第7話 夜景
私は。
息をひそめるように生きている。
* * * * *
彼が去るのを見送るために、私はその背中についていく。
ドアのところで振り返った彼は、いつものように私をもう一度抱きしめる。
私は彼に腕を回して応え、彼の背中が温かい、といつも思う。
離れたときは一瞬の淋しさが身を切るけれど。
それだけだ。
私は手を振って微笑み。
彼は、じゃあまた、と告げる。
そして彼は、妻と五人の子供が待つ家へと帰る。
週末明けの夜。
彼と私の邂逅する秘められた時間。
仕事の話とともに夕食を終えたあと、彼は私を抱き、そして帰宅する。
ここ一年それが繰り返し続いている。
それが私と彼の関係。
彼を見送った私はそっと別室の娘の部屋を覗く。
十になる娘はいつも穏やかな顔で眠りについている。
娘を産んだのは十九歳の時だった。
娘の父親は今はどうしているのだろうか。
相手はメイドとして仕えた先の家の主人だった。
ど田舎から出てきた
そう、言えればいいけれど。
そんなことはなかった。
私も。彼も。
楽しんだ。
ハンサムな主人だった。
その行為を続ければ何が起こるかなんてことは分かっていた。
だから、彼の妻に関係がばれ、怒り狂う彼女に着の身着のままの腹ボテで放り出されるなんてことも見えない未来ではなかったし。
キエスタ人の女として自分の人生が終わったことも承知していた。
キエスタでは未婚で子を産んだ女に未来はない。縁談なぞもう来ない。
そのような女は家族の恥として、一生生家で閉じこもり、その後の人生を惨めに送るのだ。
すべて自分の選択であり。
自分の犯した過ちの結果。
納得している。
けれど。一つ、悔やむのは。
デイー。
すぐ下の私の弟。
あの時、弟にすべてを押し付けた。
グレートルイスに出稼ぎに行った弟に自分を含め、両親、弟、妹たち家族の命運をその背に負わせたのだ。
デイー。
あなたは今。
どうしているの……?
あのあと、しばらくしてデイーからまとまった金が届いた。おかげで自分たち家族は路頭に迷わずに済んだが、それきりデイーとは連絡が途絶えた。
毎月、安定した金額だけがこちらに送金されてくる。
この十年。
もう、いいのよ。お金の心配は要らない。
キエスタに帰ってきてほしい。
どんな仕事をしているの。
並みのキエスタ人労働者が送れる金額じゃない。あの金額についての理由を考えたくない。
* * * * *
三年前、私の生活も一変した。
家から出て働きなさい、と南部女にしては革新的なことを私に告げた母の言葉どおり。
家の中で息を潜めるようにしてただ生きていた私は母に娘を預け、小さな新聞社で働き始めた。
その先で上司として出会ったのが先ほど別れた彼だ。
彼は私が隠れるようにして細々と書きためていた小説に目を止めて読み、それを絶賛した。
そして彼が私の小説を陽の下に晒した。
私とメイドとして仕えた主人との関係をもとにして綴った話は、キエスタ中に嵐を起こした。
その内容は抑圧されていたキエスタ女の心を揺さぶったのだ。
飛ぶように本は売れ、また一方で本はあちこちで焼かれた。
その内容の過激さが南部男の逆鱗に触れたのだ。
だから。
私は今もまた、息をひそめるように生きている。
この集合住宅の一室で。
素性の知れない女流作家として。
外には出ない。
娘の学校の送迎はシッターに頼み、食料や生活必需品はこの部屋にまで運んでもらっている。
家の中でひっそりと。
まるで殻にこもる蝸牛のように。
たまに来る彼と仕事をし、そのあと彼とささやかな息抜きを楽しむ。
そして静寂の日々をまた繰り返す。
何故なら、怒りに任せた南部男にいつ酸をかけられるか分からないから。
これが私の選んだ人生。
後悔はしていない。
「デイー」
私は呟き、窓辺に近づいて高層マンションの下に広がるオデッサの夜景を見下ろす。
ガラスに映った長身細身の褐色女の向こう側には、様々な色の光が宝石箱にも似て、ゴチャゴチャに詰め込まれていた。
グレートルイスの街もこんな風景なのかしら。この光の中にあなたは今も一人で生きているのかしら。
願わくば。
あなたがあなた自身の意志のもとで、生活を送っているように。
どうか他人のための犠牲とならぬように。
姉は滑らかな形の良い褐色の額をガラスに押し付け、生き別れた異国の弟に想いを馳せた。
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