街角交響曲

街角交響曲①

 完全な白でもなく、完全な黒でもなく、けれど決して混ざり合わないままにたゆたうもの、なーんだ?

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 お世辞にも綺麗とは言い難い路上を、多種多様な足が踏み荒らしていく。行き交うヒトビトの影は靄がかかる朝陽の光を忙しなく遮り、木霊するヒトビトの声や遠くから聞こえてくる教会の鐘の音、海鳥の鳴き声や船の汽笛の音などは、幾重にも幾重にも重なって一つの和音となっている。


 海上都市ポセイドンは、嘗て迫害されて海へ追われた異端の魔術師達が作り上げた街だ。機械文明も発達に合わせて近代化され、今では中央部やその他の至る所が鉄と蒸気の街並みに侵食されて階層都市と化しているが、その土台はやはり石と木を術式に補強された古き良き街並みである。ポセイドン中層、海港区の直ぐ近くにある海に張り出した市場広場、海乙女の憩い場ネレイド・スクエアもその例に漏れない。


 露店天国とも言うべき海乙女の憩い場ネレイド・スクエアは、太陽がそろそろ中天に差し掛かろうというこの時間帯、いつも通りの混沌じみた賑わいを見せていた。無秩序なようでいてきちんと客が歩く為の道の広さは空けて立ち並ぶ露店の店先には、様々な商品が並べられている。異国から取り寄せられた色とりどりの反物に、精緻で豪華で目を奪われてしまう美術品。真っ赤に熟れた林檎が盛られた籠は何処か少し危なげで、事実、ふとした拍子にその内の一個が籠から転がり落ちてしまう。自由の身となった林檎は、自らが汚れるのも構わずに、雑踏の間をすり抜けてどんどん遠くへ転がっていく。放っておけばいずれ誰かの足に踏み潰されるか、もしくは何処までも転がっていくかのように思えたそれは、けれどある時、突然伸びてきた小さな小麦色の掌に、はっしと掴み取られた。


 それは金色の目と小麦色の肌を持つ、小さな少女だった。膝裏にまで届く髪は汚れてくすんだ銀色で、頭に付いている三角の獣の耳や、羽箒のようになっている獣の尻尾に関してもそれは同様だ。年の頃は、恐らく十にも届いていないだろう。幼いながらに整った顔立ちは将来を期待させるが、着ている服はその辺に落ちていた襤褸を纏っているのかというくらいにボロボロで、且つサイズも合ってなくてブカブカだ。


 転がってきた林檎を掴み取った彼女は、手に入れた戦利品の出所を確かめようとするかのように辺りを見回す。が、直後、後ろから歩いてきた、岩を集めてヒトの形にしたような大柄な岩男に踏んづけられそうになって、慌ててその場から飛び出した。


 「うおっ!? おい気を付けろ踏み潰されぇかゴラァ!!」


 岩男の怒鳴り声が、周囲のざわめきを僅かに貫いて辺りに響く。その怒鳴り声に追い立てられるように、少女は一目散に其処から逃げる。耳と尻尾に相応しい四つん這いで、本物の獣のように俊敏に、しなやかに、ヒトビトの足――毛むくじゃらだったり、鱗に覆われていたり、細かったり、筋骨隆々だったり――の合間を縫うように擦り抜けていく。口に咥えた林檎のへた部分が、少女の急な方向転換の度に激しく揺れるが、逃げる事に必死な少女はその事を気に掛ける様子も無い。


 何だかんだで千切れない事を知っているのか。それとも単に、その事を気にする余裕が無いのか。


 とにかく彼女は鬱蒼とした森の中を駆け抜ける獣さながらに雑踏の中を駆け抜け――とは言っても、そのは足下を少女が駆け抜けた時に軽い悲鳴を上げたりしていたが――やがて海乙女の憩い場ネレイド・スクエアの端にまで辿り着いた。ヒトの密度がやや薄れた所で、少女は一旦、自分が追い掛けられていないか確かめようとしたしたらしい。走る速度を落としつつ、彼女は背後を振り返る。


 ……どうやら、大丈夫そうだと判断したようだ。


 いよいよ海乙女の憩い場ネレイド・スクエアから出ようという所で、彼女は後ろに視線を遣ったまま目に見えて走る速度を落として行き、そして、


「あぅっ!?」


 誰かの足に、ぶつかってしまった。走る速度は大分落ちていたとは言え、前方にあまり注意を払っていなかった彼女は、その体格が軽過ぎる事も手伝って、その場でひっくり返ってしまう。数秒の間を置き、驚きショックから立ち直って慌てて飛び起きた彼女は、そこで自らと近い所に目線を合わせられた紫水晶アメジストの双眸と対面した。


「はい」


 白い手袋。それに乗せられた、真っ赤な林檎。


「貴方のでしょう?」


 少女がぶつかってしまったのは、人間族の若い娘だった。


 項の辺りで束ねられた、陽の光を反射して輝く銀髪は、銀と言うよりは明るい白色と言うべきか。年の頃はよくよく観察すれば十七、八といった所だが、身に纏う衣装の所為かそれよりもやや大人びて見える。


 無骨な、軍服を思わせる黒い制服。コートのように裾が長いジャケットや、無骨な黒いブーツなど、若い娘が着るにはあまりにも素っ気無い。胸に“曲刀を銜えた黒い猛禽”の刺繍がなされているそれは、ポセイドンの治安維持を司る「守護騎士団」のものである。都市の治安を守る警察であり、同時に国を守る軍隊としても機能する事もある彼等は、言わば荒事や戦闘のエキスパートである。二十にも満たない小娘がその制服を着ているのは何かの間違いじゃないかと思えるが、少なくとも、亜人の少女はそうは思わなかったらしい。差し出された林檎を受け取ろうともせず、警戒する獣そのものの態度でジリジリと後退り、少しずつ距離を開いていく。


「あ、あれ?」


 人の好い微笑を浮かべていた守護騎士は、亜人の少女の反応に戸惑ったようだった。


「ど、どうして逃げるんですか? 別に、えっと、酷い事とかしませんよ? ほら……」


「!!!」


 自分に敵意が無い事を示そうとしたらしい。守護騎士の娘はその場で、林檎を片方の掌の上に乗せたまま、両手を上げる。武器の類を持っていない事を証明する基本的な姿勢ポーズだが、何故か少女はそれを見て、弾かれたようにその場で踵を返した。放たれた矢の如き勢いで雑踏の中に溶け込み、姿を消してしまった少女を、守護騎士の娘は呆然と見送る。


 まさか、逃げられるとは思わなかったらしい。


 後ろから別の守護騎士が近付いて来て、肩を軽く叩かれるまで、彼女はその場から両手を上げたポーズのまま動かなかった。


「セシリア。セシリア?」


「……」


「おいおい、一体どうした。ああいや、どうでもいいが、取り敢えずその手を下ろせ。守護騎士が突然奇行に走る間抜けの集団だと市民に勘違いされちゃ困る」

 

 二メートル近いと思われる長身に、制服の上からでもその片鱗が見て取れる筋骨隆々な体つき。頭に生えている二本の角は黒く、大きく裂けた口から覗く鋭い牙は鋭くて見るからに恐ろしい。頭部や太く長い尻尾に見える紫掛かった青い鱗は、それだけで刃やちゃちな飛び道具を防ぐに足るだろう。竜人ドラゴニアンと言えば、その殆どが生まれながらの戦闘生物と呼ばれている生粋の武人だ。誇り高く、一概に言えば近付き難い雰囲気を纏うのが彼等の特徴だが、今此処に現われた彼は、そんな彼等の一般像とは、何処か異なる様子だった。実際その姿は恐ろしげだが、呆れた様子の声にも、娘の肩を叩く仕草にも、どことなく気さくで面倒見の良さを感じさせるのだ。


 対して白髪紫眼の娘……セシリアは、この同僚の登場に酷く驚いた様子だった。ほんの少し肩を跳ねさせて、慌てた様子でドラゴニアンの方を振り向く。その際、掌の上に乗せていた林檎が落ちてしまい、セシリアは更に慌てた様子になっていたが、幸い林檎が地面に叩き付けられる事は無かった。ドラゴニアンがサッと手を伸ばし、それを掴み取ったからだ。


「あーあー、ボロボロだな。これじゃ一手間掛けんと危ないだろう」


「ヨグさん、えっと、その」


「さっき逃げて行った子供のものだろう? ほぼ最初から俺も見ていた。逃げられて残念だったな」


「はい……怖がらせてしまったみたいで。……あ、ありがとうございます」


 どうやらセシリアにとって、ヨグという名であるらしいこの竜人の男は目上の存在であるらしかった。話す言葉の端々に緊張が滲んでいて、話している最中に林檎を受け渡されてまた更に恐縮している様子だった。そのままヨグがその場から踵を返して歩き出すと、セシリアも当たり前のようにその後に続く。ポセイドンの街を歩く、守護騎士の制服の二人組。あまり珍しくもない、守護騎士の見回りの光景だ。


「これ、どうしましょう。返し損ねてしまいましたが」


「さぁな。今の俺達は招集された身だ。これから時間を割いて持ち主を探す訳にもいかん」


「……えっと、それじゃあ」


 ヨグの一歩斜め後ろを歩くセシリアの周囲に、光る術式陣が現われる。空中に高速で式文が書き連ねられていき、瞬く間に一つの“式”として完成したそれは、次の瞬間、彼女が持つ林檎の周囲へ一気に収束する。パチ、と小さな紫電が走り、その時にはもう、林檎は彼女の掌の上から消失していた。より正しく言うなら、と言うべきだろう。


「お前が入ってもう一ヶ月だが」


「?」


 ヨグの声は多くの竜人の声がそうであるように、低く太い唸り声に言葉を喋らせているかのようだ。慣れない者にとっては聞き取りづらく、何より恐ろしげだが、海上都市ポセイドンは世界の交易の中心でもある。品々と共にヒトビトも種族を問わずに集まり、故に言葉も訛りや種族毎の声質と共に多く集まる。子供の頃からポセイドンに暮らしている者なら、あまり苦にならないだろう。


「相変わらず空恐ろしい光景だな。“暗算”と言うのだったか? 神代の魔法使いの再来と言うのも大袈裟な比喩ではないんだろう?」


「……あはは。それは、アレです。言い過ぎです」


 尤も、セシリアの場合は別の要因でヨグの言葉に小さくなっているようであったが。素直な賞賛に対しても首を縮めているその様は、謙虚を通り越して何処か卑屈なようにも見える。

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