第10節「破綻(後編)」

 放課後。人文社会科学科研究室。

「大活躍だったらしいじゃないか」

 黒崎は微笑みながらそう言うと、雪に座るよう促した。

「失礼します」

 雪は、ちらりと黒崎が先程まで読んでいた本に目をやった。プラトン著『国家』の下巻だ。

「…聞いたんですか」

「まあね、糸川くんから」

「誰です?」

「糸川亮馬くん…キミが助けたんじゃないのか?」

「ああ、そういう名字だったんだ」

 知らなかったのかと笑いつつ、黒崎は立ち上がり、戸棚から湯呑みを取り出した。

「緑茶あるけど、飲む?」

「いただきます」

 急須にお湯が注がれた。

「それで、なにか相談したい事があるのかな」

「え?」

「明暗さんは何の用もなく駄弁りに来るような子じゃないと思ったんだけど」

「…ええ、まあ」

 雪は俯いた。いろいろなことがありすぎて、何となくここに来てしまったのだ。黒崎の研究室は、雪にとって数少ない、というより唯一の、心休まる場所になっていた。

「はいどうぞ」

「あ、ありがとうございます…」

 雪は渡されたお茶を少しすすった。

「あつっ」

「おっと、気をつけて。少し冷めるのを待ったほうがいいかも」

「はい…」

 舌がひりひりする。雪は、しばらく黙ったまま手に持ったお茶の表面を見つめていた。それを見た黒崎が何か察したのか、先ほどの話題を続ける。

「…糸川くん、感謝してたよ」

「え?」

「なんだかよくわからないけど、『それがどうした、その通りだ』って言ってた。意味分かる?」

「…いいえ」

 雪の口元が少し緩んだ。黒崎は深く訊くことはしなかった。

「あとね、室井先生がキミにも話を聞くって大騒ぎしてたから、あとで私が聞いておきますって言っといたんだ」

「え」

「うん、まあホラあれだよ、聞くまでもないというか…どうせキミが悪いわけないし…室井"女史"…おっと!室井先生の過剰反応だから、どーせ」

「…ふふ」

 雪は思わず声に出して笑っていた。

「…気が楽になった?」

「はい、とても」

 雪は、ぐちゃぐちゃになってしまった心の配線が正確に繋ぎ直されていくように感じた。今考えるべきこと、今"悩むべき"ことがはっきりとしてきた。

「…実は、いつも一緒の二人のことで」

「二人というと、宮前綾野さんと和田浩樹くん?」

「はい」

 雪は黒崎にこれまでの経緯を話した。3人の関係のこと。中学二年生の冬のこと。「井戸」で綾野のブログを見つけたこと、昨日浩樹と話したこと。謎の2通のメールのことは伏せておいた。

 黙って聞いていた黒崎は、雪が話し終えるとすぐに一つの質問をした。

「それで、明暗さんとしてはどうしたいの?」

「それは…」

「何をするか、という"行動"についてじゃなくていい。どうしたいか、という明暗さんの"希望"は?」

「…私は、今までのように普通にやっていきたいだけなんです。平凡な生活が良いんです。でも、嘘をつきたくない。真意を裏に隠しながら、"しがらみ"の中で友達としてやっていくなんて嫌…。…そう、私は"しがらみ"が嫌いなんです」

 黒崎はじっくり聞いていた。表情が読めない。


「……ふうん」


 あれ、おかしいな。表情が読めないなんて。


「それって」


 今まで、感情の読めない人なんて居なかったはずなのに。


「矛盾してるよね」


「え…」


「キミは平凡な生活を求めているという。つまりそれは、いつもどおりの変わらない日常を過ごしたいということだ。そこに幸せを感じている。ところがキミは、"しがらみ"を嫌うという。真意を裏に隠させるような"しがらみ"を。だが…キミの真意はどこにあるんだ?""?キミは、本当はどうしたいんだ?」


 そんな、そんなことを言われても。


「私は…」


 そんなことを言われたら。


「私…」


 分かってしまうじゃないですか、先生。

 思わず言語化してしまうじゃないですか。心の片隅に有った、押し殺していた本当のことが。もう抑えが効かなくなってしまいます。

 何故か、坂東涼子の顔が思い出された。あの、食堂で見た笑顔が。

 それから例のメールと、「井戸」で見た綾野の言葉、今日の綾野の眼も。


「先生、私…」


―――――思えば、このとき。先生あなたは微笑んでいたね。







※※※






 だいぶ長く話し込んでしまった。あたりは真っ暗だった。すでに午後8時半を回ったところだった。雪は黒崎に送ってもらうことになった。

「悪いね、家が近いから徒歩なんだ。車で来てれば速いんだけど」

「全然大丈夫です。私の家も近いので」

 虫の鳴き声が足元から静かに響いていた。学校の周りは住宅街であり、非常に閑静である。学校の裏を少し行ったところには小さな川が流れている。小学校時代には、よく綾野とサワガニをとったりして遊んだ。

「先生」

「何だい」

「…先生は本当に先生なんですね」

「…それってもしかして深い意味ある?」

「いえ、それほどでも…。ただ、私が今まで出会ってきた"先生"は肩書だけだったのだなあ、と」

「…そうか」

 黒崎がそう返事をし、二人で交差点を右に曲がったそのときである。

 二人とも目に入った"それ"に対して瞬間的に身構えた。



 そこには、X


 

※※※



 パチッ


『…今後の日本勢の躍進、楽しみですね。ではX情報です。本日のXシステム適用者は45名でした。Xシステム利用"事案"は7件。うち、殺人が1件、強盗が5件、強制わいせつが1件でした。本日の通常犯罪は、0件です。これで15日連続犯罪ゼロとなりました。続いて気象情報で』


 ブツッ

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