交錯夜想曲⑥
「ふふふふふふふふふ」
そう、分かっていた筈なのに。
どうしてこんなに、腹が立つんだろう。
「やってくれるじゃないですか」
その呟き声を聞いたアリルイヤの聴衆の内の何人かが、ぎょっとしたように視線を向けてきた事に、セシリアは気付かなかった。否、そもそも気に留めてすらいなかった。意識を術式を扱う領域へと潜らせ、瞬時に式を組み上げて、展開、発動。組まれた式が光の陣として一瞬だけ顕現し、同時にセシリアの五感に、新しい第六の感覚が追加される。
アリルイヤの歌声。そのリズムに合わせて身体を揺らしているヒトビトが放つ空気の揺らぎや息遣い。この辺りに居るヒトビトはアリルイヤの歌声に聞き惚れて動きを止めているか、或いはその場でゆっくりとリズムを取っているのが殆どだ。その中で、急速にこの場から離れて行っている気配が二つあれば、それはもう目立って目立って仕方が無いというものだ。
「……見付けた」
サメやエイには、その使用方法に違いこそあれ、五感に次ぐ第六感が存在する。獲物の細胞中の塩分濃度と海水のそれとが異なることで,獲物と海水の間には電位差が生じる。それによって獲物の周囲には非常に微弱な電場が作られるのだが、サメやエイはそんな獲物が発する電場を正確に感知する。
要するに、サメやエイは視覚や聴覚に頼らずとも、遠くにいる獲物の存在を感じ取る事が出来るのだ。そして今回セシリアが使ったのは、そんなサメの第六感を擬似的に再現する術式だ。サメの”ロレンチーニ器官”にあたる仮想器官を一時的に作成し、同時に獲物にとっての海水にあたる特殊な魔力空間を周囲に展開。魔力の質は個人によって異なるから、セシリアが展開した空間とその中にいる誰かとの間には電場ならぬ”魔力場”が現われる。後は、感知した反応の中でも気になるものをセシリアが直接見に行けば良い。
白式・鬼憑系統第三準位『
片手に一つずつ愛用の拳銃型魔銃を召喚しつつ、地形の影響を受けない近道を一直線に駆け抜け、時には建物の屋根から屋根へと飛び移りながら、セシリアはゼロとレンを追い掛ける。裏路地を走る彼等の姿を視認するまで、大した時間は掛からなかった。
「そこ! 止まりなさい!!」
上手く逃げおおせたと思っていたのだろうか。セシリアが鋭く声を飛ばすと、ゼロは驚いた様子で振り返り、屋根の上を、セシリアの方を見上げて来る。
但しそれは、ほんの一瞬の話だ。ゼロは振り返りながらも走る速度は緩めなかったし、振り返って驚いた顔を見せていたのも僅かな間だけだった。しかも彼は、視線を前方に戻す直前、歯を剥いてニタリと笑ったのだ。その笑みからは此方を見下している事がありありと見て取れて、だからセシリアは怯むよりも先に、自身の闘争心に火が付くのを感じた。
「――ハハッ!」
ヒトを喰ったような嗤い声。同時にゼロは走りながらレンに向かって脇道を指示し、レンは即座にその指示に反応して脇道に飛び込んだ。その迷いが無い行動からは揺るぎない信頼が見て取れて、セシリアにはますます彼女の事が分からなくなる。ともあれ、重要なのはゼロが彼女に別行動を取らせた、という事だろう。
「良いだろう、掛かってこい!! 格の違いを見せてやるよ、新人!!」
「……!! 上等ぉ!!」
自分でもらしくない受け答えをしているのは分かっている。寧ろ、当たり前のようにゼロの挑発に乗ってしまった事に、セシリアは心の何処かで驚いて、戸惑っていた。
こんな風に、誰かに向かって敵意を剥き出しにして接した事なんてセシリアは無い。無いのだけれど、ゼロに向かって放った怒気も、怒声も、いざ出してみれば驚く程にしっくりと、自分自身に馴染むような感覚があった。
――まるで今のゼロとセシリアのやり取りが、昔からずっと続けてきた一種のお約束だったような……――
――”Negative”
「――
本当に、唐突だった。
突然、頭の奥に鋭い何かが突き刺さったような痛みを覚えて、セシリアは思わず走る速度を緩めてしまった。それはほんの一瞬の事で、幸いセシリア自身が何かにぶつかったり屋根の上から転げ落ちたりするような事は無かったが、「何事も無かった」「気のせいだ」と流すには、それは余りにも強烈過ぎた。
(今のは……?)
頭痛自体は、魔術師ならば別に珍しいものでも何でも無い。単純な魔力切れや、個人のキャパシティを越えた演算の行使による“術式酔い”など、魔術師に頭痛は付き物だからだ。
だが今セシリアが感じたそれは、そんな魔術師的に慣れ親しんでいるモノとは明らかに異なる何かだった。もっと根源的というか、下手に引き抜こうモノならセシリア自体が引き裂かれてしまいそうだったというか。妙にしっくりくる嫌な喩えに自分自身でゾッとしてしまいつつ、セシリアはそこで、今の頭痛について考えるのを止めた。と言うのも、セシリアがスピードを緩めたその隙を狙ったように、ゼロが脇の細道に飛び込んでいこうとしているのが見えたからだ。
「……そこ!!」
反射的に、或いは不可解な自身の頭痛から逃げるように、セシリアはゼロへ二挺一対の銃口を向けた。実弾を込める回転式弾倉とは異なる、“専用の薬室”に魔力を装填。撃っても外傷は与えず、代わりに身体機能の一部を奪う(ザックリ言うと痺れさせて動けなくさせる)よう加工した魔力の弾丸を、容赦なく連射する。
「っと」
タイミング的にはバッチリだと思っていたセシリアの魔力弾は、けれどたった一発だけがゼロの鼻先を掠めただけで、当たりもしなかった。どうやって察知したのか、ゼロは魔力弾が貫く空間に踏み入る直前でいきなり停止し、弾けるように身を翻したのだ。急なブレーキと方向転換で失った勢いを取り戻す為か、彼は方向転換すると同時に前方へ向けて跳躍。裏路地を挟む建物の壁に着地すると、そのまま当たり前のように壁を走り、その場から離れていってしまう。
(嘘でしょ……!?)
慌ててセシリアは追加の魔力弾を放って追撃するが、その時にはゼロはもう走っていた壁を蹴り、反対側の壁に跳び移っていた。三角跳びの要領で壁から壁へと移動を繰り返し、半ば意地になって魔拳銃を連射するセシリアの弾幕の、常に一歩先へ行ってしまう。走りながら撃っているから狙いが甘くなっているのもあるのかもしれないが、それ以上にゼロの動きが機敏で、自由で、文字通り捉えられない。
その内、ゼロはセシリアの射撃を振り切るように、まんまと脇の裏道に飛び込んで姿を消してしまった。慌てて――と言うか追う者として当然の反応で、セシリアはゼロが消えた裏路地の真上まで駆け寄り、その行き先を見極めようと裏路地を覗き込む。否、覗き込もうとする。
けれど、結果から言えば覗き込む必要なんて無かったのだ。と言うのも、セシリアが裏路地を覗き込むべく建物の屋上、その縁に最後の一歩を踏み込もうとしたその瞬間、ゼロの方からセシリアの眼前に飛び出して来たのだから。
「は……!?」
セシリアの視界から逃れるや否や、壁蹴りを繰り返して建物の屋上まで登ってきた? 慌てたセシリアが一直線に向かってくる事を予想して、場所もタイミングもバッチリ予想して?
でも、一体何の為に?
それは勿論、奇襲を仕掛けてセシリアの度肝を抜く為で――
「おっ、余裕だな?」
「!!」
思考がちゃんと結論を出すよりも、身体が状況に反応する方が早かった。セシリアが咄嗟に身体を捌くのと、ゼロの拳が、セシリアの顔が元々あった場所を貫いていくのはほぼ同時。ゼロの拳の風圧が頬を撫でる感触にセシリアがゾッと背筋を凍らせるのと、ゼロがそんなセシリアの顎を狙って逆腕のフックを仕掛けてくるのも、また同時。
避ける事が出来たのは偶然か、はたまたフル稼働している生存本能の賜物か。考える間もくれずに飛んで来たゼロのフックを、セシリアは咄嗟に重心を落とし、身を低くする事で躱していた。ゼロの拳が逃げ遅れた自身の髪を掠めるのを感じつつも、セシリアは反射的に、両手に一挺ずつ携えた魔拳銃を、眼前にあるガラ空きのゼロの腹に
「――がッッ!?」
瞬間、衝撃が来た。
鳩尾よりも少し下、急所をギリギリ外れるような微妙な位置に何かがめり込み、セシリアは堪らず吹き飛ばされる。世界が乱雑に回転し、ドサリと身体全体に叩き付けるような衝撃が来た。此方が魔拳銃の引き金を引くよりも早く、腹を蹴り飛ばされたのだと気付けたのは、直後に口笛を吹いて見せたゼロが、蹴り足を戻すのが視界に入ったからだ。
「へぇ、上手いな?」
たった今セシリアに蹴りを喰らわせた事も、それ以前にセシリアに銃口を突き付けられた事も無かったような顔をして、ゼロはニタリと嗤ってみせる。
「手足の代わりにクッションで衝撃を緩和したか。男の俺には出来ねぇ芸当だな」
「……ッッ」
下品な。
口を利く事すらも忘れ、セシリアは返答代わりにゼロに向かって魔力弾を乱射してやった。幸いゼロの蹴りは急所に綺麗に入った訳では無かったので、片手を伸ばして銃口を向け、無茶苦茶に引き金を引くくらいの事は問題無かった。
が、それが標的に当たるか当たらないかはまた別の話だ。セシリアがゼロに向けて魔力弾を放つその直前、ゼロはロケットか何かのように走り出し、その場から移動してしまう。セシリアから見て右側へ走り出した彼は、瞬く間にセシリアの視界の外へと脱出。慌ててセシリアも体勢を立て直しつつ視線と銃口を其方に向けるが、その時にはゼロの姿はその視界の中にも無い。ただ、ゼロのコートの裾の端がチラリと見えただけである。
「ほらほら、どうした守護騎士さんよ?」
「そっちじゃねぇよ、こっちだ、こっち」
「はははっ、遅ぇ遅ぇ!」
「おい、まさか眠ってんのかお前?」
声を頼りに視線を巡らせても其処にゼロの姿はなく、代わりに別の方向からまた新たな声が聞こえてくる。途中から、視線よりも先に銃口を向けて数発発砲する戦法に切り替えたセシリアだったが、それでもゼロが被弾した様子は無い。ただ、彼の声に面白がるような響きが追加されただけである。おまけに段々とその声が近付いて来ているのは、彼が常にセシリアの視線から外れるよう移動しつつも、少しずつセシリアとの距離を詰めて来ているからか。その気になれば一気に距離を詰める事が出来るだろうに、そうしないのはセシリアをおちょくって楽しんでいるからだろう。
「……」
深呼吸を一つ。おちょくられるのは少し、いや大分腹が立つが、そこはグッと堪えてセシリアは目を閉じた。どうせその姿を捉えられないなら自ら視覚を封印し、代わりに聴覚やその他の感覚を研ぎ澄ませる。
とっ、と背後から軽やかな足音が聞こえたのは、それから数拍置いた後の事だった。
「――そこッ!!!」
間髪入れずに振り返り、発砲。遊びなんて無いし、容赦も無い。どうせ撃つのは魔力弾だ。動けなくなるくらいに痺れはすれど、死んだり怪我したりする事なんて先ず無い。油断してわざわざ背後に立っただけのゼロの胴体目掛けて、セシリアは渾身の
「当たりだ」
だが。
「だがちょっと浅はかだったなぁ?」
セシリアの魔力弾は、何も無い空間を灼いて通り過ぎて行っただけだった。
「――へ……?」
まるで撫でるように、セシリアの頭に軽く乗せられた掌の感覚。再び背後から聞こえた、恐らくはゼロのものであろう軽やかな足音。
セシリアの頭に乗せた掌を支点に、ゼロはセシリアの頭上を一回転して飛び越したのだ。その事に気付いた時には、セシリアは服の首根っこを掴まれ、その場から持ち上がられてしまっていた。
「うわ、わっ、ちょ……っ!?」
「ははっ、なんだこのでっけぇ猫」
いきなり宙吊りにされてパニックになり、セシリアは意味も無く手足をバタつかせて無駄に暴れてしまう。その振動をモノともせずに、ゼロはグイと無造作に、セシリアの身体を振りかぶる。
「猫なら、こんくらいやられても平気だよなぁ?」
「は……!?」
投げ飛ばされた。
頬を撫でる風の感触。耳元で唸る風切り音。やや高い所から眺めるポセイドン下層の街並みは光に溢れていても何処か雑多で、それでもやっぱりセシリアにとっては親しみのある光景だ。そんな中、ふと視線を巡らせてみれば、さながらぽっかりと空けられた生き物の口みたいに薄暗い建物と建物の隙間が、セシリアにどんどん近づいてくるのが見えた。
「――ぎにゃあああああああああああああああああああああああああああ!!?」
ゼロはそれを狙ってセシリアを放り投げたのだろうか。セシリアの身体はいずれかの建物の屋上に叩き付けられる事は無く、代わりに建物と建物の隙間に綺麗に入り、そこにあった古いゴミ捨て場に突っ込む形になった。顔から突っ込む事だけは何とか回避しようと空中で無理矢理身体を捻ったが、出来た事と言えばそれだけだ。
衝撃。そして、色んなものの臭いが混ざり合ったゴミの臭い。悲鳴を咄嗟に我慢したのは万が一にもゴミが口の中に入ってくるのを防ぐ為で、着地の瞬間にそんな風に力んでいた所為で、衝撃は思った以上にセシリアの身体に響いた。お陰ですぐには動く事が出来ずに、ゴミ山のベッドの上で寝転んでいるような形になってしまう。
「……つ」
惨めだ。セシリアはゼロを捕まえて連行するどころか、歯牙にすら掛けて貰えていない感じがする。この間はゼロがセシリアの事を知らなかったのと、単にセシリアの運が良かっただけなのだろうか。自分が彼より強いと思っていた訳では断じて無いけれど、こんな、一方的にあしらわれるなんて思ってもみなかった。
もしかして、自分はとんでもない相手に戦いを挑んでいるのではないだろうか。自分がどんなに頑張ったって、彼には一矢報いる事すら出来ないんじゃないか。
自覚してしまうと、身体は素直に反応してしまう。自分が何処に寝転んでいるのかという事すら半分どうでも良くなって、セシリアは、自身から急速に力が抜けていくのを感じた。
「おうおう、其処がお前の寝床か? ははっ、まさにぴったりだな――」
視線の先。
建物の屋上の縁から、赤銅色の髪と双眸がひょいと覗き込んできたのは、まさにそんな時だった。
「”負け犬”」
「は……!?」
自覚してしまうと、身体は素直に反応してしまう。悪い方向にも、そして良い方向にも。
そしてやっぱり、ゼロという人間はこれまでセシリアが出会って来たどんなヒトともタイプが違うらしい。だって、だって、あんなにも低レベルで取るに足らないような罵倒の言葉が、折れ掛けていたセシリアの心を“高熱”で溶接して繋ぎ合わせてしまう。
取り敢えずセシリアがやったのは、発砲だった。此方を覗き込んで来ていたゼロの眉間に瞬時に魔拳銃を向け、息をするよりも早く引き金を引く。ほぼ不意打ちに近かったであろう早撃ちは、けれど肝心の標的を捉える事は無い。
「怒るな怒るなゆっくり寝てろ」
わざわざ一度引いた身を再び乗り出して、ゼロが再び顔を覗かせる。その顔にはすっかりお馴染みの、ヒトを馬鹿にしきった笑みが浮かんでいる。即座にセシリアは構えたままだった双つの魔拳銃を乱射するが、ひょいと射線の外へ身を引いたゼロには一発も当たらなかった。
「テメェにゃ其処がお似合いだ――」
「誰が……!」
言い返そうとして、聞こえてくるゼロの笑い声が遠退いていっている事に気付き、セシリアは口を噤む。
言うだけ言って、逃げた。此方の神経を逆撫でするだけ逆撫でし、後は放り出して行ってしまったのだ。
「待て、この……!」
親が聞けば顔を顰めるであろう荒い言葉を吐き出しながら――ついでに、その事にちょっとだけ罪悪感を感じながらも――セシリアは暴れるように手足をバタつかせて藻掻き、ゴミ山から逃れ出る。
「誰が、負け犬だーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
絶対に、鼻を明かしてやる。
ゼロに届けとばかりに力一杯叫びながら、セシリアは彼に追い付くべく、その場から再び駆け出したのだった。
○ ● ◎
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