第9節「破綻(前編)」
「したがって、人間の集団は常に忠誠や権威といった"力"の概念と不可分だ。例えば…」
黒崎の授業。雪は無心でノートを取っていた。隣りに座っている浩樹も同様だ。
結局、昨日の話し合いは何ら影響がなかったといえるだろう。現状は何も変わっていなかった。それは、「井戸」で綾野の本心を知る前の雪――つまり、平凡な生活を求める者――にとっては幸せな状況であったが、今となっては苦痛を感じる。
"しがらみ"を感じる。
しかし、いろいろ考えてみたところでどうしようもなかった。いっそのこと綾野を交え、例の記事のことを持ちだして話し合うという方法もあるが、あまりにもリスクが高すぎる。それに、その場合には綾野が自分たち二人の前から姿を消すような気がしてならなかった。かといって、自分が二人と縁を切ったところで上手くいくとも思えないし、それは平凡な日常を壊すことになる。
完全に手詰まり。板書をノートに写し終え、雪は軽くため息をついた。
チャイムが鳴った。
「では次回は、ある道徳的感性の調査結果についてみんなで議論していこう。じゃ、授業おしまい」
4時間目が終わった。昼休みだ。
「飲み物買いに行かない?」
後ろから綾野がやってきた。雪は少し心拍数が上がったのを感じた。
「おー、行くか」
雪は無言で立ち上がり、右手に財布を持った。確認するまでもなく、三人は一緒に行動するのだ。
妙に重苦しい気分だった。
自販機スペースに行くと、何やら人垣ができていた。
雪は大きくため息をついた。またXか何かか?実に不謹慎な思考であるとは自覚していたが、こんなときに騒ぎに巻き込まれるのは勘弁だ。
「何だ何だ?」
浩樹が背伸びをして向こうを見る。
「何?X?」
「いや何言ってんの…。あれは…城ヶ崎さん?」
「え?」
「…ちょっとごめん」
雪は気になって奥に入っていった。すると、確かに城ヶ崎がいた。隣りにいるのは昨日帰り際に見た男子生徒だ。そしてもう三人ほど…あきらかにガラの悪い男たちがいた。
「なぁ茜よぉ、一体どうしたんだよそんな男なんか連れて」
「いい加減にしろよ。さっきからなんなんだよ、お前ら」
「亮馬、もういいから…」
城ヶ崎の彼氏と思しき美形の男子生徒は亮馬というらしい。
「良い"おもちゃ"見つけたなぁ茜!」
「"おもちゃ"だと!?」
彼らは何故言い争っているんだ、と考えていると、横に綾野がやってきた。
「ふう、やっと抜けられた。おお、絡んでるの森じゃん」
「知ってるの?」
雪はすかさず尋ねた。
「結構有名だよアイツ。第2高校には場違いな真性のワルだって」
「へぇ」
「たしか、城ヶ崎さんと同じ中学だったって話だけど…」
森はニヤニヤしながら城ヶ崎を見ている。
「あれ言っちゃおっかな~!なあ茜?隠してるわけじゃないんだろ?」
「うっわ、森えげつね~!」
「うぅ…」
城ヶ崎は明らかに動揺している。
「何だよ!?」
亮馬が自分の体で城ヶ崎を隠した。
「みんなに聞いてもらったほうが良いよな?なあ、俺の元カノよぉ?」
「…えっ」
亮馬が唖然としている。城ヶ崎は手で顔を覆ってしまった。雪は思わず「あら」と声に出していた。
「やっぱり知らなかったのか」
「…嘘だ」
「嘘じゃねえぞ。原付ニケツして乗り回して、サツにパクられそうになったこともあったよな」
それが本当なら絵に描いたような不良少女である。今の"美少女"からは想像もできない。
「お前は昔から、学校とか、表では良い顔してたもんなぁ。よくバレねえもんだと感心したぜ」
「…もうやめて」
城ヶ崎の抗議を無視し、森は喋り続ける。
「高校入ってから裏でも大人しくなったと思ったら、男をひっかけてたとはな」
「そんなんじゃない…亮馬のことは本当に好きなの…」
「よく言うぜ!森のこと裏切ったくせによぉ!」
森の隣りにいる腰巾着が声を上げた。
「…俺も本当に好きとか何とか言われたけどな、いやぁ、夜に出歩いてサツに引っかけられたとき、俺を突き飛ばして逃げたときにゃ、コイツはやべえ女だと思ったぜ」
城ヶ崎は苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、言い返さなかった。
「マジかよ…」
「信じらんない…あの城ヶ崎さんが…」
「ヤバくない…?」
周囲の生徒たちはそんなことを言ってざわめいていた。
「こいつら…!」
右を見ると、いつの間にか隣りにいた浩樹が鋭い目つきで周りを見渡していた。まずい、と雪は直感した。この調子だと浩樹は森あたりに殴りかかりそうだ。おそらく「過去の悪事を持ち出して改心した人間を責めるのは、その悪事よりも悪いこと」だと思っているのだろう。当然の論理だが…。まあ殴りかかったところで、こいつは喧嘩が弱いからすぐボコボコになるだろうが、これ以上事態を複雑にするわけには…。
自業自得の城ヶ崎を救おうなどと思ったわけではない。むしろ雪としては何も言い返さない城ヶ崎が腹立たしかったのだが、この際は仕方ない。
雪は面倒事と関わる覚悟をすると、
「それがどうした!」
と叫んだ。一瞬であたりが静かになった。
「…はあ?」
と、新たな敵を見つけたと言わんばかりに睨みつけてきたのは森。綾野と浩樹はぽかんとしていた。城ヶ崎と亮馬も、意味がわからないといった様子だ。
「いや、それがどうした、と言ったんだ。過去にそういうことがありました、はいそうですか。おしまい、じゃないのか」
「…はああ!?」
森は雪に詰め寄ってきた。雪は右手を前に出して制止する。
「ていうか、不良から足を洗った女の子にちょっかい出してるお前は何なんだ。昔の女が自分よりイケメンと付き合ってて腹が立ったか」
「ぷっ」
浩樹が吹き出した。
「な、て、テメエ!!」
森が殴りかかろうとしたところを、雪は左手の平を顔面にサッと出して静止させた。
「いや、でも正直…お前と亮馬なら9割の女は亮馬を選ぶだろ。な?」
雪が振り向いて女子生徒たちに同意を求めると、皆狐につままれたような顔。
「こ、こ、こいつッ!」
森は血管がはじけそうなぐらい浮き立っていた。
「黙れ、負け犬」
雪は最高に小馬鹿にした表情を作ってそう言ってやった。そして森が本気で殴ろうとしたそのとき、
「何やってるの!」
と教員の声が響いた。森は雪を睨みつけながら人垣を押しのけ去っていった。去り際の「殺してやるからな」という声は聞かなかったことにしておこう。
やってきたのは城ヶ崎のクラスの担任、室井"女史"だった。眼鏡をかけたお硬い女教師ということで、生徒は憎しみと親しみを込め、密かに"女史"と呼んでいた。集まっていた生徒たちはお小言は御免とばかりに蜘蛛の子を散らすように退散した。
雪たちも小走りに教室に戻った。
「…ジュース買えなかった」
雪がそうつぶやくと、浩樹が
「そこかよ!」
と突っ込んできた。
「それにしても、さすが雪、痛快だったな」
「まあ…」
はっきりしない返事をして、雪は綾野の方を見た。綾野と目が合った。
「すごいね、雪は」
綾野はそう言った。雪はサッと目をそらした。
「…照れてる~?」
綾野が覗きこむようにしてきたが、雪は顔を逸らした。
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