ際にはご容赦を」

 サァリは素足のまま石張りの土間へと下りる。開いたままの木の戸へ向かうと、慣れた仕草で玄関に吊るされた灯り籠へと火を入れた。

 籠に張られた薄布に、半月が浮かび上がる。そうして定刻通り店を開けた彼女は、薄闇に向かって息を吐いた。


「ようこそ、妓館《月白》に。――美酒と音楽が絶えぬ限り、私はあなたがたを歓迎いたしましょう」


 サァリは男たちを振り返ると、相好を崩して笑いかけた。

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