街角交響曲⑦

○ ● ◎



 上層に比べれば、下層はやはり何処か雑多で、治安が悪い傾向にある。無理矢理強化した旧機械文明の街並みと、最新の機械文明を素直に反映した街並みといった違いは勿論あるだろうが、最大の違いは太陽の下に晒されているか否かだと、魔導院アカデミーのとある教授は言っていた。


 即ち、上層の影に隠れている分、ヒトは心の悪性が善性に勝り易いのだとか。講義の合間の雑談で語られた内容だったが、何となく納得してしまった内容だったので、セシリアは今でも覚えている。


 まぁそれはともかく、ポセイドンの下層は上層に比べて街並みが雑然としているのは確かな事だ。ヒトがいっぱいで息が詰まりそうな大通りもあれば、反対にヒトが殆ど居ない小さな裏通りである。普段セシリアはそんな道はあまり通らないのだが、散々野次馬と張り合った後である今だけは、自然とその裏道を選んでしまっていた。


「……で、俺は何処まで連行されるんだ?」


「黙って歩きなさい」


 ゼロはと言えば、いっそ拍子抜けするくらいにセシリアの指示に従っていた。抵抗する様子もみせないし、逃げ出す気があるのかすら分からない。野次馬の壁を抜けた今、改めて銃を突き付け直して彼を連行しているセシリアだったが、正直、そんな行為も必要無いんじゃないかと思えるくらいに彼の態度は従順だ。


「ええと、一先ず近くの騎士団詰所に向かおうと思います。そこで貴方の身柄を引き受けて貰って、その後改めて貴方は屯所へ護送される事になると思いますよ」


「へぇ。なぁ、お前はこの街の生まれなのか?」


 強いて困る事を挙げるとすれば、妙に彼が多弁となった事くらいだろうか。


 まるで会話する事自体を目的としているみたいに、彼は次から次へと質問を飛ばしてくる。答えを返しても、まるで途端に興味を失ったかのように次の質問に移るのだ。最初は特に疑問も無く、訊かれるままに答えていたセシリアだったが、今はもう何らかの意図があるんじゃないかと疑心暗鬼になり始めていた。


「生まれも育ちもずっとここですよ。だから何です?」


「……そう、か」


 セシリアはゼロの後ろから銃を突き付けて歩いているから、当然彼の表情は見えない。それまでほぼノータイムで質問を繰り出してきた彼が、此処で不意に言葉を途切れさせた理由も掴む事が出来なかった。疑いたくはないが、今のセシリアは彼を連行する守護騎士だ。油断して、いざという時に取り逃がしたりしては目も当てられない。


「なぁ。その目の色、珍しいと思うんだが。そいつは誰かからの遺伝か?」


「お祖母様がこんな色だったそうですけど。って言うか私の事はどうでも良いじゃないですか! ほら、きりきり歩いて下さい!」


「いいじゃねぇか。こんな辛気臭ぇ所を、二人で黙って歩いてるのもアレだろ?」


「もう」


 こうやって話していると、彼が先程のあの場所で暴力事件を起こした人物だとは到底思えなかった。剽軽ひょうきん、というか軽薄。出会った直後はもっと凶悪で冷酷な印象があったのだが、今ではなんだかその記憶が思い違いだったのではないかと思えてきたくらいだ。


 或いはそんな感覚に陥らせる事こそが、彼の狙いなのかもしれない。


 ならばこのまま彼にペースを握られる訳にはいかないだろう。喋り掛けられるとどうしても反応してしまう予感はあったから、セシリアは逆に自分から彼に話し掛ける事にした。


「……どうしてあんな事をしたんです?」


「あんな事?」


「貴方の腕に手錠が掛かっている、その理由ですよ。あんなに沢山のヒトを傷付けたりして」


「ああ」


 無視されるかもしれないとも思ったが、ゼロはあっさりセシリアの話題に乗ってくれた。


 ちゃんと会話は成立するし、何だか思っていたよりも素直な感じがする。


 もしかして彼には彼で止むを得ない事情があって、本当は彼も本当は悪いヒトではなかったりするんじゃないだろうか。


 そんなセシリアの淡い期待は、けれどその直後、あまりにもあっさりと打ち砕かれた。


「腹が立ったから」


「……は?」


 あまりにもあっけらかんと言われたその言葉。簡潔に過ぎて逆に意味を掴み損ね、セシリアは思わず聞き返してしまう。或いは、冗談だと思いたかっただけなのかもしれない。


「すみません。意味が分からなかったのですが……」


「アイツら全員腹が立ったから。何だよ、そんな変な事じゃないだろ。それともお前は腹が立たなくても見ず知らずの人間を殴れるのか?」


「腹が立っても人を殴っちゃいけませんよ!!!!」


 こんなに大声を出したのは、もしかしたら生まれて初めてかもしれない。


 たった一言で軽く息切れするような感覚に見舞われ、セシリアは一旦口を噤む。ゼロはゼロでセシリアの剣幕に圧されたのか、特に何も言い返して来ない。背後のセシリアを振り返りはしなかったが、代わりにその場でピタリと立ち止まった。


 本来なら、銃口を強く押し付ける等して無理矢理歩かせるべきだったのかもしれない。


 だがセシリアは、そうする代わりにゼロの眼前に回り込む事を選んだ。自分より背の高いゼロをめ上げ、文明圏社会において当たり前の常識を口にする。


「腹が立ったからとかそんな理由で、喧嘩をするヒトがありますか! 貴方大人でしょう!? 『腹が立ったから殴った』なんて、そんなの小さな子供のする事じゃないですか!!」


 一番最初に比べれば、声の大きさは大分グレードダウンしていたかもしれない。が、それに込められる感情は決して勝るとも劣らなかったと思う。相手はセシリアよりも背が高い男の人だし、そもそもセシリアは小さな子供相手だって説教なんかした事無い。


 けれど、そう。これは確かに説教だ。思わずセシリアは説教してしまっていたのだ。そもそも自分と同い年かその前後くらいの人間が、「腹が立ったからヒトを殴った」だなんて臆面も無く言ってのける事自体が、セシリアには信じられなかった。


「全く、何て人。同情の余地なんて微塵も無いじゃないですか……」


 怒りに近い興奮が過ぎれば、次にやって来たのは失望のような諦念だ。


 何も言い返さないまま、黙って此方を見下ろして来るゼロから視線を逸らし、セシリアは小さく呟く。


 ゼロが口を開いたのは、まるでその瞬間を狙っていたかのようなタイミングだった。



「じゃあ、何だ。俺達は何をやられても黙って耐えないといけないのか?」



 静かな声だった。さっきのセシリアの声とは対照的な、何処までも、何処までも、静かな声。


 けれどセシリアはその瞬間、熱風が前から吹き付けて来たような、そんな錯覚を覚えた。


 反射的にゼロの方に視線を戻すと、彼はそんなセシリアを見て、静かに、ゆっくりと口角を吊り上げた。


「俺はアイツらを一人で全員叩きのめしてやったけどな。その前にアイツらは、複数で一人を叩きのめそうとしていたぞ。角材やら包丁やら持ち出して、たった一人の丸腰のガキをだ」


「え……」


 咄嗟に、言葉が出て来なかった。


 子供ガキと言われて、何故か真っ先に脳裏を掠めたのは、金色の双眸と銀色の獣の尻尾だ。


「いつも商品をくすねられて、いい加減皆頭に来てたんだとよ。今日はたまたまあのガキが下手こいて捕まって、そこを皆で取り囲んで大騒ぎさ」


「そ、それは、商品を盗む方にも問題が、あるんじゃ……」


 違う。別にそんな事、言いたかった訳じゃない。


 けれどセシリアがそんな事を言ってしまったのは、今の自分が、どうしようもなくゼロに気圧されているのを自覚していたからだ。ついさっきまで自分が色々強く言ってしまったから、というのもあるし、守護騎士が連行されている側に気圧されるなんて、という立場的なものもある。


 要するに、つまらない意地のようなものだった。


 砂上のちっぽけな楼閣の如き反論は、案の定、あっさりとゼロの言葉によって叩き潰された。


「金も無ければ住む家も無ぇ。頼れる大人も周囲には居ねぇ。そんなガキに、お前は盗むなとご高説を宣うのか? 『ひもじい』ってのがどんなものか、お前知ってるか?」


「……」


 ストリートチルドレン。その存在はセシリアも知っているし、丁度今日の昼、車の中でヨグが話したのを聞いたばかりだ。


 状況が掴めて来た。つまりゼロは、寄ってたかって暴行を加えている商人達からストリートチルドレンを助ける為に、あの場で大立ち回りを演じていたという事か。


「……そんな……」


 それも知らずに。


 何も知らなかったクセに、首を突っ込んだりして。


「……そんな、非道い……」


 ゼロの顔を真っ直ぐに見ていられなくなって、堪らずセシリアは顔を伏せた。


 思えばセシリアは何も見ず、何も聞かなかった。ゼロ達がどうしてあんな喧嘩をしていたのか知ろうとしないまま現場に飛び込み、状況を見てゼロが悪いのだと一方的に決め付けた。


 一体、何様のつもりだったのだろう。


 顔から火を噴くとはよく言ったものだ。今のセシリアはまさにそんな状態で、穴があったら入りたい心境だった。


「……?」


 けれど。


「おいおい、お前。そりゃ幾ら何でも商人アイツら?」


 そんなセシリアに、ゼロは変な事を言い出した。


「……え?」


「え、じゃねぇよ。アイツらは商売やってんだ。慈善活動や趣味道楽で物売ってんじゃねぇ。家の無ぇガキ共が食い物を盗むのが生きる為なら、アイツらが食い物を売るのも生きる為だ」


「え? え……あれ?」


 言われてみれば確かにそうだ。


 そうなのだけれど。


 よりによって、貴方がそれを言っちゃうの……?


「さっき、腹が立ったって……」


「ああ、言ったな」


「えっと、彼等が子供を寄って集って制裁しようとしているのが気に食わなかったから、ですよね……?」


「流石にそれが分からねぇ程馬鹿じゃねぇか」


「……???」


 意味が分からない。


 商人達に腹を立てた彼が、どうして商人達を庇うような発言をしたのか。それともセシリアが何か勘違いしているだけで、本当は彼の主張は一貫しているのか。


 セシリアが混乱しているのを、表情から察したのだろう。


 ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべたまま、ゼロは軽い調子で言葉を続けた。


「俺は俺だ。商人あいつらの事情なんて知ったこっちゃねぇ。ぶん殴って怪我させようが、その所為で守護騎士に捕まろうが、全部俺の主義思想、その結果だ。後悔なんて微塵も無いね」


 ヘラヘラと軽薄に、けれどセシリアに遮る事を許さずに紡がれる、言葉。


 笑う、という行為のルーツは、獣が歯を剥いて威嚇する事にあるらしい。こうしてゼロの前に立った今、セシリアもその事を妙に納得してしまった。


 細い、人気の無い裏道。セシリアよりも背の高いゼロの向こう、建物と建物の隙間の向こう。上層の隙間から漏れてくる斜陽の朱い光が差し込んできている所為で、ゼロの表情はよく見えない。それでも、彼が歯を剥いて笑っているのはよく分かる。叛逆する獣のように、無音のまま唸り声を上げて、無言のまま静かに猛り狂って。


 先程セシリアが感じた、ゼロから吹き付けてきた熱風。


 勿論実際にはそんなモノ無かったのだろうけど、もしかしたら幻覚ではなかったのかもしれない。


「……そ、そんなの……」


 チラリ、とゼロの視線が脇に逸れたような気がした。


 気にはなったが、今の彼から目を逸らせばその隙に喰い殺されそうな気がして、セシリアは彼の視線を追う事は出来なかった。


「そんなの、貴方の勝手な持論じゃないですか。あ、貴方の、勝手な主義主張に巻き込まれて、迷惑かもしれない」


「持論すら持てねぇようなヤツは、どうせいつも何かに巻き込まれてばかりだろ。ハイエナみたいに、その辺で失敗した奴を見付けては、“自分はアイツよりはマシ”とか何とか言って袋叩きにして、ちっぽけな自尊心を必死に守っているような連中だ。殴る価値も無ぇし、そもそもそう言う奴らは正面から喧嘩を吹っ掛けてきたりしねぇよ。そういう意味では、さっきの商人共の方が遙かにマシだな」


「……」


 そんなの、一方的な決めつけだ。貴方に他人の何が分かるんだ、偉そうに。


 そう言ってやりたかったセシリアだったが、それよりもゼロが新たに言葉を紡ぐ方が早かった。


「――俺が俺であるように、商人あいつらは商人あいつらでしかねぇんだよ。他人おれの主義思想なんて知ったこっちゃねぇし、ガキの形をしたコソ泥をリンチに掛けようと、その結果商売も苦労も知らないアホ共から人でなし扱いされようと、全部商人あいつらの選択の結果だ」


「……!!」


 嗚呼、まただ。


 ゼロの言葉を聞いて、セシリアは余計に混乱した。


 ゼロが商人達相手に大立ち回りを演じたのは、子供相手に暴力を振るった商人達に腹が立ったから。これは分かる。セシリアだってその場に鉢合わせたら、商人達と喧嘩はしないまでも、きっと止めに入っていただろう。


 商人達が子供相手に暴力を振るったのは、その子供が度々商品を盗む泥棒だったから。これも、説明されれば納得は出来る。商品を仕入れるのもタダじゃないのだ。セシリアは商売もその苦労も全部知っている訳ではないけれど、泥棒行為を許してしまえば色々と立ち行かなくなってしまうのは想像出来る。


「そ、それが……――」


 納得は出来る。不遜で傲慢な物言いであれ、ゼロの言葉は納得出来る。


「それが、分かっているのに――」


 分からないのは、混乱するのは、ゼロが暴力に踏み切った、その理由だ。商人側の言い分を理解出来るなら、暴力なんかに頼らずに、もっと穏便に済ませる事だって出来た筈なのに。


 一生懸命言葉を纏めているセシリアの言葉を途中まで聞いた時点で、彼はその疑問を察したらしい。皆まで聞かず、ゼロは事も無げにさらりと言った。


「言っただろ。ってな」


「な……!?」



「なっ、な……っ!?」


 言葉が出て来ない。


 なんてヒトだ。なんてヤツだ。


 相手の事情を汲めるのに、相手の心情を理解出来るのに、このヒトはその上で自分の感情を優先したのか。ヒトが社会に溶け込む上で必要な常識や協調性を、このヒトは持ち合わせていないのか。


「……テメェが何を考えてるのかは手に取るように分かるけどな」


 チラリと、ゼロが視線の焦点が、一瞬セシリアを透過した。ような気がした。


「それならテメェにはどうにか出来るのか? ガキと商人達あいつらを同時にどうにか出来るような、公正で大団円な大岡裁きってヤツがあるのかよ?」


「そ、それは……」


「無いだろ。綺麗事しか吐けない理想論者には」


 綺麗事。理想論者。


 ゼロは気付いただろうか。セシリアが主にこの二つのワードに竦み上がり、怯んだ事を。


「口を開けば耳に心地良い良い子チャンな言葉しか吐けねぇ」


 止めて。


「商人達がガキを複数で殴ってた話をすればガキに同情するが、商人達の事情を説明してやればそれはそれで納得する」


 止めてってば。


「中身が詰まってねぇんだよな。フラフラしてばかりで、テメェが掲げる正義ってもんが見受けられねぇ。そんなヤツが幾ら喚こうと、心に響くモンは何もねぇよ」


「ぐぅ……!?」


 グサリと強烈に突き刺さるような感覚は、きっと、幻なんかでは無い筈だ。


 綺麗事しか吐けない箱入り娘。現実を知らない理想論者。


 そんなのセシリアが自分で一番分かっている。セシリアが守護騎士になるならないで喧嘩になった時、友達にも叩き付けられた言葉だ。


 現実を知らない。理想しか知らない。


 傷付けようと思って放たれた言葉ではない事は分かっている。けれどその言葉は紛れもなく真実で、だからこそセシリアの柔らかい所に深く深く突き刺さったのだ。


 現実を知っていると言うのなら教えて欲しかった。それで自分の抱く理想が綺麗事でなくなると言うのなら、是非とも試して欲しかった。


「ほら、そういう所だ。俺の言葉なんぞに、いちいち振り回されやがって」


 ゼロ。商人達を大立ち回りを演じ、数人に大怪我させた容疑者。傲慢で、不遜で、けれど現実を知っていそうな、そんな自信ありげな口ぶりの奇妙な男。


 その時、セシリアは何を言おうとしたのだろう。自分でも分からないし、実際には言葉にはならなかったから、きっと誰にも分からない。


 セシリアが覚えているのは、次の瞬間、自分がゼロの言葉に強烈な“危険”を感じた事だけだった。


「そんなだから、の事も気付けないんだ」


「!?」


 “してやったり”と言わんばかりのせせら笑うゼロの声に、セシリアの中で何か本能的なモノが最大級の警告を発したのだと思う。ゼロから愛用の拳銃型の魔導銃の銃口を外し、代わりに視線の先へと向けながら、セシリアは背後を振り返った。


 真っ先に見えたのは、毛が逆立ってびっくりする程に膨れ上がった銀色の尻尾。眠そうに見える半眼気味の双眸は夕陽の光を反射して黄金色に輝き、セシリアの目を真っ直ぐに射貫いてくる。


「――! あ、貴方は……!?」


 昼間、上層の海乙女の憩い場ネレイド・スクエアで。そしてついさっき、野次馬の壁の外側で出会った、銀色の耳と尻尾を持った亜人の少女。


 セシリアが慌てて魔銃の引き金から指を外すのと、彼女が手に持った何かを投げ付けてきたのはほぼ同時の事だった。


「わっ!?」


 意外に鋭い投擲だった。恐らくは道端に落ちていた石ころだろうが、当たったら多分それなりには痛かっただろう。


 上半身に向けて飛んで来たそれを、セシリアは咄嗟に半身になって躱した。何しろいきなりの事だったから、セシリアの視線は一旦亜人の少女から外れ、投擲物を追い掛けてしまっていた。その後ハッとして慌てて視線を少女の方に戻した時には、彼女はもうセシリアに背を向けて脱兎の如く逃げ出した後だった。


「……何だったんでしょうか……?」


「さぁな。普通に考えれば、俺を助けに来てくれたってとこかね。俺が勝手にやった事なのに、義理堅ぇこった」


 背後から聞こえてきた、ゼロの言葉。その内容を鑑みるに、やはり商人達によって私刑にされていた少女というのは彼女の事だったらしい。


 もう少し彼女の事をよく訊こうと、セシリアはゼロの方に視線を戻す。


 途端に視界の中に入ってきたのは、だった。


「……え?」


おっせぇよバーカ」


 バチン、とセシリアの額に衝撃が走ったのは、直後の事だった。何が起こったのか把握する間も無く、セシリアは咄嗟に衝撃が走った額を押さえ、その場に尻餅を着く。


 ゼロにデコピンされたのだと一拍遅れて把握し、セシリアは額を押さえていた両手を外して視界を確保するが、その時にはもうゼロの姿はその場から居なくなっていた。


「……」


 逃げられた。


 誰が見たって一目瞭然なその状況を、セシリアが呑み込むまでには十数秒の時間が必要だった。


 逃げられた。逃げられた?


 そりゃあ、気を許されていないのはセシリアにも分かっていたし、そもそもセシリアは守護騎士であの人は傷害事件の現行犯だ。だからこそ手錠を掛けていたのだし、セシリア自身も常に彼に銃口を向けていた。


 常に。常、に?


「……あ」


 違う。常に、という訳じゃない。


 あの亜人の少女が現われたその時、意味深なゼロの言葉に、セシリアは視線を彼から外した。視線と一緒に、銃口も外した。


 つまりあの時、ゼロの動向は完全にセシリアの意識の外で。ゼロはその状況を作る為に、わざと亜人の少女の存在を、セシリアに伝えたんだとしたら。いや、それだけじゃない。延々とそれっぽい長話をしてのは、セシリアの頭をグルグルと混乱させて、としたら。


「……あ、あ……」


 出し抜かれた。漸く事態を呑み込んでも、暫く声が出て来なかった。


 考えたのに。ゼロの言葉に、セシリアはとても真面目に考えさせられたのに。


 ゼロの正義。商人達の正義。立場が変われば見えるモノも違ってきて、行動も変わってくる。子供に暴力を振るうのも、商品が好き勝手に盗まれるのもセシリアからすれば良くない事だ。腹が立ったから暴力を振るうと言う事に関しても言わずもがなである。


 けれどそんなセシリアの言い分なんて、誰も聞いてくれはしないのだ。現実を知らないセシリアの言葉には、重みが無くて胸に響かないから。少なくともゼロはそう言っていたし、商人達やあの少女だって恐らくは同じ事を言うだろう。彼等にセシリアの言葉に耳を傾けて貰う為には、何とかして言葉にその為の重みを持たせなくてはならない。


 ……なんて、無い頭を捻って一生懸命考えたのに。凄く納得して、真面目に考えさせられたのに。


 ゼロからすれば、彼の言葉は自分が逃げる為の詭弁に過ぎなかったのだ。


「アイツーーーーーーっ!!!!」


 夕陽が沈む。


 急速に夜がその手を伸ばしていくポセイドンの片隅に、セシリアのらしくない叫び声は、虚しく響き渡ったのだった。




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