幕間

幕間 ~Where do you live at?~

「──はいよ。コイツは報酬だ」


「……」


 差し出した紙袋は、もっと乱暴にひったくられるかと思っていた。


 差し出す前に敢えて開けておいた袋の口からは、美味そうな匂いと共に白い湯気が立ち上っている。香ばしく焼けた肉の脂の匂いに塩と胡椒、それから甘辛いタレの匂いが乱雑に入り交じったその香りは、腹を齧る空腹の虫を一瞬でガッチリ捕まえて離さない筈だった。少なくともこの街に来て初日のゼロはそうだったし、正直空腹気味な今の状態でも若干口の中に唾が湧いて来ている状態だった。


 この単純且つ暴力的なまでの“美味そうな匂い”に、年中腹を空かせているストリートチルドレンが、耐えられる筈もない。


 そうタカを括っていたゼロの予想は、けれど完全に裏切られる結果となった。


 眠そうにも見える黄金色の半眼が驚きに見開かれる事はなく。銀色の獣耳がピンと立つ事も無ければ、薄汚れた銀色の尻尾がブンブンと勢い良く振り回される事も無い。


 今日の今日まで会った事も無い、見知らぬ亜人の少女。彼女はゼロが差し出した礼の品をマジマジと見詰めた後、それが自分に差し出されたものだとは露とも思っていない様子で、ゼロに視線を戻して来たのだった。


「どうした? 持ってけよ。ここの串焼きはマジで美味ぇぞ」


「……」


 騒ぎがあった屋台村から遠く離れた、ポセイドン下層の旧海港区。上層から降りてきた形で展開している、新海港区の陰に隠れてしまっているこの区画は、上層の隙間が多い故に光と闇の対比が特に濃くなっている区画である。海沿い通りから脇道に逸れ、少々奥まった所にある小さな料亭。その持ち帰り客専用に拵えられた小窓の前に、ゼロと亜人の少女の姿はあった。予定よりも早まった逃走の後、追われていない事を確認して一息吐いたゼロの前に、例の亜人の少女が現われたのが一〇分程前の話。何か話し掛けてくる訳でもなく、けれど何かを期待しているような雰囲気を放つ彼女が、何らかの礼を要求しているのだと解釈したゼロが、ここまで彼女を連れて来たのが五分程前の話である。


「……あ、やっぱこれだけ食って良いか? どれも複数買っといたからよ。一本くらい別に良いだろ?」


 向こうから近付いて来ておいて変な話だが、警戒されているのかもしれない。そう思い立ったゼロは毒味のパフォーマンスとして適当な串焼きを一本取り出し、少女に見せ付けるように躊躇無く齧り付いた。未だ湯気の立つその肉はどうやら豚の軟骨だったらしく、噛んだ瞬間コリコリとした歯応えと適度な塩味が口の中に広がる。


「……」


 ゴクリ、と唾を鳴らす音。


 ゼロのパフォーマンスは間違い無く少女の空腹を刺激したらしい。少女はやがておずおずと手を伸ばし、袋の口から割と小さい串を一本抜き取った。ゼロとしては袋ごとドーンと受け取って欲しかったのだが、礼を無理に押し付けるのも変な話かと思い直し、そのまま袋を持っている事にした。


「おうおう。ぜーんぶ食え。お前には助けられたからな」


「……」


 そもそも、感謝されようと思ってやった訳じゃなかった。


 たまたまぶらついていた場所で、たまたま子供が集団に取り囲まれている場面に遭遇した。たまたま周囲の野次馬達の会話が耳に入ってきて大体の事情を知り、たまたま子供の方に肩入れする気分になった。例の新人守護騎士に語って聞かせた通り、子供相手に寄って集って暴力を振るおうとする商人達に“腹が立ったから”というのが大きいが、それとは別にもう一つ、彼女には言っていない別の理由がある。一言で言えば、少女の身のこなしに“感心したから”である。


「お前、どっかで戦闘訓練でも積んだのか? まるでアイツらの動きが分かってたみたいに動いてたよな?」


「?」


 串の先端と根元をそれぞれ指で抓んで小動物のように肉をカリカリと齧っていた亜人の少女は、ゼロの言葉に動きを止めて、黄金色の双眸をゼロに向けた。その眠そうな半眼に感情の動きは見えず、凪いだ水面のような表情に変化は無い。まるで、そういう形の仮面でも被っているかのようだった。


「分かんねぇか? 天性の才能なんだとしたら空恐ろしいガキだよ、お前」


「……」


 少女は特に反応を示さなかったし、ゼロも特にその事を気にしたりしなかった。元はと言えば、今日初めて顔を合わせた程度の仲なのだ。わざわざ守護騎士に捕まったゼロを助けに来てくれた辺り、彼女は相当義理堅い性格のようだが、この後解散すれば二度と会う事も無いだろう。


 やがて彼女は串焼きを齧り終わり、残った串をゼロを見比べる。次を――と言うか、今度こそ袋そのものを受け取ってくれる事を期待して、ゼロは串焼きの袋をズイとやや大袈裟に差し出した。少女はその袋を一瞬見詰めて、それからゼロの様子を窺うような慎重さで持っていた串を袋の中に戻す。


「違う、そうじゃない」


「!?」


 無欲さ、と言うか我慢強さもここまで来れば大したものだ。実は彼女は腹が減っていない可能性まで考えたゼロだったが、次の瞬間彼女からグルルと大きな腹の虫の音が聞こえて、その心配が杞憂である事は確認出来た。


「全部お前のモノだって言っただろ? 遠慮せず受け取れ。ほら」


 ゼロがもう一度ずいと袋を差し出すと、少女は今度は間違えずに――但し、妙に自信無さげに――袋を受け取った。


 まぁ、所詮は自己満足だ。喜んで受け取られようとそうでなかろうと、これで最低限の義理は果たしたと言えるだろう。


「よし。じゃあ元気でな」


 一方的にそう伝え、ゼロはその場で踵を返した。背後で言葉にもなっていない呻き声のような音を聞いたような気がしたが、気にせずに細く暗い路地を進み始める。これから特に予定がある訳でも、アテがある訳でもない。ねぐらに戻って一服して、それから先の事はその時に考える。せいぜい、その程度の事しか考えていなかった。


「……まだ、何か用があるのか?」


 後ろから、少女がついてきているのに気付くまでは、の話だが。


「おいおい、流石にこれ以上の礼を期待するのは厚かましいってモンだぞ。俺はお前の親じゃね――」


 振り返らないまま立ち止まり、おどけつつも窘めかけたゼロだったが、その自分自身の言葉にハッとして押し黙った。ゼロは彼女の親じゃないし、ストリートチルドレンである彼女もその辺は弁えているだろう。そもそも、長く路上で暮らして居たヤツは何時しか他人を警戒するものだ。義理堅い彼女に少々親切を施したって、大した問題にはなるまい――と、ゼロはそう思っていたのだ。


 だがもし、少女の方はそう思っていなかったとしたら。路上で暮らす時期が短過ぎて、ゼロに必要以上の恩義や親しみを感じていたり。もしくは長過ぎる路上生活に嫌気が差して、たまたま味方してくれたゼロに縋り付こうとしているのだとしたら。


 もしかして思った以上に面倒な事になったんじゃないか。今更ながらその事に思い当たって、ゼロは恐る恐る背後を振り返る。


 少女は相も変わらず半眼気味の無表情で、ゼロの顔を見上げていた。何を考えているのかは分からないが、試しにゼロが後退ってみれば、その分彼女も付いてくる。脅かせば反射的に逃げ出すかと思い、唐突に足を踏み鳴らし、更には殴りかかるフリもしてみたが、どういう訳か彼女にはその手の行動は全く通じなかった。微かにたじろぐような素振りは見せたが、逆に反応らしい反応と言えばそれだけだ。


「……」


 余計な事をした。妙な気紛れなんか起こすんじゃなかった。


 瞬く間に後悔が胸中に広がり、ゼロは思わず舌打ちを零した。


「おい、勘弁しろ。俺はお前の親じゃねぇし、そもそもお前が考えているようなでもねぇんだよ。テメェを助けたのは、只の気紛れだ。もしもお前があの場で殺されそうになっていたとしてもだ。気が向かなかったら、普通に素通りしていただろうよ」


 苛立ちのままにズカズカと歩み寄り、人差し指を突き付けて、ゼロは少女に強い口調で、頭ごなしに言い放つ。歩み寄る動作で少女は半分逃げ腰になり、人差し指を突き付けた時点では大きく後退ったが、何を思ったのかその場に踏み留まり、結局は持ち堪えた。


 妙なガキだ。このまま逃げてくれれば、ゼロもこれ以上煩わしい思いをせずに済んだのに。


「失せな。折角お互いに助け合って、良い感じに締めたんだ。最後の最後で嫌な空気にすんじゃねぇよ」


「……ウぅ」


「失せな」


 小さく蚊の鳴くような呻き声を、ゼロは瞑目しつつバッサリ斬り捨てた。その瞬間、少女の無表情が悲しげに歪んだのか、それとも相も変わらず無表情のままだったのかゼロには判別が付かない。ゼロは瞑目したまま踵を返し、彼女に背中を向けた所で目を開いたのだから。


 ゼロの視線の先にあったのは、闇。何しろ此処は上層よりも夜の足が速い下層の、灯り一つ無い裏路地だ。表通りの光が漏れてくる方向に背を向ければ、もうそこは真っ暗闇にほぼ近い。


 それでもゼロは、その闇の中へ躊躇無く踏み込んだ。どうせアテなど無かったし、今はとにかく少女の前から姿を消してしまいたかった。そうするのが最善だったし、それ以外に方法なんて思い付かなかったから。


「……おい」


 だから、背後から微かな足音が聞こえてきた時には、ゼロは本気で苛ついた。立ち止まって勢い良く振り向くと、ゼロに続いて闇の中に踏み入って来ようとしていた少女は、ビクリと身を竦ませて立ち止まった。


「ついてくるな」


 光を背にした少女の表情は、もうゼロには見えない。


 語気をより強めて一方的に言い放ち、ゼロは視線を戻して早足で歩き始める。案の定と言うべきか、一拍遅れて微かな足音がぴったり距離を保ってついてきたのを聞いて、ゼロは再び舌打ちを零す。


「ついてくるなって」


 今度はもう、立ち止まりもしなかった。


 可能な限り早足で、ゼロは出来るだけ足場の悪そうな道を選んで歩く。少女は靴を履いておらず、細かくて鋭い石や硝子片が至る所に落ちている悪路は決して通れないだろうと思ったのだ。


 その内、背後から悲鳴が聞こえた。


 最初、ゼロはホッと安堵の息を吐いた。ストリートチルドレンにとって、足は明日を生き抜く為の大事な道具だ。これ以上無理して追い掛けて来る事はないだろうし、多少優しくされたからといって知らない人間に擦り寄って行く事もしないだろう。ゼロはこれ以上付き纏われる事はないし、少女だって高い代償は払ったが、大事な事を学べた。そう思ったのだ。


 だから二度目の悲鳴が聞こえた時、ゼロは思わず立ち止まった。


 さっさと引き返せばいいのに。あの馬鹿が。


 猛烈に腹が立ってきて、ゼロは衝動的に取って返しそうになったが、もしかしたらそれこそが少女の狙いかもしれないと思い直して何とか寸前で踏み留まった。ゆっくり、その場から歩き出す。背後から聞こえてくる少女の足音は、さっきよりもやや大きく、乱雑に、そしてゆっくりになっていた。


「ついてくるな!」


 三度目の悲鳴。焼けた火箸を押し付けられでもしたような、そんな悲鳴だった。


「ついてくるな、そっちの道を行け!」


 五度目の悲鳴。三度目を除けば彼女の悲鳴は、聞かれまいとしているかのように押し殺した不自然なもので、悲鳴そのものの質はヒトのそれというより獣のそれに近い。


 痛ければ痛いと喚けばいいのに。そもそも痛いならゼロの指示に従って、比較的綺麗な道に逸れればいいのに。どうして彼女はここまでされて諦めないのか。何が彼女にそこまでさせるのか。


「……ついてくるな」


 悲鳴。もう何度目かは分からない。


「……ついてくるなよ……」


 そのうち、悲鳴すら聞こえなくなった。代わりに、押し殺して啜り泣く声と、のたり、のたりとひどく緩慢な足音がゼロの後からついてくる。


「……」


 やがて人気の無い何処かの大通りに出てしまい、ゼロは其処で漸く、自分が何処を歩いて、どんな道を選んでいるのか把握するのをとっくの昔に忘れていた事に気が付いた。周囲を見回し、溜息を吐いて、立ち止まる。痒いような気がして頭をガシガシと掻き毟り、痛いだけだと気付かされてまたイライラしつつその場で背後を振り返る。そこが目的地という訳ではないし、当然何処かへ着いたという達成感がある筈もない。


 あるのはただ、最低な気分だった。


 ただただ、最低な気分だった。


「――ぅ――」


 どれ程待っただろうか。


 やがて裏路地の闇の中から、少女が姿を現した。歩き出してどれ程の時間が経ったかゼロには分からないが、その間に彼女は少しやつれたような気がする。無表情だった顔からは生気が抜け、きちんと支えがなくてもきちんと歩いていたはずの身体は壁に手をつかないと支えられない有様になっていた。ゼロに置いて行かれないよう精一杯の速度で、且つ硝子片や鋭い小石が落ちている悪路を強行軍した所為で、強制的に体力を削られた所為だろう。


 それでも彼女は、ゼロに。自分がゼロから拒否されたままであるのを前提として、再びゼロから怒鳴られるのに備えるように、慌てて裏路地の闇の中へ引っ込もうとした。


 ゼロは止めず、その様子を黙って見ていた。少女はすこしだけ身を引いて闇の中に隠れていたが、いつまでもゼロが怒鳴らない事を不思議に思ったのか、やがて恐る恐るといった体で闇の中から顔を覗かせる。


「馬鹿が」


 どうやら、まだ逃げるつもりは無いらしい。


 そう判断して、ゼロはすかさず少女に歩み寄った。流石に怖かったのか少女は後退ろうとしたが、ロクに進まない内に尻餅を着いてしまった。彼女は顔と頭全体を両手で覆って庇ったが、ゼロは其方には構わず少女の足首を捕まえる。


「こんな足で、明日からどうやって生きていくつもりだ」


 ゼロが確認した少女の足裏は、切り傷だらけで酷い有様になっていた。路上生活がそんなに長い訳ではないのか、皮膚も硬くなりきっていない。もしあのままゼロが嫌がらせを続行していたら、彼女はこの傷が元で死んでいたかもしれない。


「最初の時点で分かった筈だろ。俺は悪党だ。傭兵上がりのチンピラなんだよ。テメェがここまでして追い掛けて来るような価値なんて、俺には無ぇんだ」


「ゥあ、う……」


 少女が何か言った。頭を覆っていた腕を退かし、ゼロに片足を掴まれた窮屈な体勢なのも気にしない様子で、頭をふるふると横に振る。


 その声と動作に、ゼロはふと、少女の新たな情報に気が付いた。


「お前、声は?」


「ぅア」


「喋れないのか」


「……」


 少女は押し黙る。どう答えるべきか分からなかったからかも知れないし、もしかしたら声が原因で突き放されると思ったのかも知れない。


 溜息を吐き、ゼロは少女の足首を解放した。代わりに彼女の脇の下に両手を差し込んで彼女の身体を抱え上げ、その場から立ち上がる。これ以上歩かせれば足裏の傷がいよいよ致命的になるだろうし、何より彼女にとっては地獄のような責め苦だろう。驚いたように見開かれた彼女の目の縁には涙が滲んでいて、大通りの薄暗い街灯の光を反射して光っていた。当たり前だ。今だって死ぬ程痛いに決まってる。


「……いいか。俺は一々テメェを助けたりしねぇ。基本テメェの面倒はテメェで見ろ」


 少女は硬直していた。ゼロの言葉にも反応せず、ただただ、硬直していた。


 そんな彼女に、ゼロは早口で一方的に言葉を叩き付ける。


「テメェが選んだ道だ。今更後悔なんてしても遅いからな。泣き言なんてぬかしてみろ。即刻叩き出してやる」


 くそったれ。どうしてこうなった。こんなコトしている余裕なんて俺には無いのに。


 内心で自問するが、その答えはモヤモヤした思考の中では一向に出て来る気配も無かった。代わりに出て来るのは、もしもの事が起こった場合の為に事前に調べておいた、ゼロのような者にも利用出来る病院の名前とその場所だ。


「痛いか? 痛いよな。ったくあの状況で追い掛けて来るか普通? いいか、悪いのはお前だ。テメェを助けてくれるのは的確な状況判断だけなんだぞ。怪我が治ったら、先ずは其処からみっちり指導してやる」


 少女の指が、ゼロの来ているコートを遠慮がちに摘まんだ。両手が塞がっているゼロに振り払う事なんて出来なかったし、そもそももっと全力でしがみついてくれた方がバランス制御がやりやすい。


 好きなようにさせていると、少女のコートを摘まむ指は、やがてコートを力一杯握りしめる掌に変わった。それでもゼロが何も言わないでいると、やがて彼女は全身をゼロに委ねてくる。吹けば飛んでいくのではないかと心配になる程に軽いその身体は、けれど、全力で生きている事を主張しているかのように熱かった。


「……大した根性だよ、お前」


 急ぎ足は、やがてゆっくりとした駆け足に。ゆっくりとした駆け足は、やがて疾走へと変わる。


「――……悪かった」


 小さく、疾走の風切音の中に紛れ込ませたゼロの言葉は、少女に届いてしまっただろうか。


 やがて少女はゼロの肩に頭を押し付け、奇妙な声を漏らし始めた。


「……ぅえ……!」


 震えるように微かだったその声は酷く不格好で、しかも時を追うごとに段々と大きくなっていった。


「えェ……ぅえ……うェええ……ッ!!」


 長い間張り詰めていたモノが切れたような、重い荷物を漸く下ろせて深く息を吐いたような、そんな声だった。耳元でそんな声を撒き散らされる形となったが、ゼロは五月蠅いとは思わなかった。




 ――統一暦三七六四年九月七日午後六時三七分。


 そして、の運命は狂い始めた。

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