第4話 猫と秘密のお店

「旦那さんの猫」がいなくなってしまった。


 お兄ちゃんに、探してこい、と言われた僕はそのとおり家の前の通りに駆け出していった。


 ここはキエスタ西部の首都オデッサ。

 別名、猫の楽園。

 猫なら何処にでもいっぱい居る。

 何故なら猫は「女神ネーデ」の化身だから。

 西部では聖なる動物なんだ。


 隣のアパートの中庭に五、六匹。ちがう。

 蔓薔薇つるばらが這う鉄格子の上にも二匹。ちがう。

 横目で素早く猫たちを見定めながら僕は走る。

 どこに行ったんだろう。いなくなったと思ったら「旦那さんの猫」はいつもふいと帰ってくる。

 どこにいるのか気にしたことないけど、遠いところには行ってないよね。

 石畳の道を渡って僕はいろんなお店の連なる商店街に入った。


 魚屋さんで大きな一匹を奪い合っている二匹の猫。

 生地や糸を売るお店で、毛糸玉とじゃれあっている子猫。

 玩具屋さんで動くおもちゃに警戒したあと、鳴き声をあげて飛びかかる猫。

 西部の派手な女の人の民族衣装を売っているお店は閑古鳥で、たくさん刺繍を施した衣装の上に猫が団子になって昼寝している。気持ち良さそうだけど、売り物なのにいいのかな。

 最近は外国の服を着る人が多くなって、民族衣装のお店は流行らないんだって。


 店先に置いてある水盆の中の金魚を狙っている猫が茶色の毛で「旦那さんの猫」とよく似ていたけど、違った。

「旦那さんの猫」は片脚が曲がってるんだ。

 よく似た猫は水盆に足を突っ込んだけど、パシャ、と顔に水が跳ねてあわてて水盆から飛び退いた。


 猫、猫、猫。

 何処を見ても猫だらけ。

 西部では誰も猫に手出しを出来ないから、猫たちはやりたい放題なんだ。


 あ。見つけた。

 商店街の裏路地に、脚の曲がった茶色い「旦那さんの猫」がしっぽを立てて入っていくのが見えた。

 後を追って路地に入った僕は立ち竦んだ。


『男子、コノ先入ルベカラズ』


 立てかけてある看板にぎょ、としたんだ。

 お兄ちゃんが、男はここに入ってはいけないと書いてあるんだと僕に前に言った。


 そうだ。ここは秘密のお店が並んでるんだった。

 綺麗なお姉さんがいつもたくさんこの路地に入っては袋をさげて出て行く。

 お隣のお姉さんは、あそこは女の子の秘密のお買い物をする場所なのよ、と僕に教えてくれた。


 僕のお母さんはこの路地には決して入らない。僕を連れて買い物するときも、この路地の前では繋いでいる手に力を込めてさっさと通り過ぎるんだ。

 いつかご飯を食べている時にお父さんが、あの路地の店で買わないのか、てお母さんに聞いたことがあった。

 お母さんは眉を釣り上げて、ふしだらな、とお父さんに怒鳴った。

 お父さんはしょげて謝っていたっけ。

 お母さんはもとは東部の人間だから「カタい」んだって。お兄ちゃんが言っていた。


「旦那さんの猫」はつい、と折れてひとつの店に入って行った。外から店の中が見えないように垂らしてある布の間をすり抜けた「旦那さんの猫」を僕はあわてて追った。

 路地にいる女の人たちは誰も僕のことを気にしていない。

 僕は男だけどまだ子供だから良いのかな。

 そう思うことにして、僕は「旦那さんの猫」が入ったお店に布をくぐるようにして飛び込んだ。

 そして、立ち尽くした。


 うわあ。


 ぱんつ、ぱんつ、ぱんつ。

 ぶらじゃー、ぶらじゃー、ぶらじゃー。


 天井から壁からいっぱい、ブラジャーとパンツがぶら下がっていた。

 まるで、海辺で見たイカやタコの干物みたい。

 棚にはパンツとブラジャーがミルクレープみたいに積み重なっている。

 いろんな色のパンツが一度に襲ってきて、僕は目がチカチカしちゃった。


 お母さんのブラジャーやパンツと全然違うや。

 お母さんのは大きなお尻がすっぽり入るようにずっと大きなパンツで、色は薄い茶色か薄いピンクしかないもの。


 紐みたいにものすごく細くて小さいパンツ。

 びっくりするような色の濃い赤、ピンク、紫、青、黒のパンツ。

 動物の毛皮みたいなパンツ。

 薔薇の花が刺繍してあるパンツ。

 ひらひらした透けた布が重ねてあるパンツ。

 キラキラした玉やリボンが縫い付けてあるパンツ。


 なんて綺麗なんだろう。

 そしてなんていっぱいなんだろう。

 パンツに僕は埋もれちゃいそうだ。


 迫力にびっくりした僕を置いて、猫は店の奥に駆けて行った。

 試着する所なんだろう。

 カーテンで覆われた秘密の空間に旦那さんの猫はするりと入った。

 ああ、どうしよう。中にいる人が出てくるのを待つしかないや。

 試着室には二人の女の人がいるみたいでおしゃべりしていた。


「もうすぐ乳離れさせるから、またしぼむと思うんだ。ワンサイズ小さいのを買う」

「そうですねえ。残念だけど、萎んじゃうわねえ」

「キエスタでこんな下着が買えると思わなかった。嬉しい」

「キエスタでもこの西部だけは女性の衣服に昔からおおらかなんです。民族衣装の下は何を着てもいい、て決まってますの。大昔から、西部の女だけは見えないお洒落を楽しんできたのですよ。大戦後はグレートルイスから輸入してね」

「東部や南部の女たちにこそ、この下着を売ればいいと思うんだ。あんな真っ黒なつまんない服。下着だけでもこんな下着をつけられたらいいのに。男だって、あの黒い民族衣装の下がこんな下着かもしれないと考えたら、かえって興奮するんじゃないか」

「ああ、殿方の気持ちを分かってらっしゃいますわね。私たちもそう思って機をうかがってますのよ。実は私の妹が東部に店を出したのですけどねえ。まだまだ風当たりが厳しいそうですわ。南部は残念ですが東部よりもはるかに先の話になるでしょうね」

「……どうしようかな、私は原色やアニマル柄が可愛くて好きなんだ。でも夫はつまんない白いレースの下着の方が好みなんだ」

「ああ、殿方ってそんな方が多いですよ。本当につまんないわよねえ」


 ころころ、とお店の女の人が大きな声で笑うのが聞こえる。


「うーん、やっぱりさっきの紫の総レースも気になるな」

「どこの棚のどのへんに置いてありました? とってきますよ」

「いいよ、私がとってきた方が早い」


 シャ、と目の前のカーテンがいきなり開いた。


 うわあ。


 僕はジーンズをはいただけの女の人と鉢合わせしちゃった。

 肌が白いから外国の人かな。

 馬みたいな茶色をした長いまっすぐな髪の毛。少しつりあがった大きな灰色の目。

 そして、白くてピンクでまあるくてつんとした大きなふたつのおっぱい。


 なんて綺麗な女の人なんだろう。こんな人、テレビでも見たことないよ。

 女神ネーデはこんな女の人かもしれない。


 女の人はすぐ前で突っ立っていた僕にびっくりしたように目を見開いて見下ろしていたけど。

 すぐに微笑んで低い声でこう言った。


「見たな」


 僕はあわてて女の人の足元から出てきた「旦那さんの猫」を抱き上げると、逃げ出した。


「こら! 子供でも男は入ってきちゃだめよ!」


 お店の人の声が後ろからする。

 あわてて、走って、走って。僕は転がるように走ってその路地から出た。

 心臓がどきどきして、はあはあしながら「旦那さんの猫」を肩にのせて商店街を歩いていると。

 前からお兄ちゃんと背の高いお坊さんが来た。


「ああ、居た居た。ヴィンセントさん、弟が見つけました」


 お兄ちゃんが僕に手招きする。


「ありがとう、見つけてくれたんだね」


 僕にお礼を言った枯草色のお坊さんの服を着た男の人はものすごく背が高かった。

 テレビで出てきそうな人だな。

 僕を微笑んで見下ろす男の人の顔を見上げて、僕は「旦那さんの猫」を手渡した。


「旦那さんによろしくお願いします」

「また手紙を預かってくるよ」


 お兄ちゃんとその男の人が話すのを見守りながら僕は、男の人のかっこよさに少し見惚れていた。だって、すごくかっこよかったんだ。

 でも次の瞬間、僕の後ろから走ってきて男の人に抱きついた女の人に僕はびっくりしてしまった。


「キース! だめだ、選べない! もう少し、ここに居させて」


 だって。そう言った女の人は、さっき僕がおっぱいを見ちゃった女の人だったから。


「ゆっくり選びなさい。いいよ、シアンは私が見ておくから。予算の範囲内で頼む」

「ありがとう、そうする」


 今はTシャツを上に着ている女の人は男の人に抱きついたまま、僕に気づいたように見下ろした。

 何か言われるのかと思って、どきん、としたけど。

 女の人はさっきみたいに微笑んで眉を少し上げただけだった。

 ああ、この女の人は猫みたいな目をしている。

 だから女神ネーデだと思ったのかな。

 女神ネーデは猫に姿を変えるんだ。

 なら、抱きつかれているかっこいい男の人はラミレス神かも。

 ラミレスとネーデは夫婦神だから。


 ラミレス神の男の人の肩に「旦那さんの猫」はよじのぼると、にゃあと鳴いた。

 そして僕と女の人を交互に見つめると、もう一度にゃあ、と鳴いた。



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