第9話 兄と妹
『動かないで』
母の目がそう言っている。
少年は男が乗っている目の前の母を見つめた。
背後のグレートルイス兵に取り押さえられた少年は全てが終わるのを見ていたのだ。
村へと帰る途中だったキエスタ人親子の前に現れたグレートルイス兵たち。
彼らは少年から母親を引き剝がし、母親を引き倒して代わる代わる犯した。
グレートルイス兵が去った後、母は少年を抱きしめて告げた。
『今、見たことは忘れなさい。誰にも言わないで、ポポ』
細い母の身体を蟻が這い回っていた。
少年が忘れられるわけがなかった。
* * *
月日が経って母親は赤子を産んだ。
赤子はキエスタ人ではなかった。
肌は明るく、顔立ちはキエスタ民族とは異なっていたが、とても可愛い赤ちゃんだった。
赤子を見て性別を確認するなり、族長は即座に赤子を森の精霊に返すように言いわたした。
ポポたち『緑の目を持つ人々』は元は森の民である。
キエスタ民族のうちでも変わった風習を持つことで有名だった。
族長の気に入らない女の赤子は森の中に捨て置き、精霊に捧げる掟があった。
産まれたのが男であれば、毛色の違う弟としてそれでも一族に受け入れられただろう。
けれども、母が産んだのは妹だった。
母はこわばった表情で抱いていた妹を父に渡し、父は躊躇いもなく族長の手に妹を渡した。
何か言おうとしたポポに、
『あの子は森の精霊だったのさ。間違って人間の子に生まれてしまったんだよ。だから森に返すだけさ』
祖母が肩を押さえつけてそう言い聞かせた。
一刻後、族長たち一行は手ぶらで森から帰ってきた。
母も父も祖母も、誰もがもう何も言わなかった。
最初から妹の存在は無かったかのように。
ポポは森の中に一人、かけ走った。
妹は捨てられたのだ。
あんなに小さいのに。
妹は何もしていないのに。
妹は悪くないのに!
絡み合うなよやかな木々が生い茂る密林に向かってポポは叫んだ。
『お願い、妹を返して!』
ポポを嘲笑うかのように、鳥がけたたましい声をあげた。
森はどんどん深くなり、通せんぼをするように木々は意地悪くポポの前に立ちはだかる。
『妹を返して!』
うきき。
手の長い、赤毛で覆われた『森の人』が木の上からそんなポポを見下ろした。
目が合ったポポから逃げようとせずに、じっとポポを見つめる。
「森の人」の心を感じて、ポポはすがる思いで問いかけた。
『妹が何処にいるか知ってるの?』
歯をむき出しにして、森の人は返事した。
『教えて。妹は何処にいるの?』
うきき。
長い指で捕まった枝にぶら下がり、森の人は何度か木の上で跳ねたあと、くるりと背を向けた。
『待って!』
ポポはその後ろすがたを夢中で追いかける。
森の人は木を飛び移ったり、地面に降りて走ったりして、どんどんとポポを奥へと誘う。
枝の先がポポの身体を傷つけ、痛めつけたが、ポポは森の人になんとかついて走った。
きゃっ、きゃっ、きゃっ。
森の人が突然立ち止まり、鳴いて歯をむき出しにした。
追いついたポポが辺りを見回すと、倒れた木の上に蝶の大群が群がっているのが見えた。
鮮やかな深い空の色、煌めく夜空の色、白と黒のまだら模様の羽。
それらの美しい蝶が渦を描くように回り飛び、その真下に布に包まれた何かがあった。
見慣れたポポの妹の縞模様のおくるみ。
『僕の妹だ!』
ポポは蝶の中に飛び込んだ。
やめて。連れて行かないで。
妹が森の精霊に取られてしまう。
『返して! 取らないで 森の精! 僕の妹だ!』
竜巻のようにポポを襲う蝶の大群を振り払い、ポポはその中心からおくるみに包まれた赤子を抱き上げる。
『僕の妹なんだ! 僕の妹だ!』
目を閉じている妹を抱きしめ、ポポは全身で叫んだ。
さあ、とポポの頰を、耳を、手を、脛を蝶の羽がさすっていく。
『僕の。妹だ』
蝶の羽が肌に触れなくなったのを感じてから、ポポは目を開けた。
そこには蝶の姿は一匹もなく消え失せ、ポポと目を開けた妹がいるだけだった。
『……ミナ』
美しい青緑色の瞳。
ポポは妹のその瞳の色が大好きだった。
にやあ、と自分を見上げて微笑む腕の中の幼い妹の。
その柔らかな頰にポポは自分の頰を擦り付けて優しく抱きしめた。
* * * * *
「何の夢見てたの、ボス」
目を開けると、全裸のシアンが温かな身体を寄せ男を見下ろしていた。
北の国ゼルダ産の真白な肌と真っ黒な瞳、同じく真っ黒な短い髪。
妖精を思わせる愛らしく美しい顔に男は手を伸ばし、その頰に触れる。
「昔の。妹の夢だ」
「ミナちゃん?」
明るい声で返す彼女の短い髪をすくようにして手を入れ、しばらく男は猫の毛を撫でるかのようにしていたがやがて口を開いた。
「……シアン」
「なあに」
「お前を。俺の母と同じ目に遭わせた」
彼女の反応を見るために男は息を止めて彼女を見つめる。
シアンは驚いたように目をやや大きくした後、ふふ、と目を細めて笑った。
「……なんのこと?」
男の無数の傷跡がついた浅黒い胸肌にその綺麗な顎をのせ、シアンは微笑む。
「オレ、忘れっぽいんだ」
そのまま、唇を寄せて胸に吸い付くシアンに腕を回し、男は彼女の温かさを感じながら天井を見つめた。
自分の情婦である彼女は。
他人が傷つくらいなら自分が被害者になることも厭わず、また、自らが被害者であることを否定するような女性だ。
好きな男を助けるために十人の男と進んで寝た女神ネーデのように。
卑怯だと思う。
そんな彼女の性質を分かっていて、発言した。
彼女が自分を許すことを知っていて。
彼女は全てを許す女性だから。
その優しさに自分はこの先もずっと甘んじるのだ。
加害者であるこの自分さえ傷つけまいとするその奇跡の慈愛に。
彼女を傷つけた時から、胸にくすぶる罪悪感。
後悔しつつ、男はいつも彼女を懸命に優しく抱く。
彼女を傷つけた事実を消し去ろうとでもするように。決して消えはしないのに。
「……もう1回、する?」
優しく笑みをたたえて見上げる彼女に。
ポポはその唇を大きく自身の唇で覆うと、最近付いてきた彼女の柔らかな腰肉に手を伸ばし、やんわりとつまんだ。
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