第4話第一部4

 彼は言っていた。

――今、アメリカで大きなテロが立て続けに起きているおかげで、ここはずいぶんと平和になってきているんだ。

 わたしは拡張端末に電源を入れて携帯端末とリンクする。携帯端末はネット情報を受け取り、拡張端末に拡張現実(AR)として投影し始める。拡張端末はわたしの網膜、もしくは脳や体に電気信号を与えて疑似的な感触を催した非現実的な幻を目の前に展開させた。

――ここもヨーロッパと変わらない、ネットと監視カメラ、センサーが俺たちを常に見張り、窃盗や賄賂などの不正がないよう紙幣の電子化が広がってきている。

 ビル一つ一つに雑多な種類のお店が並んでいる。その多くに看板やメニューの類は立てられていないけれど、わたしが視線を移しただけでアナウンスの声が聞こえる。ここは八百屋、ここは雑貨屋、ここはレストラン。

 わたしの見たいもの、聞きたいもの、欲しいものを全て短時間で調べ上げては正確に嘘偽りなく教えてくれる。

――街では拡現(AR)も広がってるいるし、それに対応するために品の品質も向上した。適応できなければ売り物として出すことが禁止されてしまったからだと。おかげでみんなが目を輝かして、額に汗を掻き毎日を必死に生きてしまうよう活気づいてしまった。

 社会主義を謳った高度な資本主義化。

 例えば、人工が何十億人と溢れた中国の就職試験。または製造費を据え置いて人件費を極限に削って安くなるばかりの価格競争。

 これらは国が貧しいから起きる事ではない、国の政治が国民に命令のように決定を下しているから起きていることなのだ。

 追い詰められてこその出せる精一杯の努力、極限の本気を国民に求めることで成り立つシステム。

 EUとはまた違う、政府によって圧力を掛けられた経済をわたしは目的地にたどり着くまでに見ておくべきだと、彼に言われた物を覗いた。

――プラスチックの椅子、パソコンやテレビ、お前の好きな豚肉とビール、いやビールよりもジョージアワインだな。

 赤や青など一色で染められたプラスチック製の椅子は頑丈な構造をしており、手作りではなく型にはめられた量産品だと気付く。しかし、パソコンやテレビは大手メーカーのロゴが入っていて、生産工場を調べると国産品であり、なおかつ製造、技術者はみな在国(ジョージア)人であった。豚肉、おいしかった。ワインは一本買った。

 そして、わたしはそれらのメタ情報と味を堪能するたびにとても驚いていた。

 物価がとてつもなく安いのだ。わたしの住んでいる故国よりも。

――人件費が安いのを実感してくれればいいさ。石油やガスや商品よりも。ここでは、移民が溢れて人口が増加し、職を得るため、客を得るために価格競争が行われ、その底辺を築いてしまったんだ。

 その上、世界共通で使われている仮想通貨(ユーロ)がこの国では使える。紙幣というのは銀行で、そこにあるべき物として大事に眠るようになっていた。

 やがて、ビルが密集した場所は見なくなり、街はずれもしくは郊外と感じる場所に出るのは早かった。そこでは人々が生活していて、家々は銃弾や砂が塗れた廃墟同然の場所だった。焚火の火が点在して人々はそこでゴミを焼いたり炊事の煙を焚きだしている。

 わたしはワインの入った紙袋を掲げて変わりゆく街の風景を眺めていた。この国では戦争でたくさんの人が死んだものの、その衰えを感じさせない経済が動いているように見えたけど、そんなのは表面的なものなのかもしれない。わたしには目の前の光景がとても原始的な、エジプトやギリシャなどの旧文明の時代に映る。

 やがて、拡現(AR)が目的地を目の前に捉えた。赤いマーカーが彼を差した。

 細身の体に肌を見せないように色とりどりの布を幾重にも巻いた恰好、唯一布が巻かれていない顔の部分は携帯端末へと向けられ、笑い顔で何かに没頭している男の子、背が低いことからわたしよりとても年下に見える。

 赤いマーカーで差された彼はわたしの存在に気付く。わたしもまた、彼の視界の中では赤く照らされているのだろう。

「お前待ちだったんだぜ、フックス」


 彼の名前はシン。それだけだと言った。翻訳されるのは中国語。

 ネットでわたしがやり取りをしていた時は英語やドイツ語だった記憶がある。それに少年というよりも年上の気さくな学者風な印象だった。とても少年だったとは思えない。

 しかし、目の前にいる目的の人物――シンのその恰好はさながらターバンをこれ見よがしに装着したインド人みたいで、どこぞの修行僧を思わせる。

「ワインを買ったのか、ここのワインは世界でも一、二を争うくらいうまいというぜ。俺は体がまだ成長しきっていないから飲まないけど」

 彼は英語を話していたのだけれど、それを聞き取った拡張端末が随時翻訳してくれる。わたしの話すドイツ語もまた、彼の耳には英語か中国語に訳されているのだろう。

 顔を合わせたばかりのわたしへと往来からの友達のように接するシンは、まるで子供のようだった。ネットの書き込みも姿も口調も。でも見かけより、考え方だけは大人、いいや老人か神様のように早熟していた。

 わたしはこのワインを飲むという楽観さを考えられずに渋い顔をする。

「このワインの価格さえわたしの国で売られているビール一杯より安い。ここでは需要と供給が安定してない、価格破壊が起きていると思った。どうして国民はこんなに安く売るんだろう」

「そうだな」シンもまた渋い顔で物を言った。「人件費が安いということはだな、人の命が安いということを覚えておくといい。そうすりゃ、人っていうのは使い捨ての道具になる。お前らの国では仕事に怪我や病気は付き物っていう考え方をしているか……」

「いいや」

「ここ、いやここはまだマシな方だが、ひどいところでは被爆した場所や化学汚染された沼で働く人がいる。そんな悪環境にいたらどうにかなっちまうのかは当たり前。でもその影響が体に出るのはずいぶんと先だ。早くて三年後くらい。だから、ここで提供されているサービスも価格も全てその場しのぎなのさ。何十年後の将来のことなんか考えている奴はいないし、それ自体を考えるのさえばかばかしいほど生きるのに忙しい」

 シンはそう言った。寝て食って寝る生活。若者は工場で働き、年老いたら草や石だらけの荒れた路地で生活することになるのがほとんど。なぜなら指先さえろくに動かすことも商売をするという高尚な考えを持つこともろくに出来ないから。そういう国に住む人々には、人生に休息は許されず、止まった瞬間に生きるのを諦めなくてはならない死生観がある。それが敗戦国に住む国民の一生であると。

「わたしは新聞記者だ」

 だけどわたしの人生、いわば仕事と言えば、親が出してくれたお金で入学した大学、そこから会社に就職し、経験に合わせて担当科に配属され平凡な記事を書き、寄せ集めの新聞を作っている。

 それがわたしのやりたかった、いやはや憧れていた仕事であった。友達のバシリーは介護に就いたけど性に合わなくてやめて、今では酒場で料理を作っているコックだ。フランクもライバルを実力で蹴落としたりして必死に頑張ってシューティングスポーツの選手になったし、エミリアはもう死んじゃったけど可愛らしい洋服を作る仕事を持っていた。

 わたしたちはその日仕事をするかしないか、さらには選ぶ権利まであり、また仕事を完全に手放してしまう権利を持っている。お金を十分稼いだら、仕事をしなくてもいい贅沢な生き方もある。そうするのが一番だとみんなが思う社会になっている。

「へぇ、それじゃあフックスが俺に会いに来たのは、ジャーナリストの仕事ってこと……」

「ジャーナリストではないよ。少なくともわたしの作っている新聞は地方新聞で伝統行事とか知事の言葉を載せるだけ」

「そうか、ああ」シンはなにかを思い出し「たしかフックスは友人がテロに巻き込まれたと言っていたけど」気付いた。

「君の考えている通りだよ」

 わたしはエミリアを巻き込んだテロを、新聞に載せることになっていた。

 編集長に頭を下げて、エミリアの事をたくさん話して、やっと手に掴んだ仕事だった。

 それはわたしがここに来る前、最後に受けた大仕事で、その日の地方新聞は過去に例を見ない売れ行きだったそうだけど、大半の人はわたしが涙を流して嗚咽を漏らしながら、「銃とは」と題名を付けられた記事を読んだことを知らない。

 こんなことを書いて、こいつはきっと頭がどうかしちまったんだ。そう思う奴の方が多いだろう。

 皆がみんな、銃には賛成なんだから。

「それで」シンは手を挙げて輪タクを呼んだ。それにわたしたちは乗り、さらに誰もいない荒野にある無人駅を目指す。「フックスは何かを変えることが出来たのかな」

「いいや。なにも、なにもかえられないからここまで来た」

 わたしがその記事を新聞に載せても、相変わらずテロは起こり続けた。

 アメリカやドイツ、イギリスにロシア。各地で起きるテロの報道を聞くたびに無力さを感じてしまう。

 わたしの新聞なんて微々たるもので、読まれてもすぐに忘れ去られてしまうんだ。

「じゃあここで変えればいい。俺たちは変えられる。お前一人の力はそんなもんだけど、集まれば点にはなれる」

 それはシンがネットで書き込んでいた文、そのままだった。

「わたしはまだそれに賛同できない」わたしは、シンのきっと生まれつきなのだろう細い目をじっと見つめて言う。「だから見極めさせてもらう。君たちが何をするのか。どこに向かおうとしているのかを」

 それがわたしの旅の目的だった。


 ワインを開けた。

 半日くらいの長い旅だと言われたのだ。

 自国で栽培した葡萄を使ったジョージアの国産ワインはアルコールが少なく甘みが強かった。一言でいえば飲みやすい。かつてここでは紛争が絶えなかったと言うのによくワインなんて――葡萄畑が残っていたと思う。

「そのワインには国連が関与していることを知っているか」

「国連……」

 ここに来る飛行機の中に居たスーツ姿の偉そうな人たち。彼らの中に国際連合に組している人がいたのだろうか、そう考える。

「ハーグ条約というんだが。この国の文化遺産としてジョージア語や宗教などが選ばれた。その内の一つにそのワインだ。戦争が起きた時、国連の人たちは歴史的文化遺産を守るために、その場所を保護区として非武装地帯(DMZ)とはまた違う意味の作戦及び侵入禁止区域(OIZ)にするんだ」

「でも、敵はそんなの気にしないと思うけど」

 その場所にテロ組織が隠れ潜み、在中してたらどうするのだろう、と思う。

「そんなことできないさ、なぜなら葡萄畑はこの国の誇りだから」

 わたしはワインを煽り、シンの言い分を肴に聞き入る。

「この国の文化そのものがワイン、つまりは葡萄畑であり、政府側も反政府側もどちらもそれを大切にしなければならない。そうしなければ、自分たちが政権を支配した後、残る物は何もない」

「つまりは骨折り損のくたびれ儲けな訳だ」

 日本のことわざだ。他国のことわざは記事を書くときによく助かっている。なぜなら行を稼げるし、それが馴染みのない言葉だから意味も書ける。

「そういうこと、まぁそれが戦争が続く理由なわけでもあるのだけれど」

 わたしとシンは地下鉄を乗り継いで、東へ。鉄道に乗って国境を跨いで、さらに車で移動しカスピ海を目指す。わたしがジョージアに来たのは先方の指定だったが、その実は保安上の理由だという。

 最近の東ヨーロッパ情勢は穏やかなもので、それは戦争や飢餓によって人が激減したのが理由だとメディアでは言われていた。

 その中でもジョージアはまだ安全な国で、他の国々は国連の介入も許されない緊張状態なのだいう。

「そこで海上パーティーが開かれるのさ」

「パーティー……」

「カスピ海を囲う国々の政府高官が賄賂や接待をしている場所さ」

「そんなことをしてるのか」

 わたしは唖然として聞いていた。

 カスピ海。そこで、同じ銃規制団体の友が集まって、なにかしらの活動を起こすらしい。

「そこでフックスの見極めたいことも見れるだろうさ」

 シンと出会ってすでに半日、その間はずっと二人きりで、車は運転できない(身体的に小さいから)みたいだけど、シンの方が精神的に年上な気がしてならなかった。

「シンが銃規制団体の一員ってのが信じられないよ」

「子供だからか」

「その通りなんだけど、君は銃以外にも危険な物、経済とか思想とか戦争がどうして起こるのかにとても詳しいじゃないか。とても子供とは思えない」

「それは偏見だな」シンは車窓に目を移し、拗ねた態度をとった。「今の世の中、子供は大人より世の中のことをよくよく理解していると俺は思うけどね」

「どういう事……だって大人は子供より人生経験が長いじゃないか。先生は誰だって大人だろ」

「じゃあ大人が間違っていたら。大人が俺たちに嘘の歴史を教えて、それを正しいものだと勘違いさせられた子供はただの嘘つきなんじゃないか」

「それは……」

 シンが中国語を話す、いや中国人だということに起因している。

 わたしも多くは知らないが、中国では長い歴史の中でたくさんの国にピザのように山分けされて植民地となった歴史がある。しかしそれは焚書して今現在ではなかったこと、もしくは事実が捻じ曲げられより凄惨なものとして憎たらしむ物として伝えられているという。

 では、目の前のこの子供は。シンはどうやって本当の事、正統な歴史を知ったのだろう。

「フックスはキリスト教なんだろう」シンは話題を変えた。

「そうだけど」

 どうやらシンは当てずっぽうに言ったらしい。当たっていたことに勝ち誇ったような笑みを浮かべて、次の言葉を嬉々として自慢げに語る。

「俺はマニ教信者なんだよ。世界中、どこを探しても見つかりやしないから消滅されたと思われている珍しい宗教の出」

「確かに聞いたことはないね」

 わたしは宗教については(キリスト教も含め)あまり関心はないからマニなんてのは初めて聞いた。このジョージアでさえ二、三年前に起きた戦争は宗教の違いによるものだと聞く。ナタリーとの会話にも出てきた通り、宗教とは案外、争いの種になりやすいのかもしれない。

 シンは何も知らないわたしに、分かり易いよう身振り手振り指折りで教えてくれた。

「マニ教はグノーシス主義、キリスト教、仏教。他にも様々な考え方を融合させた特殊な宗教なのさ。他の考え方があってもそれがどういったもので、そしてそれを肯定し取り込んでいったのがマニなんだ。

 そうした中のゾロアスター教の教義に、善と悪の二元論がある。光、善、精神と闇、悪、肉体の二つに分かれるように原理を対立させて明確に分ける教義。これこそが俺の考え方の原点と言っていい」

「善と悪」

「フックスは善と悪を二つに分けて考えてみたことはあるか……」

「さぁ、豚肉と銃とかかな」わたしからしてみれば善は豚肉やビールで、悪は銃だ。豚肉やビールを口にしている時のわたしは幸福な気持ちになるからだ。

 もっとも、これはわたしの思いつきであり、シンが求めた答えではないので、訂正してきた。

「元気と病気、平和と戦争。どちらかといえば矛盾という意味合いが強いこの善と悪が俺たちの普遍であり問題だ」

「それはつまり、善と悪の区別が難しいということ……」

 シンは指を鳴らした。今度は求めた答えだったらしい。まるでクイズの感覚だった。

「元気がいいという事は身体的にも問題なく、ストレスフリーな環境で暮らしていること、反して病気という事は遺伝的な、それか地域的な不幸があって免疫力が低下してるのさ。癌は大抵その状況下で起こる。親は選べないと後者をかわいそうに思うのなら、それは善だ。なぜなら後者は生きるのにさえ必死で前者はまだ頑張れるんだから。そして、平和は」

 シンが黙るのでわたしが続きを言うのだろう。

 わたしが最も知る事柄なのだから。

 わたしの平和は――。

「仕事も食料も満足にあって家族や友人たちと暮らすこと、でもその平和を維持するにはどこかで誰もやろうとしない」わたしは少し考えてから続きを言いあげた。「利益を度外視した仕事が行われている。その仕事を無理やりやらさせるのが戦争だっていう」

 わたしはそう言い切った。

 戦争経済という仕組み。

 テレビやパソコンを見て笑うわたしたち。豚肉やビールを食べて寝るわたしたち。

 わたしたちが今こうして平和な日常を送ってられるのは、どこかで誰かが戦争をしているからだという考え。戦争には武器が必要で、武器を作るには鉄とか火薬などが必要なわけで、鉄とか火薬などは鉱山や鉄工所で生産され、その生産所ではより便利に人を殺せる銃を日々設計、研究されていて、そういった一連の流れにはたくさんのお金が動いてる。そのお金はどこから出てるかと言うとわたしたちの税金だ。防衛費とか軍事予算とかいう体(てい)のいい名目で国は国民から集めたお金で武器を作っている。

 防衛力や抑止力といった名目で。

 わたしたちは人知れず、戦争生活者(グリーンカラー)として戦争を長く続けさせるために、この平和が一日でも長く続くために非常な事に協力しているのだ。

 今日見てきたものがわたしをそう感じさせ、そう決定づけた。

「だから戦争だって悪とは決めつけがたいよな。平和はいくつもの戦争を足場にしてやっと築かれたもんなんだから」

 それがこの国(ジョージア)の平和とも関係しているのだろう。

 アメリカが未曾有の大混乱にある今、中東にある米軍基地はほとんど機能していないのだから。

「平和の国に住んでいる人たちはそういう仕組みに全然気づいていない、もしくは気付いているけど見ないふりをしてるんだろうさ」

 その平和の国に住んでるのがわたしだった。

「その平和がいつどんな時に崩れ落ちるのかなど誰にも予想できない。いや予想したとしてもとても周りまでは救えやしない」

 エミリアのように。

「アメリカの国民はさぞ驚いただろうね。自国で紛争が起きるなんて誰も望んではいないのに起きちまったんだ」

「テロじゃないのか」

 わたしは手もとのワインを飲み切ってしまったのに酔いは冷めていた、というよりむしろ胸糞悪くなってきていた。

「紛争さ。いっぱい、そこらじゅうで人がたくさん死んでるんだから。後々に悲しむだけの余地があり、どんなことが起きたか当事者が生き残っているテロなんてかわいいと思えるほど」

 なぜならこの目の前の少年は、いつまでもすがすがしいほどの笑顔で、戦争のことを楽し気に語ってくるのだから。

 まるで戦争娯楽者だと思う。サイコパス野郎だとも。

「それがわたしの場所でも起きたと」やがて紛争に発展すると。

 エミリアを殺すきっかけを作った犯人は移民だった。アメリカから命からがら逃げ伸びて渡ってきたという人たちの何人か。

 彼らの不満は自分たちを縛るドイツの法律だった。

 通常、移民たちには国の常識や言語を教えなければいけないのだけど、その教育が移民たちに浸透していないと、社会に出た時に馬鹿にされることがしばしばあるのだ。それが彼らの癪(プライド)に障った。

 要はアメリカ人とは。

 世界を守って来た番人であり、英語とはドイツ語を元に進化し洗練された言語であり、我々の方が優れた人種なのであり、優待されるべきなのだという事だった。

「昔から戦争の起きる理由は相も変わらず土地争いなんだとされている――だけどな、俺に言わせてみればそう言い切る奴らが、この世界に生きる大多数の人たちは大抵平和ボケしていて、根本的な問題の事なんかに見向きもしないし興味もない。

 中国と台湾は軍隊も思想さえそもそもが違う国だし、アイルランドはEU加盟国で、イギリスおよび北アイルランド連合王国はEUを離脱する国。イランは絶対王政の国で、サウジアラビアは王を倒して改革した国。火種はそこら中に根付いている。土地や食料なんかとうに狙いから外れている。こういった違いをきちんと区別して、戦争の仕組みや成り立ちを理解するのを諦め、戦争を経済発展の為に盛り上げようとする奴らがいる。そうしないと食っていけない――生きていけない奴らが」

 ドイツも昔は東と西で分かれていた。ベルリンの壁はもうないけれど、国民たちの考え方や風習にはやはりその時の思いが受け継がれてきている。

 かつて虐殺してしまったユダヤ人が住んでいた場所を示す、躓きの石。

 ベルリンも壁に描かれた旧ソ連のブレジネフ書記長と旧東ドイツのホーネッカーの暑苦しいキスの壁画。

 だけども、どうしてユダヤ人と仲が悪かったのかなんて、どうしてベルリンの壁が壊されたのかなんて、冷戦がどうやって終わったのかなんて、理解している人の方が少ない。

 歴史や宗教に興味のない人の数の方が圧倒的に多い世の中なんだ。

「わたしは新聞記者だったからそういった文化情報はある程度理解している。でも、確かに周りの友達なんかは銃なんてものの方に興味を持っていて、それが戦争の道具に使われているなんて考えもしない。だけどみんないい人だ、みんな誰かを殺そうなんて考える訳がない」

 それが悔しかった。ただただ、悔しくてしょうがなかった。それを許せない自分にも腹が立っていた。

 シンはわたしの言葉を聞いて、笑みを消した。抑揚も消した声で言う。

「だから国、人というのは国境や政治や宗教で区切るべきものではなく、広い視野を持った啓蒙思想な者たちが集まって建てるべきものなんだ」

「同じ考え方を持った人たち、国……」

「そうだ」

 車は止まった。気付けば目の前には地平線の彼方まで海と山が広がっている。塩気の強い風が海側からやってきて、西側ではまだ温かい残滓を残す陽が落ちようとしていた。

 カスピ海だ。どうやらここはアゼルバイジャンの首都、バクーに近い港のようで、内地には高層ビル群が軒並み建っている。

 その畔に建てられた木造の宿舎の前でわたしとシンは降ろされた。

「それが俺たちの考え方。無政府主義者(アナキスト)の掲げる思念だ。俗に俺たちは無名の衆(ノーネームグループ)なんて呼ばれている」

「無名の衆……」

 それがシンを含めた組織の名前。無政府と翻訳されたこの主義者たちには、シンの言葉の額面通りだとまるで国から独立しまた新たな国を建てるような意味合いに感じられた。

 つまりは反政府勢力ということなのだろうか。

「フックス」

 車から降りるとシンに名前を呼ばれた。振り向くとその顔には自信が満ち溢れているようだった。まるで自分には一切の悪など無いように、自分の行いが全て誠に正しいというように佇んでいる。

 その後ろ、背後の海には大きな高級クルーザーが泊まっていて、それがシンの言う海上パーティーへの乗り口なのだろう。

「これからお前にこの世界の善と悪を見せてやるよ」

 シンはそう言って、わたしに布地で覆われた手を向けた。

 そこにはなんと、拳銃が握られていた。

 わたしはハッとして身構えたが、よく見るとその銃口はシン自身に向けられていて、引き金には指が掛けられていないかった。

「なんの真似だ」わたしは銃を見せられただけでは動悸は激しくならなかったが、その耳に残る高い音や硝煙の匂いを嗅げば気を失う自信はあった。

「自衛の為さ。これから俺とお前は死地に向かうんだから、お前に死なれちゃ目覚めが悪い」

「銃は、撃てない」

 わたしは情けない声を出していた。撃ち方は分かるがそれを人殺しに使うことはできないと言う意味で言った。

「向けるだけでいいさ、威嚇にもなる。受け取らないならここから来た道を戻って帰れよ」

 シンはそう厳しく言いつけてくる。まるで刃物のように。

 なんだか詐欺にでも遭ったようだった。銃規制団体の元へ集まったと言うのに、銃を握らされるなんて。

 シンは人をいじめているみたいにまた目を細くして笑っていた。馬鹿にしてるようだった。

 クルーザーに乗ったらもう二度と陸には戻れない気がした。何か事件が起きる。銃を渡されるということはそういう可能性があるという事だ。でもそんな仮想をわたしがしてこなかった訳でもない。

 元からこの旅には安全という考えはしていないのだ。わたしはエミリアの死から、この残酷な世界に対する納得できる答えを求めてここまで来ている。

「分かった、でも人は殺さないからな」

 決して引き金を引かない。そう覚悟を決めて、いまだ震えた手でシンの手から拳銃を受け取ると、セーフティが掛かっているかすぐさま確認し、誰にも見られないようコートの内ポケットに隠した。

 シンは納得したように頷いて、クルーザーの方へと歩いていく。その小さくて無防備すぎる後ろ姿に、わたしはある意味で冷や汗を掻いた。

 シンはとてもわたしを信頼しているみたいで、たったの半日しか過ごしていない相手に拳銃を持たせたというのにすぐ後ろを向いた。わたしだったら、とても警戒してそんな迂闊なことは出来やしない。

「それ、弾は入ってないから安心はしろって。空砲は鳴るけど」

 そんなわたしの考えを読み取ったとでもいうタイミングで、シンが笑いを含ませて言う。

 わたしはハトが豆鉄砲をくらったような顔をしながら、シンの後ろへとついて行った。

 クルーザーに近づいていくと、そのデッキには警備やら人やらが集まっていて、前夜祭のごとく騒いでいる。

 まだ本番でもないのにとても楽しそうで賑やかだった。




 追記。

 シンは表面的では純粋な子供でありながら、その実、全くの合理主義者である。彼は少しの油断も見せないし、先を読む能力に長けている。

 そして極めつけは、誰も信用しないことだった。


 無政府主義を掲げる合理主義者たちの国々。

 その全てが環境管理型権力を視野に入れた世界。

 このイデオロギー的思想、政治が今の世を支えている生府(ヴァイガメント)の考え方の根底。

 いわゆる生命主義の礎である。


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