第9話第三部1
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エミリアの葬儀の前。
わたしは遺品整理のためにエルマ叔母さんに呼ばれてエミリアの思い出を語りながら、エミリアの部屋を漁っていた。漁っていたというのは変な言い方だけど本当にそんな感じで、エルマ叔母さんはどうしても明日の葬儀で語るスピーチに一言二言でも長く言葉を加えかった。
その点、わたしは新聞記者だしどうすれば長くて説得力があって、目の前の人たちを泣かす言葉を用意できるかは他人より長けていた。
「テーマは洋服がいいですよ。子供服を作っていたんでしょう。販売しているお店にも顔を出して評判を聞きに行きましょう」
「ええ、でもねそのほとんどは国外にでちゃってるのよ」
「国外に……」
「ユニセフって知ってるかしら。カンボジアとかいう貧しい国に送るんですって、毎年お金の代わりに手紙が届くのよ」
確かにエミリアの机の引き出しには入りきれないほどの手紙が溢れている。
裸で農作業をしている男の子を、街の隅でボロボロの服を着た女の子がいることを知って。
エミリアはそういう寄付が出来る場所を探した。
わたしはエミリアがどうして洋服を作る仕事を選んだのか全然分からなかったけど、背後にはそんな事情があったんだ。
自分の服を村中の子供たちが着てくれる夢を見ていたのだ。
遺品整理をしていると他にも秘密のノートやら、ファッション雑誌、食べようと思っていたお菓子まで見つけてしまう。つい最近までここで息を吸って寝ていたのを――エミリアの幸せそうな寝顔を思い浮かべていた。
ふと、わたしはエミリアのアトリエも見たいと思った。エミリアの部屋にはミシンや裁縫道具の類が無いからどこかにあるのだろう。
エミリアの母親がスピーチの内容を考えている間、遺品整理も大分落ち着いてきたところだし、ミシンやら糸やらがたくさん置かれているアトリエへと勝手に入った。
結構本格的なんだな。そう思うほど作業場は雑多な物で溢れているにもかかわらず綺麗に片付いていて、おそらくエミリアの母親が先に片付けてくれたのだと思う。
ミシンが置かれた台の椅子に腰かけると、洋服を縫う真似をしてみた。もちろん縫い方なんて分からないけど、エミリアの気持ちを少しでも感じたかった。
そうして、目についたのは裁縫箱。木製で出来たその箱を開けると、中には規則正しく整理整頓された縫い蜂やら大きな鋏がたくさん置かれている。まるで化粧箱だと思う。これが男の子だと工具箱もといおもちゃ箱になってナットやレンチやらに混ざってミニカーやライターがごちゃごちゃに入れられているのだ。
一つ一つ道具を手に取ると気になる物が目に付く。それはプラスチックのケースが刃に収まった糸切狭。ケースを開けるとまるでギロチンに似た刃がシュッと両側に開く。見た目も黒い鉄で出来ていて鉄臭い。
「いや、これは」
刃をよく見ると赤い染料のような色が微かに見える。
裁縫道具の中には拡大鏡(ルーペ)も入っていたので、それを刃にかざす。
拡大された刃には血痕があった。皮のような赤い皮膚の欠片。もう固まっていて黒くなっているので遠目では全然分からない。
誰かの血と皮の跡。
「ルキー、どこに居るのー」
心臓が飛び上がる。すぐ背後でエルマ叔母さんがわたしの名前を呼んでいたのだ。
近づいてくる。
視線が合う。
わたしの持つ糸切狭をエルマ叔母さんは指を差した。
その時は、そう、指の先でも挟めたに違いないと。
そう思っていた。
わたしはまだ生きていた。
過去の記憶から目を覚ますとそこは病院だった。
病院と分かるのは清潔そうな白い布の仕切りとシーツ、天井も真っ白だからだ。
視界の端では何本もの管が伸びていて吊るされたパックと繋がっている、点滴を施されているようだ。口を動かそうとすると舌がひりひりとして大きな声が出ない。というより、喉がひどく水分不足で干からびている。
言葉自体が上手く口に出来ない。顎がひどく固まっている。
そもそも、体が全く動かないのはどうしてだろうか。
手を動かそうにも足を動かそうにも感覚が無い。首を動かすことさえも両側に固定している何かがあって頭を横にする事すらできない。
体のどこかがかゆくて居心地が悪くなってくる。かゆみは傷が活性化しているんだ、だから掻いてはいけないと親に言われた事を思い出す。それでは、わたしのこの全身のかゆみは体全体が活性化しているということなのか。わたしの体はひどい傷を負っているという事なのか。
ずっとそれをかんがえていたら、人――看護婦のような人の動く服が見えて、わたしを見るなり他の人を呼びつけて来た。視界にわたしの目を覗き込む初老の男が現れる。
「わたしの事が分かりますか、あなたの主治医です。声が聞こえましたら瞼を二回閉じ開きしてください」
目の前の男はロシア語を使っていたので何を言っているのかさっぱりだったけど、わたしを助けてくれている親切な人なのだろう。
「あなたは難破船から逃げ伸びてきた乗客の一人です、あなたの症状は頭蓋骨損傷、背中の火傷、腓骨のひび割れ、全身のしもやけです。特に全身のしもやけはひどくて線維筋痛症の症状が見られます」
初老の男の言葉がドイツ語で訳されたノートが目の前に用意される。目の前の男――主治医の言葉によると、わたしはかなり重症らしい。パニックにならないでください、と初めに言われてわたしはなんとか目を瞬かせて手鏡でわたしの全身を映してくれる。
わたしの姿は頭から足のつま先まで包帯だらけのミイラ男となり果てていた。まるでわたしをテロに嵌めてくれたあの憎き少年――シンに似ている思う。いや、シンよりもひどいファッションだ。
「こうして外気に触れないよう包帯を巻いていますが、いまあなたが痛みも感触もなにも感じないのは強い鎮痛剤のおかげなんです。もうすぐドイツ大使館から使者が来ますのでお待ちください」
わたしは翻訳されたノートの文字を目で追って瞬きを二回した。
主治医がどこかに行くと看護婦がベットを起こしテレビを見せてくれた。とても懐かしいドイツのニュース番組だ。
日付を見るとあれからもう五日が経っているという。
宣戦布告をした米国戦士の勢いは凄まじく、カスピ海には難攻不落のあのプラットフォームが今だ聳え立ち、そこを拠点としてたくさんの無人戦闘機(ドローン)やら戦士が行き来していると言う。さらにはチェチェンの街をすでに占領しているということを聞いて、少し驚く。
チェチェンと言えばわたしがカスピ海に飛び込んで意識が朦朧とした時に、ヴォーシミが向かうと言った場所だ。
わたしは情けないことに気を失ってしまったが、ヴォーシミが助けてくれたのだろう。カスピ海を泳ぎ切り、ロシア領にたどり着き、わたしをこの病院に……。
彼はいまでもスパイとしてロシア軍人を演じ続けているのだろうか。もしそうだっとしたら、今後の戦いはどうやっていくのだろう。彼の所属していると言うロシア自由解放戦線は反露派の集まりなのだろうか。それとも、改革派ともいうべき人の集まりなのだろうか。
彼の戦争は何時になったら終わるのだろう。
わたしは考えに耽ったが、ドイツ大使館から来るという使者からの情報を気長に待つことにした。
なにはともあれ、目の前の戦争だ。
どうやら戦う意志の強いアメリカ人はたくさんいたようだった。
ロシア艦で殺害を命じたあのロックウェル大佐と呼ばれた人物のの言葉が――カタールから中継された宣戦布告を聞いて駆けつけてきた兵士が、アメリカ本土から五十万人、EUにある米軍基地から十万人ほど中東に集結しているらしい。もっとも、その三倍近い人数の軍隊をロシアはシリアからカザフスタンまで各方面に広く展開しているのだが。
これは本格的に第三次世界大戦がはじまる勢いかもしれない。
「フックス君はいるかな」
ノックの音が聞こえて病室に誰か入って来た。それは確かなドイツ語で、陽気な喋り方をしていた。
といっても目が合い顔が合うと、相手はにんまりと笑顔を浮かべた。とてもいかめしい皺がたくさん刻まれた顔と服を何十枚も着込んでいるかのような胸板、体格が熊の様に大きい人だ。ロックウェル大佐よりも大きいかもしれない。
「お土産を持ってきたんだが口に合うかな」
「病室では飲食禁止なんです」看護師が注意をする。
「そうかい、それはすまないね」使者は看護師の顔へと自身のいかつい顔を近づけて言う。「ここからは内密な話になるからあなたたちは出て行ってくれないか」
さぁ出てった出てった、とその大使館から来たと言う使者の男は医師たちを迷惑そうに病室から追い出すと、わたしと彼だけのプライベートな空間を作った。
「それではお土産を食べようか」なんだって。「これはブリヌイというクレープに近い物だけど、ああ、自分は具が甘いジャムの方が好みだがね、ここはロシア風にイクラを包んだものを持ってきた」
イクラ。キャビアとはまた違う魚の卵だ。使者の男が箱と梱包材を破いて開け、ブリヌイと言っていた食べ物が目の前に出される。 黄色の薄生地に包まれているのは確かに赤い、真っ赤で新鮮な卵たちだ。外観はパンケーキのようだけど、中身を見るとなんなんだこれは。お菓子じゃなくて酒のおつまみのようだ。
わたしにはとても馴染みのない食べ物をこの使者は、無理やり口をこじ開けて突っ込ませた。全身動かないと言っても舌の細胞は生きているところもあって赤い卵たちが弾けていくのが分かる。イクラの塩っ気の強い味が舌に染みてくる。
味だ。とてもじゃないが味を感じると懐かしい気分になる。久しぶりに食事をとった感覚。
歯で噛む力が弱っているのでどんどん赤い卵たちが舌を伝いながら喉の奥へと流れ落ちては弾けていく。乾燥した喉肉に塩分が染みわたっていく。
「ごほごほ」
わたしが塩辛さで咽る様子を見て、使者はわたしの口からブリヌイを取り上げ、薄生地だけとなったブリヌイを自分で食べ尽くし、言葉を続けた。
「俺の名前はベア、階級は大尉だ」
大尉。ということは軍の中でも結構偉い階級だろう。軍人がわたしの目の前にドイツ大使館の使者として顔を出したことの意味をわたしは理解しようとする。
ベア大尉はわたしの横にある椅子を小さい物だと不満げに思い、居心地悪そうに座り言い続けた。
「君は現在、テロリストとして世界各国に指名手配が掛けられている」
わたしは目をひん剥いて驚いた。体で表現できない分、顔が過剰に反応してしまうのだ。
「君がカスピ海近隣諸国見本市で、イラン船からロシア船に向かう渡航船を爆破した証拠となる音声データをカタールが流したからだ。これによってメディアは君を犯人扱いしているようだが、国際連合軍は君を最重要人物として行方を探している」
きっとあの事情聴取のことだ。ヴォーシミが録音したデータはもちろんシンにも渡っていたのだろう。
「ルクス・フックス。君は犯罪者として本国で治療を受けた後、直ちに刑務所に入り懲役刑となるだろう。ああ、それでも老後は十分に本国で暮らせるから安心したまえ」
犯罪者、そして投獄。そして老人になって死ぬ人生。
そう決められたように言われた気がしてわたしの頬から涙が伝う。
これはきっと罰なんだろうな。わたしがエミリアの死を記事にした時から。この世界の真実を暴こうとした顛末。濡れ衣を着せられて何もできずに静かに老いて死んでいく。
それがわたしの人生か。
それでも、シンの言う通りなのは悔しいけど、いままでの自分が最低より少し上の奴だと、まだ自分よりも不幸な人がいることに気付けたのはとても嬉しい。
そんな不可思議な気持ちが胸中にあった。
「だが、君にはもう一つの選択肢がある」
ベア大尉が声色を一層低くしてそう言い出す。
「君の生死はまだ本国には伝えていないし国連にも報告はしていない。これは保護した第一人者がわたしだったから運があったのだ。君はあの事件の真相を知っているのだろう」
暑苦しい顔を近づけ、わたしの両肩に手を添えてくる。
「改めて言おう。俺はドイツ連邦情報局(BND)所属、暗号名(コードネーム)はウォッシングベア。階級は大尉だ。ベア大尉と呼んでくれて構わない」
ウォッシングベアと言うとドイツ語で言えば、アライグマだ。情報を洗う。そんな意味合いだろうか。ベア大尉は続けて言う。
「君にはチャイニーズの輩が引き起こそうとしている終末戦争――高信頼性代替核弾頭(レライアブル・リプレイスメント・ウォーヘッド)奪取計画を止めてきてほしいのだ。ドイツ工作員(スパイ)として」
「う、ウォーヘッド……」
声が出ていた。わたしはベア大尉の言っている大事(おおごと)より、自身の乾いた喉から声が出た事に驚いた。
「君の喉に張り付いたナノマシンが宿主の肉体細胞を急速に再生――代理しているのだ。イクラの中に忍ばせてもらった」
医療分子機械(ナノマシン)、といえば最先端医療に使われているというその名の通りのナノサイズの機械だ。機械と言うのは変かもしれない、なにせその成分はマグネシウム、亜鉛などからなる卑金属物質で作られ、一つ一つが前後左右の動きしかできない微細な分子なのだから。それを形作るのも容易ではなく、自己増殖用ナノマシンによる量産が最も一番効率的な現状は、金持ちにしか使われない。
それが自分に使われたことに驚く。唇の痺れが引いて口元が柔軟になるといろいろなアルファベットを発音できるようになった。
「核の奪取計画ですって……」
「そうだ。君を俺のところに連れて来た青年がそれを告げてどこかに消えた。今回の事件、チャイニーズがどこかで噛んでいると見ていたが、まさかRRWの存在を口にするとは思わなかったのだ」
高信頼性代替核弾頭(RRW)。そんな聞き慣れない物騒な言葉をベア大尉が説明してくれる。
冷戦の終結を迎えたアメリカ合衆国の抱えた一つの大きな問題。
それはこれから不必要になるだろう小型、高性能核弾頭の保管方法だった。核エネルギーを生み出しているプルトニウムやその反射材に使われている酸化ベリリウムなどは装甲板のひび割れや強度低下の懸念があってメンテナンス及び長期的な保管が難しく、安全性、信頼性が年数を重ねるたびに低下していた。
それならば核弾頭を安全に処理、廃棄すればいいという考えは国家の弱体化につながるとされ非難。核爆発という危険性を孕みながら冷戦が終わった後も核弾頭たちは抑止力として残り続けた。
だけどそれも技術の日進月歩と、国家核安全保障局の働きによって、二〇〇四年頃から保有している核弾頭を、より安全で長期的な保管が出来る新しい核弾頭に作り変える決議が決まった。
「それがRRWであり、またの名を環境汚染核弾頭(エンバイロンメンタル・ポルーション・ウォーヘッド)、通称EPWだ。もっともこの計画自体は予算の都合により中止の措置が取られていたが、それは囮情報(デコイストーリー)であり裏では極秘計画として着々と開発が進められていたのだ」
ベア大尉はそう言うと、拡張現実を目の前に展開させてその核弾頭の設計図らしき図を現わした。
わたしはこの時それが自然なことだと錯覚してしまい、ベア大尉が帰ってから拡張現実を裸眼で視認出来ていることに遅まきながらやっと気づき驚くのだが、それはどうやらナノマシンがわたしの脳から発せられる電気信号を読み取り、拡張端末として機能しているということだった。
「どうして環境破壊と」
わたしは不思議そうに聞く。安全とか信頼性が高い核弾頭を作っているはずなのに、どうしてその単語が継ぎ足されているのかを。
「君はアインシュタインが世界大戦のことでインタビューされた時に答えた予言を覚えているかね」
「次の世界大戦は石と棍棒、でしたっけ」
「惜しいな。正確には第三次世界大戦についてはわからない、だが第四次大戦ならわかる。それは石と棍棒でしょう、だ」
「第三次世界大戦は現存の兵器なのですか」
ということは終末戦争というのは次に起こる第三次世界大戦をさしているのかもしれない。
「EPWはそのアインシュタインの言葉を実現するために集められた弟子たち――課題を残された科学者たちが設計、思想した終末戦争を引き起こす引き金と言われている最悪の核だ」
「どうしてそんなものを」
「人間が頭で考えることは、すべて実現可能である」またアインシュタインの言葉を、ベア大尉が呟く。「世界にはアインシュタインが残した重力波を始めとするこの世の神秘を解き明かす課題を成し遂げたい輩がわんさかいるのだ。国家核安全保障局はそいつらにRRWの開発を依頼しただけ、ただそれだけだったのだ」
任せた結果がこの目の前に展開されている図――環境汚染核弾頭な訳だ。
図を見るとRPG―7の切っ先に取り付けるロケット弾みたいだ。直径は一メートルほど。核弾頭と言えば長細い宇宙船のようなものを思い描くけどこれは驚くほど小型だ。
「大規模爆風爆弾(MOAB)と原子爆弾を掛け合わせたのだ。それによって弾頭が小型化ながらも爆発がすさまじいものになる。特に爆風だ」
「爆風、ということは放射線が風にのったりするのでしょうか」
「その通りだ」
ベア大尉が頷く。わたしの考えが思い当たった。
環境汚染核弾頭と名がついた訳は、核弾頭の爆発によって都市壊滅を狙いとしたわけではなく、その都市に人を住めなくする――人に限らず生物の生態系を乱し生命の誕生を阻害する、地球の破壊を目的とした、最低限であるはずの倫理を反する兵器だと言う。
「それをチャイニーズ」またの名を無名の衆だということをわたしは知っている。「に奪われると」
「そうだ。その核弾頭がある施設は現在、アメリカ本土にある。チャイニーズがこのRRWの計画自体を知っていること自体が異常なのだ。奴らは必ず奪取に来る」
アメリカ。テロが日常になりつつある国にシンは行こうとしているのか。そこでRRWもといEPWを奪い世界に終末を。
地球を、もしくは周りの国々を破壊し尽くそうとしているのだ。
わたしは歯噛みした。ナノマシンたちがわたしの口内でざわめき、感情を抑える電気信号を発信する。
シン。君は戦争を終わらせるために地球を終わらせることを選んだって言うのか。
人類の滅亡を。
「君の言葉が欲しい。我々EU(ヨーロッパ)の希望の言葉が」
「わたしに」わたしは躊躇いがちに聞く。「わたしに何ができると言うのですか」
数日前までのうのうと平和の国で暮らしていたわたしに。
シンという少年にテロの道具にされ、弄ばれていたわたしに。
ヴォーシミに守られていたばかりだったわたしに。
何もできない無力なわたしに。
「言っただろう、工作員(スパイ)だ。ドイツ連邦情報局の一員としてアメリカへと派遣する。現地調査員としてチャイニーズどもを見つけ目的を阻止するんだ」
「わたしにはそんな力は――」
「力は造ればいい」ベア大尉がわたしをなだめるように言い上げてくる。「ナノマシンが君のサポートをしてくれる」
「ナノマシンが……」
「重要なのは君がドイツ人で身元不明者であるということなのだ。また、全身の治療が必要であることも」
ベア大尉が手を差し出してくる。
待ち続けていいる。
わたしの手も動く程度には回復していた。ナノマシンの再生速度のすさまじさに驚嘆する。
この大きな手とわたしの包帯が巻かれた手が触れれば、もう後戻りはできないだろう。いや、後に戻っても刑務所行きならどちらにしろ覚悟は必要だ。どちらが逃げになるかなんて分からない。だけどわたしはこの選択が逃げとは思っていなかった。むしろチャンスだと、あの少年に一泡吹かせられるのなら、それも一興だと。
だけどシンはこの事さえも予知している気がする。去り際に残した言葉を思い出す。素直に帰れと。お前は無力だと。
わたしはそれに抗って見せる。
シンを止めてやる。
わたしの意志がベア大尉の手に触れると、ベア大尉はわたしの手を強く握り返してくれた。
わたしの――BNDの秘密戦争がこの時、始まった。
本国にはわたしの死が伝えられた。
ロシアから戦地を避けてわたしは空輸される。
国際連合軍がわたしの全国指名手配を取り下げ顔写真に大きな赤いペケを付けられる。こいつは捕まった、すでに死んでいたと追記される。その旨が更新されたポスターが世界中に貼り出された。
本国に着くや否や、仮死状態となったわたしの死に顔を遺族に確認された。母と父はわたしの顔を髪を撫で、頭皮の古傷を探したり、首の黒子を見つけて泣いてくれた。そうしてから正式に、やっと死亡が認められるのだ。
わたしの死は曖昧ではいけなかった。
きちんとした手続きを踏むために、わたしの葬儀は入れ替えれた別の死体が眠っている棺に遺族や友人たちが一人ずつ別れの言葉と花を手向ける。
その間、わたしはドイツの軍事施設で手術を受けていた。大量のナノマシン、大量の薬剤、大量の金が使い捨てられるようにわたしに次ぎこまれる。
ベア大尉曰く、その気になれば人は全知全能の力を手に入れることができるのだと言う。これを邪魔しているのは周りからの倫理観、そして体を捨て去る覚悟だけだとも言った。
インターネットを覗けばたいていの難しい言葉や問題でも理解できてしまうし、化学物質がたくさん入ったドーピングを施せば、オリンピックに出場するアスリート並みの運動性能を手に入れられる。
それよりも重要な要素がある。人間が地球上でもっとも繁栄成し得ている要素。人間が他の動物より勝っているのは知識力(IQ)や二足歩行のらせん状を象った遺伝子などではなく、言葉を発すること。
対話能力(ダイアローグアビリティ)。
すなわち共有力にある。
わたしたちは互いの考えを言い合って論争し、互いを高め合い、いつかは理解し合える動物なのだ。
それがわたしには大きく備わっているとベア大尉は言い上げる。
「第二次大戦中、敵に遭遇した米国兵が銃を発砲する割合はわずか一割だったそうだ」
「一割……」
人を撃つのがとても嫌だったのか、それとも怖かったのか。
「これが反射による訓練方法によって朝鮮戦争では五割、ベトナム戦争では九割にもあがったという」
「反射ということは、それが手を挙げた敵でも撃ったのでしょうか」
「そうだ、命令に従ってな。誰も彼もが好き好んで人殺しをしたいわけじゃないという事だ。君のような人間にこんなことを言うのは酷かもしれないがね、常に人を信じ続けてやってほしい」
まるで人工知能に教えるような言葉をわたしに浴びせてくる。
「そんなの当り前じゃないですか」
「そうかもしれんな」ベア大尉の弱気な応答を聞く。「しかしな、少なくともここにいる連中を君のような体にすれば、たちまちその力を己の物と誤信して暴走してしまう、その力をテロや戦争や人殺しに使ってしまうんだ」
生まれた環境が、己の運命が、この世界が憎いから。
手術と手術の骨休みの時間にベア大尉が教えてくれた話だ。
人を殺すという事は、殺した人の未来や可能性を奪ってしまう訳であって、決して容易に判断して行うべきではないのだ。
だから、わたしがシンにどれほどひどいことをされたとしても、まずは話を詰めるべきなのだ。
憎むべきはシン本人ではなく、この世界の在り方だ。
話が終わると、医学物理学分野のプロフェッショナルがわたしの前に集まって体を好き勝手にいじくりまわしていく。たっぷりの好奇心に駆られて目を輝かせる連中がわたしの首筋にメスを入れていく。
人体実験は倫理に反することとしてずっと国際法で禁止されてきた。特に遺伝子に関しては相当厳しく、露見された場合は関連した人や場所、研究はことごとく殺されるか燃やされるだ。
でもそれは建前で、本当は随分と長い間この分野は研究されていたみたいで、わたしの他にも体が機械化した者や、内臓を強化された者たちはたくさんいた。それこそ、死体をよみがえらせて労働力として働かせたという例だってある。
それが今回は実用(プラクティカル)ということ。
血中に流れる大量のナノマシン群によって血管の周りに骨を形成される。
カブトガニの血が銅によって青い様に、わたしの血はもう赤でも黒でもないナノマシンの銀色で白くなって、内側から伸びてくる骨に拮抗するために薬剤に侵された皮膚は硬く乾いて痩せ細り内側の分厚い骨と密着する。
全身の毛という毛が真っ白になって生えることを無駄と悟り全てが削げ落ちる。だけれど心臓を始めとする臓器たちはいまだ綺麗なピンクのままで、心だけは残った。
瞼を閉じると完全な闇に包まれる感覚、肌に触れるもの全てが金属質に感じられる触感。
わたしはとても人間とは呼べない微細な機械群に侵された体に成り果てたけど、外観からしてみれば見た目より大分体重が重いだけの人間だ。
わたしはまだ人間だった。
人の生きる道はもう歩めない――我が子を残せないのが唯一の心残りだけど。
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