エピローグ

 かくして。


 俺たちはなんやかんやで元の世界に、現代日本の生活に戻ってきた。


「ただいまー」

「ただまー」


 けっきょく俺たち兄妹が異世界にいたのは一ヶ月弱。近年短くなった夏休みだが、それでもじゅうぶんに余裕を持って帰ってくることができた。


 思っていたよりは早く帰ってこられたが、高校生と中学生が保護者なしで出かける期間としては長かった。両親の「おかえり」と言うトーンは普段学校から帰ってきたときのものと変わりなかったが、それなりに心配はしてくれていたようで、その日の夕飯はいつもより少しだけ豪華だった。


 塔子のおかげで夏休みの宿題もあらかた終わっていたし、俺たち兄妹は特に問題もなく日常に戻っていったのだが……気がかりがひとつ。


「兄ー」


 夏休みが終わり、始業式に出かけようとする俺に、塔子がぱたぱたと駆け寄ってきた。


「わすれもの」


 と言って差し出してきたのは、異世界で苦楽を共にしたあの折りたたみ傘である。


「……今日の降水確率は0%だったと思うが」


 外はからりと雲ひとつない晴天である。


「だめ、護身よう」


 と、塔子は引き下がらない。


 ……そういやこいつ、戻ってきてからというもの、どこに行くにもたて笛を携行してる気がするな。


 異世界の一件で気に入っただけかと思っていたが、こいつは勘違いをしているのではなかろうか。


「……あのな塔子、折り畳み傘やたて笛が得物だったのは、向こうの世界でのことだぞ。こっちの世界ではそんなもの武器にはならないんだから、危ない所にいったり変な人について行ったらダメなんだぞ。わかってるか?」

「行ったらダメ。わかってる」


 塔子は自信満々に頷いた。その回答不安だなあ、前半部分もちゃんと聞いてた?


「それじゃあ、行ってくるな」

「……」


 無言で袖を引く塔子に引き止められる。


「はい」


 と、折り畳み傘を差し出される。


「……」


 やっぱりこいつ絶対分かってないだろ。


 俺はため息をつきながら折りたたみ傘フォービドゥン・アンブレラを受け取り、晴天の下を歩きだすのだった。




 たくさんのコーコーセーと共にバスに乗り、学校へ向かう道すがら。


 俺は寝起きでぼんやりとした頭で、皆は異世界に行ったら何が得物認定されるのかな、などと考えている。あの女子めっちゃ爪伸ばしてるな、刺されたら割れそうだな、とか。


 実はどうやって異世界に行ったのか、まったく覚えていない。


 というか、最初から知らなかったのだと思う。神奈先輩を追いかけて行った時は、高校生が異世界に行くのは当然だと思っていたし、先輩を探すことしか頭になかった。


 あの不思議な世界に、俺たちは本当に行ったのだろうか。こうしてたくさんのコーコーセーに混じって日常の中にいると、全ては夢だったのかというような気がしてくる。


 塔子に無理やり持たされた、鞄のなかの折りたたみ傘をそっと撫でる。もちろんそれはフォービドゥン・アンブレラなどではなく、ただの雨具だった。




 最寄りのバス停で降り、校門へと続く坂を登る。たくさんの後頭部の色が全て黒なのにどこか違和感を覚える。


 その黒の中に、ひときわ艷やかで深い色を見つけた。どんなにたくさんの人がいようとも、見間違えることのない後ろ姿。星屑神奈先輩だ。


 神奈先輩はぴしりと背筋を伸ばして、一人で登校していた。以前からよく見ていた、凛々しくて近寄りがたい背中だ。周りのコーコーセー達も心なしか距離をとっているように見える。


 俺は駆け寄ろうとして、ふと先程の、全ては夢だったのではないか、という思いが蘇った。


 異世界から帰ってきてから、先輩とは会っていない。話しかけたら「あなた、誰?」と言われるのではないだろうかという考えがいっしゅん心をかすめる。


 いやいや。


 俺は軽く頭を振った。休みボケで頭がぼうっとしているだけだ。


 『レンタロー君はもう、私に美化された幻影を見ることはないでしょう?』と言ってくれたのは、他ならぬ神奈先輩だ。その俺が、凛々しくて近寄りがたい、なんて幻影に戸惑っているわけにはいかない。


 俺は迷いを断ち切るように、思い切り元気よく声をかけた。


「神奈せんぱーい!」


 ざわっと、周囲のコーコーセー達が振り向く。神奈先輩は思い切り嫌そうな顔をして振り向いた。


 嫌そうな顔。


 それはきっと、こちらの世界では俺にしか見せてくれないものだ、というのはうぬぼれだろうか。


「なんですか先輩、久しぶりに会ったのに苦虫を噛み潰したような顔をして」

「なんであんたはそんなに嬉しそうなのよ……」


 神奈先輩は小声で言う。


「学校で気軽に話しかけないでよ。私のイメージが崩れるでしょ」

「ええ……『イメージを押し付けるな』とか言ってたくせに……。そういうイメージはむしろ崩したいんじゃなかったんですか?」

「だからといって、いきなり粉砕するわけにもいかないじゃない」


 ひそひそと話す俺たち。どこか周囲の視線を感じるのは気のせいではなさそうだ。


「でもそんなこと言ってたら、今までのまんまだと思いますよ。今朝の神奈先輩もわりと近寄りがたいオーラ出してましたし」

「そんなの出した覚えないんだけど……っていうか、下の名前で呼ばないでよ。仲良いと思われるでしょ」

「ひどい。仲良いじゃないですか」

「仲良いっていうか……男女が下の名前で呼び合うって、こっちの世界だと誤解される種類の仲の良さじゃない」


 まあ確かに。あだ名とかならともかく下の名前で呼び合うのは、恋人同士と誤解されても不思議ではない。


「分かりましたよ。星屑先輩……でいいんですか?」

「……レンタロー君にそう呼ばれると、やっぱ違和感あるわね」

「先輩が言ったんじゃないですか。ていうか先輩も俺のこと名前呼びしてるじゃないですか」

「……あなた、苗字なんだっけ?」

「ひどいっ! 斎条ですよ!」


 などと先輩と他愛のないことを話しながら、坂を登っていく。


 異世界でのできごとは遠く、夢の中のことのように感じられる。でもこうして他愛のない会話をする神奈先輩はすぐ近くにいて、この上なくリアルだ。


 全ては幻影だったのかもしれない。


 だけれど、俺が今目の前に見ている星屑神奈という人間は、幻影じゃない。校門をくぐりながら、俺はふとそんなことを思った。






 おしまい

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夏休みを利用して、異世界にやって来ました うお @fish_or

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