第6話 オデッサの市立図書館
「絶対、あの司書さんの顔を知ってるんだよな」
ナジェールはすっきりしないような歯がゆいような感じで悔しそうに僕に言った。
「本人に聞いてみたら?」
机に行儀悪く寝そべった姿勢のナジェールに、僕はため息をついてそう返す。
こんな感じで。
ナジェールはいつも休憩してばかりで全然勉強していないのに、試験では一番の点数をはじき出す。
僕は心の奥でそんなナジェールをやっかんだ。
「うん、お前も来いよ」
有無を言わさず、勉強する僕の手をひいてナジェールは立ち上がった。
僕はあきらめて鉛筆を離し、座っていた椅子から立つと彼の後をついて行った。
ナジェールは強そうで偉そうだけれど、決して一人で行動出来ない。
でもそれは僕も同じで。
過去に南部少年兵だった僕たちの、直ることのないクセのようなものだった。
「ナシェ、お前が声かけて」
でも、ナジェールよりも僕の方がまだマシかもしれない。
ナジェールは初対面の人には自分から声をかける勇気がない。
僕はいつも彼に頼まれて、最初の第一声をいろんな人にかけることになった。
「あの、すみません」
本を棚に戻していた背の高い男の人が僕を見下ろした。
「はい」
外国人から見ると、とてもハンサムなひとだ。
南部の血が入っているのだろうと思う。
南部人の小さくて、細面の顔は隣のグレートルイスの女の人たちにはすごくもてはやされる。
昔はこのキエスタではこんな顔立ちは全然、流行らなかったんだけれども。
最近ではキエスタでもこんなタイプの男の人がモテるようになってきたらしい。
男臭くない、のがいいんだそうだ。わけわかんないよ。
「貴方は昔、グレートルイスに居たことがありますか?」
「いいえ。私はこの国を出たことはありません」
僕が聞くと、司書のお兄さんはそう首を振ってこたえた。
安心したのか、後ろにいたナジェールが僕の前に出てきて言った。
「昔、俺、グレートルイスに居たことがあるんです。そのとき、貴方とそっくりの人を見たんだ」
いきなり、司書のお兄さんの顔つきが変わった。
「その人を見たのはいつですか、どこですか」
お兄さんは真剣にナジェールに問い始めた。
「彼の名前はデイーと言いませんでしたか。私には兄が一人います。兄は十二年前、グレートルイスに出稼ぎに行ったきり帰って来ない。毎月、仕送りだけは今でも届きます。兄のおかげで私も妹たちもくいっぱぐれず、学校にも行けたし、仕事にも就けた」
ナジェールの目が一瞬泳いで、迷うような色がその顔に浮かんだ。
「兄に会ってお礼を言いたい。もう仕送りはいいと言いたいのです。戻ってきてほしい。家長の座は兄のために空けてあるんです。その人のことを詳しく教えてくださいませんか」
「あー、いや……多分、その人は貴方のお兄さんではないと思います」
ナジェールは口ごもりながらその言葉を伝えた。
「デイーという名前でもなかったし」
「名前は変えたのかもしれない。背丈はどうですか、私ぐらいではありませんでしたか」
「いや……身長は低かったです」
「……そうですか」
司書のお兄さんは落胆した面持ちでつぶやいた。
「では顔の似た別人ですね。兄は僕以上に背が高かった。私たちは北の方の生まれでして、大柄なヤソ人系統なんです」
「北の方の人なんですか? 顔から見て、絶対に南部系だと思ってました」
ナジェールがそう言って、僕も少し驚いた。
どう見たって、お兄さんの顔立ちは南部の血が入ってる。
「母が南部の人間でね。……さらい婚です」
お兄さんは綺麗な形の眉毛をすこし吊り上げて苦笑した。
「さらい婚! ど田舎出身なんだね、お兄さん」
ナジェールが大きい声で笑って、親し気に話しかけ続ける。
「俺たちも同じ、同じ。ど田舎。北部のケダン山脈に近いところ。病院行くまで、五時間」
「ああ、いい勝負だね」
相手に少しでも気を許せば、急速に馴れ馴れしくする。それが、ナジェールと僕の特徴であって、少年兵あがりの特徴の一部なんだと、僕はどこかで聞いていた。
「すっごく田舎から来た人なのね、みんな」
くすくす、と少し離れたところから机に座っている女のコが僕たちを見て笑った。
女の子二人組で笑っているのはそのうちの一人。
ジャラジャラとすごい量の耳飾りや、腕輪や、首輪をつけているから生粋の西部人なんだろう。
その隣の女の子は黒い民族衣装を頭からすっぽりと被っていた。顔だけは出ているから、東部出身の子なんだろう。南部の女の子なら顔すら見えない。
東部の女の子はふっくらとやわらかそうな頬っぺたをした子で、隣の派手な女の子をたしなめていた。
「田舎者のどこが悪いんだよ」
ナジェールは怒ったようにその西部の女の子に声を飛ばした。
女の子はクスクス笑うだけで、答えない。
その女の子は僕たちと顔見知りだった。話したことはないけど、よく図書館で見かける。
近くの女学校の子なんだろう。
キエスタでは男女は学校が別で、お互いを見る機会なんて男女が共有できる図書館ぐらいしかなかった。
実をいうと、男たちの中には女の子と知り合いたくて図書館に来る奴らが多い。
僕はうすうす気づいていた。
この女の子はナジェールに気があるんだ。だから気を引きたくてたまらないんだと思う。
よくコソコソと女の子たち同士で話して、僕たち、いや、ナジェールのことを見つめていることがある。
ナジェールはモテる。
ナジェールはキエスタ人とグレートルイス人のハーフだけれど、それがいい具合にかみ合っていて、すごく彫りが深くて男っぽい顔立ちをしている。正統派の男前だ。
反対に僕は目も鼻も口もどれもはっきりとしない、平凡な顔立ちだ。僕もキエスタ人と外国人の混血なんだけど、肌も目の色も名前もナジェールと似ているのに、なぜこうも違うのか。
女の子たちを眺めていたら、東部の女の子が僕の方を見て、にこりと笑った。
ふんわりした、とてもかわいい笑顔だった。
僕はあわてて目をそらした。
「戻ろうぜ、ナシェ」
気を悪くしたナジェールは僕の手を引き、席に戻ることを促した。
頷いて、歩き出そうとした瞬間、僕はちらりと女の子を見た。
もう東部の女の子は僕たちの方を見ていなかった。隣の女の子と話していた。
さっきとは違って、机の上に置いてある女の子の手首が民族衣装の袖から見えていて、腕輪が少し食い込んでいるのが分かった。
服の上からじゃ分からないけど、きっと、ぽっちゃりしたとても柔らかい身体なんだろう。
「やべえよ。俺が知ってるのは、あの司書の人の兄貴本人だよ」
先を歩いていたナジェールが振り返って僕に耳打ちした。
「え。じゃあなぜ、教えてあげないんだよ」
「名前、聞いて急にはっきり思い出した。カタギの人間じゃない人だったんだよ、あの人のお兄さん。俺が会ったころにそうだったから、今じゃきっともっとひでえ極悪人になってる。だから、故郷に戻ってこないんだよ。……そういうことだから言わないほうがいいよな。本当のこと教えないほうがいいだろ」
「カタギじゃないって?」
「ファミリーだよ、ファミリー」
「……」
昔も今も、グレートルイスで強いキエスタ人というのは表舞台に立てない仕事をしているキエスタ人だ。
僕とナジェールがもとの机に座ると、ナジェールはあっという間に勉強に集中しだす。
これがナジェールの特徴だ。
一度集中しだしたら、止まらなくて、もう話しかけても聞こえない。
僕は勉強を始める気にはならず、ぼんやりとさっきの女の子を眺めた。
並んだ三列向こうの机に、僕から見て斜め右方向に居る。
* * *
『先生、僕は女の子を好きになっていいんでしょうか』
僕は、このオデッサの学校に進学するために、生まれ育ったケダン教会を発つ最後の夜のことを思い出した。
お別れの挨拶をするために先生の部屋で少し話したあと、僕が最後にそう質問するとランプの灯りの中で先生は微笑んだ。
『ナシェ、君は私と同じで。好きな女性と結ばれることは難しいかもしれない。生涯を共にできる女性とは巡り会えないかもしれない。それでも』
先生は僕の頭を引き寄せて、先生の額と僕の額をくっつき合わせた。
『恋は素晴らしい』
* * *
本当に。
僕の隣がナジェールじゃなくて女の子になるときがいつか来るんだろうか。
先生のように幸せな気持ちを僕も感じることができるんだろうか。
そのせいで苦しくなっても、それを上回る幸福に辿り着くことができるんだろうか。
先生のパートナーのように並外れた美女なんて言わない。小柄で可愛らしい……。
黒の民族衣装を着た女の子が顔を上げてこっちを見た。
――誰かが僕の心にガラス玉を投げつけた!
僕はまたあわてて机の上に目を落として、勉強するふりをした。
素敵なものが一瞬で砕けて、破片がキラキラと僕の心の中で飛び散ったのを感じた。
――例えば。
あんな女の子のような。
動悸がおさまらなくて上を仰ぎ見ると。
市立図書館のステンドグラスの天井からは、僕の心と良く似たような美しい光が降り注いでいて。
僕はその光の洪水の中に身を浸し、目を細めた。
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