第34話 新しい器

 あの時。

 棚の下敷きになったユミュール先生は負傷したわ。調べたら頭蓋骨にヒビが入っていたみたい。

 そしてヨシュアはあの後。

 紙袋を抱きしめたまま、私の目の前で気を失って倒れた。


 神霊ネママイアがヨシュアの中に入ったのだと、スーゴちゃんを始め、眷属の皆が言った。


 ユミュール先生は病院に運ばれて、ヨシュアはロウレンティア教会に連れて行かれた。

 私は車の中でも、運ばれた教会の部屋でも。寝かされたヨシュアのそばで泣き続けていた。


 だってヨシュアが私を守ってくれたのよ。

 あの時、ネママイアは私を器に定めたのに違いない。

 私の中に入ろうとしたネママイアの盾になって。

 ヨシュアが身代わりになったのよ。


 ヨシュア、ヨシュア。

 どうしてそんなことしたの。

 あなたが器になるなんて。

 誰もそんなこと思ってなかったわよ。

 あなたは仏教徒で。

 マスカダイン教とは全然関係がないじゃない。

 なのにどうして。


 ヨシュアの名前を呼び続けてる私に。

 誰も何も言おうとしなかった。

 私たちを取り囲んで。

 ただ声もなく見守るだけだった。


 この先、ヨシュアは人間じゃなくなるのだそう。この姿のまま、成長せずに。

 ぶどうのマスカダイン以外は食べたり飲んだりすることもなく。

 感情もだんだん乏しくなってまるで人形のように長い年月を過ごすのだと、スーゴちゃんが言った。


 マスカダイン教なんて狂ってるわ。

 人を生贄にするなんて、なんて気持ちの悪いことするの。野蛮過ぎるわよ。


 神霊も。器も。マスカダイン教徒も。


 マスカダイン教なんて最低よ! 人でなし!

 私のヨシュアを返してよ!


 そんなことを叫ぶ私をミゲロさんとポリアンナは蒼白で見つめていた。


 あんたのおじいさんが器になればよかったのよ! 今からでも、ヨシュアと交代しなさいよ!


 ポリアンナに言葉を投げつけたら。

 ポリアンナはポロポロと泣き出した。


 今更、人を器にすることの意味が分かったの? あんたがおじいさんにしようとしてたことはこういうことなのよ!

 馬鹿女! ヨシュアに謝んなさいよ!


 ポリアンナにそう叫びながら私もボロボロと泣いていた。


 ヨシュア、ヨシュア。

 あなたは人間じゃなくなっちゃうの?

 年を取らずに、そのままの姿で。何百年も、人形のように。

 いやよ、ひど過ぎるわよ。


「お嬢。大丈夫だよ」


 大丈夫なわけないじゃない。

 あなただけ、そのままの姿なのよ。

 みんなが老いて。

 あなたのお母さんが死んじゃっても。

 私がおばあさんになっても。

 あなただけは中坊の姿なのよ。


「だから、大丈夫なんだって。俺、器になったんじゃないから」


 ヨシュアの声に、私は我に返って目の前のヨシュアの顔をあわてて見た。

 目を閉じていたヨシュアの目がいつの間にか開いていて。

 声を失った私の顔をヨシュアは覗き込んで笑った。


「ヨシュア」

「勘違いしてたのかな。みんな。俺、ネママイアから欠片をもらって今まで『試練』を受けてたんだ。今、終わった。成功だよ」



 * * *



「しれん?」

「うん、試練。ネママイアは受けさせてくれたんだ。力の欠片を俺にくれた」


 そう答えるヨシュアに。

 私はしばらく口をぽかんと開けて。

 それからまたポロポロと涙が出た。


「ああ、だから泣かなくていいって。成功したのに。なんで泣くの、お嬢」


 だって嬉しいんだもの。

 これは嬉し泣きだもの。しょうがないじゃない。


「成功……死霊はもう離れたの?」

「うん」


 すっきりと目覚めたヨシュアはいつもよりはるかに元気そうだった。

 よかったわね。これからは眠くなくなるわね。


「……あ、ミミズ腫れはどうなったのかな」


 は、としたようにヨシュアは私の目の前であわてて着ているジャージのズボンを引っ張って自らを覗き込んだ。


「うん、全快。ちょっと元気。よかったよかった」


 ……やめてよ。少し見えちゃったでしょ。


「『試練』を受けていただと……? なら、今、ネママイア様はどちらに」


 問うミゲロさんに、


「スーゴたちが勘違いするのも無理ないと思うよ。俺、これをずっと抱きしめてたままだったから。だから間違っちゃったんだろうな」


 ヨシュアは胸の前に抱いていた紙袋を指す。


「間違えた?」

「うん。えぇと……ネママイアはこの中」


 そう言って、ヨシュアは紙袋をミゲロさんに気まずそうに差し出した。


 ミゲロさんはそれを奪い取るようにして受け取ったわ。

 すぐに袋の中身をのぞいたあと。

 ミゲロさんの周りの空気が一変した。


「……貴様、なんということをしてくれた」


 地の底を這うような、暗い震え声。

 うわあ。ミゲロさんが本気で怒ってるわ。


「……ふざけるなよ、日系人」

「えっと、これはほんとすみません」

「どれほど我らをコケにすれば気に済む!」

「すみません、すみません。ほんとすみませんでした。でも、不可抗力で」


 ヨシュアが平謝りしてる。珍しく本気で謝罪してるわ。

 一体、何をしたのよ。


「お前とは今日を限りに縁を切らせてもらう。二度と教会と私に近づくな!」

「いやいや、そんな。ミゲロさん」

「ふざけるな! ガキのくせに、何回も教会と私に脅しをかけやがって……! 私たちに恨みでもあるのか!」


 ……ちょっとヨシュア。

 私はそのミゲロさんの言葉にやっと真実が分かった。


 なによ、もしかして。

 あなた、ミゲロおじさまを強請ってたの?


 教会に口止め料をもらったんじゃなくて、ヨシュアが教会、ミゲロさんを強請っていた。

 そういうことだったのね。


「ねえ、お願い。これだけ。あともうひとつお願い、ミゲロさん。俺、危うく試練を受けられずに死ぬところだったんだからさ」


 ミゲロさんに胸ぐらをつかまれながら、ヨシュアはへらり、と返す。


「この間の金で話はついたはずだろう! 一体、いくらせびる気だ!」


 どれほどお金をもらったのよ。ヨシュア。


「最後の最後。これで終わりにするから。俺も試練受けたし、器も帰ってきたし、これできれいさっぱり関係は清算」

「これ以上、何の望みがあるというんだ、貴様は!」

「学費」


ヨシュアはヘラヘラしてた顔を急に引き締めた。


「いや、マスカダイン学園高等部に俺を特別に入れさせて」

「……進学?」


 ミゲロさんが手を緩めた。


「俺、このまま高等部に行きたいんだ。本当は就職するか、公立にいくべきなんだろうけどさ。どうしても、このままあの学校の高等部に行きたい」


*  *


 私はヨシュアと中学を卒業したら、離れると思っていたわ。

 高等部じゃ一気に学費は跳ね上がるもの。今までの中等部でもヨシュアはギリギリだったのよ。


「お願いだよ。それで終わり。貧困家庭の子供に愛の手を」


 マスカダイン学園の母体はマスカダイン教会よ。


「本当に。それで終わりだな」


 ミゲロさんが顔をしかめつつも、突き放すようにしてヨシュアから手を離した。


「うん、だって強請るネタがもうなくなっちゃったからね。いや、これから全てなくなるんだな」

「どういう意味だ」


 眉をひそめるミゲロさんにヨシュアはコホン、と軽く咳払いして、片眉と口の片端を上げると、足下の袋を覗き込んだ。


「ねえミゲロさん。ネママイア様が入った『人形』だけど。日本じゃ、この『人形』にいろいろ意味があるんだよ」


 人形?

 その袋に入ってるのは人形だったの?

 新しい器はどんなものになったのかしら。

 この前はスイス製の時計細工の人形だったけど。


 興味を持って、ヨシュアの横で袋の中を覗き込んだ私は。


 絶句した。


 これは。

 見覚えがあったわ。


 この緑の。

 ふざけた。

 卑猥なぬいぐるみは。


 私はミゲロさんが嘆いた理由が分かって、長く嘆息した。


 

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