第2話 さらい婚
誘ったのは女の目、だったと思う。
女はあの時については何も触れないし、自分も語るような男ではないので、子供たちにはざっとしたことしか話していないが。
十八になった折、自分は父から譲り受けたトラックで遠出をし、その先であるバザールに寄った。
その露店で、もう何を買ったのかも今は覚えてないが。
釣銭を渡す時に自分の手に触れた店の女の手。
ひどく冷たく、そして白かった。
全身黒衣で覆われた女の身体の唯一目にした部分があまりにも白かったので、驚いたのを覚えている。
南部民の肌は浅黒いと聞いていたが、話と全然違うではないか。
自分の住む北部の女の方が、これに比べるとよほど黒い。
目が眩むような白さに思わず女の顔を見れば、女は透かし編みの布を隔てて自分の顔を見返した。
あの時に女の全てが自分に流れ込んできたように思う。
一瞬のことだったが、直後からその女が非常に気になり始めた。
釣銭を受け取って店の前から離れたものの、向かいの露店の二つ隣の店で、煙草をふかしながらその女を見ていた。
女は甲斐甲斐しく立ち回っていたが、やがて片割れの女を残して、店の裏へと姿を消した。
自分は煙草を投げ捨てて女の後をつけた。
女は何を思って店から離れたのか。
あれも自分を誘うための行動だったのではないかと今になっては思う。
露店裏に人は少なく、自分や女を気にかけるような者は居なかった。
店の裏に置いてあった大きな麻袋に気がついたから、自分はそれを拾い上げ、女の背後に近づき頭から被せた。
次にはひょいと女を抱き上げて肩に乗せ、歩き出した。
女は抵抗せず声もあげなかった。
大人しく肩の上に乗っている黒衣と麻袋に包まれた女の姿は、通り過ぎる人々からすれば人には見えなかったのだろうと思う。
女の身の軽さと身体から漂う芳香に自分は高揚した。
じっと身を硬くしていた女が微かに声をあげたのは、トラックの助手席に放り込んだ時だ。
気にせずドアを閉め、自らも車に乗り込むとそのまま女を北部の辺境地である自分の村へ連れて帰った。
女は走行中、一言も口をきかず、たいして身動きもしなかった。
逃げようとすれば可能だったはずだ。だが、女はそれをしなかった。
女に何を話していいのか思いつかず、自分は無言で車を走らせた。
南部の女とは男に逆らわぬ大人しい女だと聞いていたが、ここまでとは思わなかったと内心驚いた。
それがただの勘違いだったことは、村に到着したときに知ることとなる。
助手席から女を抱きおろすなり、女は自分の手から離れて地べたに膝をつき、涙を流して土下座した。
ありがとうございます。私を
非難や罵倒されるならまだしも、感涙と共に礼を言われるとは思わなかったので、自分はどうしていいか分からぬまま、女の気の済むまでその様を見守っていた。
女の言葉の意味を知ったのは、その後三日続いた婚姻の儀式を終えた初夜の時である。
新旧入り混じる女の身体中の痣に、この女が自身の父親や叔父や兄や弟たちに受けていた扱いを理解した。
この女は大人しい女ではなかったのだ。
女はあのバザールで、逃げ出す機をずっとうかがっていたのだ。
さらい婚の風習が残る北部のど田舎の男がやって来るのを。
南部の女は家族や夫以外の男と口をきけない。
女は自分が目の前に現れたとき、全身全霊でこの自分を誘惑したのだろうと思う。
私をここから連れ出して。
他の女とは群を抜く、磨き抜かれた白い手と。透かし編みから覗く美しい目が唯一の女の武器だった。
自分でなくても良かったのだろう。女にとっては攫う男なら誰でも良かったのだ。
そう考えると虚しさが残るが。
それから女は自分の妻となり子供を五人産んだ。
細いながらも丈夫な女で、村のどの女よりもよく働いた。
さらい婚を果たしたのは村ではこの自分が最後で、逆らうことをせぬ南部の女を手に入れた自分は村中の男から羨ましがられることとなった。
幾度となく村の男たちから背を叩かれてうける称賛の言葉を自分は黙って聞いていた。
それは違う。
あの時に自分は女に囚われたのだ。
それを証拠に女が自分を声もなく見つめれば、自分は女に従ってしまう。
五人の子供たちのうち、女である三人も学校に通わせるようにさせたのはあの女だ。
自分は男だけ行かせる気だった。
メイドとして仕えた先の主人に子供を孕ませられ、捨てられた長女を恥だと家に閉じ込めることなく外で働かせたのもあの女であるし、少ないやり繰りの中で次男を首都オデッサの高等学校に行かせたのもあの女だ。
最近、自分に煙草を止めさせたのもあの女である。
昔と変わらずほっそりとした体躯できびきびと家事をこなす女を眺めながら、男は女の買ってきた飴を口に放り込み、ぼんやりと考える。
あのときバザールで攫われたのは、自分自身の心の方であったと。
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