第6節「開花」


 その一週間後。水曜日。

 雪は一昨日から家の前で始まった道路工事の音で目が覚めた。すでに11時を回ったところだった。

 完全に遅刻だ。雪は全く急がず起きだし、だらだらと支度を始めた。

 雪はたまにわざと遅刻する。別に朝が弱いわけではない。いつも決まりきった時間に起き、決まった場所に行き、決まった行為をして、決まった時間に帰って寝るというサイクルを、2週間に一度くらい壊さないと不安になるからだ。そんな生活には実感が無い、脳が働かなくなる、というのが雪の持論である。

 リングが点滅していたので、メッセージを開く。

『おはよう…いや、これを開くのはこんにちはの時間かな?担任の黒崎です。今日は、また例の癖?とりあえず、もし学校に来たら私にひと声かけてくださいね』

 雪の神経ディスプレイに苦笑しながら話す黒崎が映った。どうやら黒崎にはバレバレらしい。

「もう一つは…綾野から?」

 綾野からはボイスのみのメッセージだった。

『あ、雪…えっと、もし今日遅刻するつもりなら、休んじゃったほうがいいかも、今日は。え、えと………と、とにかくそういうことだから!休んでいいと思う!じゃあね!』 

 どういう意味なのか全く分からず、雪は首を傾げた。

 学校に来るな?なぜ?

 雪はよく分からないまま、とにかく行って確かめるしかないと思い、さっと制服に着替えてアパートを飛び出した。


 学校に到着すると、雪はすぐに異様な雰囲気を察した。

 校門の通りには何台ものパトカーや救急車が停まっている。校内に入って行くと、泣いている女子や、水道に向かって嘔吐している男子がちらほらいた。何となく状況が分かってきた。

 そして中庭に入ったとき、さすがの雪も濃く漂う血の匂いに鼻を覆った。全身の血流が熱く、早くなる感覚がする。

 そして雪は“それ”を見た。

 そこには、全身の皮を剥がされ、上半身と下半身が逆向きにねじれている死体。全身の骨が砕かれ、しぼんだタイヤのようになった死体。そして頭蓋骨の額部分が割られて欠損し、そこから見える脳が無くなっており、四肢をもぎ取られ、胸におびただしい数の刺し傷がある死体が、木からぶら下げられていた。

 近くの校舎の壁に、その脳で書いたと思われる言葉があった。

『罪人に正しい罰を』

 かろうじて顔の残っている四肢のない死体は、どこかで見覚えがあった。たしか、坂東涼子と一緒にいた女子生徒。ということは、この3つの死体は…。

「来ちゃったんだ…雪…」

 振り向くと、顔色の悪い綾野がいた。

「近づかないほうがいい」

「ほんと平気だね…雪は…」

 雪は綾野の肩を抱き、惨状から離れて行った。

 二人は校舎の中の休憩スペースに向かった。もう、どのクラスも授業どころではなかった。


 綾野の話によると、1時間目が始まったころ、中庭から悲鳴が聞こえた。何事かとみんなが窓から覗くと、3人は木に縛り付けられ傍らにXが立っていた。そして、Xはひとりひとり、あの有り様になるまで時間をかけて殺していったという。

 殺ったのはXである。Xではあるのだが、そのXに入る人名が、雪には一人しか浮かばなかった。

 

 HR棟から研究棟へ。まだまだ混乱は収まらない。本来4時間目の時間だが、雪を咎める教員は居ない。生徒も教員も慌ただしく動き回る、いや、ただ慌てふためくだけだった。

 雪は駆け足で人文社会科学科研究室に向かった。研究棟の廊下は、この混乱の学校の中で嘘のように静まり返っている。研究室に近づく。扉は開いていた。

 中を覗くと、黒崎は新聞を読んでいた。

「失礼します」

「お、来たか」

 雪は黒崎の傍に行き、単刀直入に言った。

「先生、あれをやったXは坂東涼子ですか」

「…」

 黒崎は困ったという表情。やがて新聞を置き、机に頬杖をついてこう言った。

「あのいじめについては不特定多数の人間が知っていた」

「…え?」

「校内の人間が噂で知っていた、という意味だけじゃない。坂東涼子は「井戸」を使ってXに彼女たちの殺人依頼をしていたようだ」

「な…」

 一体どうやって依頼を、という疑問よりも、彼女がそこまで思いつめていたのか、という事実の方が心にのしかかる。雪は切り返した。

「しかし、あの殺し方は」

 明らかに怨恨のある人間の殺し方だ、と言いかけたのだが。

「坂東涼子は今日欠席している。家には母親がいた。朝食以外で2階の自室から降りてくることは無かったそうだ」

「…では、見ず知らずの誰かがXとして天罰を下したということですか」

 黒崎は答えなかった。雪は畳み掛ける。

「ありえません。「井戸」の中だけの関係で、会ったこともない人間のために、全く知らない人間の皮を剥ぎ取ったり、骨を砕いたり、脳みそをくり抜いたりするわけがない」

「…ならキミは、よく知っていて恨みのある相手なら、皮を剥ぎ取ったり、骨を砕いたり、脳みそをくり抜いたりする妥当性がある、と言うのかい?」

 黒崎は腕を組み、深く座り直してそう言った。決して冗談で言っているのではない。どのような関係であれ、よく見知った相手をそのように殺すのは躊躇われる、それもまた一般論である。

「…そうです」

 雪がそう答えると、黒崎は目を細めて、軽く溜息をつき、

「そうか…まあそう思うのはわかる、正しい」

 それから続けて、

「だがXが本当は何者だったのかということについては、確かめようがない。誰もそれを調査することはできないし、する必要もない。すればそれこそ犯罪…。Xの行為はすべて、Xシステム上の"事案"にすぎないんだから」

「…そんなこと分かってます」

 雪は踵を返して研究室を出て行った。黒崎はしばらく出入り口を眺めていたが、やがてまた新聞を読み始めた。



 ※



 数日後、昼休み。雪たち3人は学食で昼食をとっていた。

 あの日以来、雪はどこか元気が無い。浩樹も綾野も、普段全く感情の起伏がない雪の変化を敏感に感じ取っていた。

「なあ、雪…」

 珍しく小さな声で、浩樹が切り出した。

「やっぱり、"アレ"を見ちゃったせい…だよな…」

「……ん」

 肯定と受け取れる、やる気のない返事。

「わかるよ、あんな"モノ"を見て気分がいい人間なんていないもんな…」

「そうだよね、私も結局、あの日は何も食べられなかったし…」

 雪の前には学食で注文したステーキ定食があった。ナイフで丁寧に切り分け、口に運んだ。

「んー…」

「…それに、雪の親は」

「浩樹!」

「ご、ごめん」

 浩樹が言い出そうとしたことを、綾野は瞬時に咎めた。


 雪の両親は、Xに殺された。幼い雪の目の前で。


 だが今の雪は、そのことで悩んでいるのではなかった。

 あのXは間違いなく坂東涼子だ。しかし、それを否定する事実がある。雪は自分の直感と、理性的な推理の矛盾とを、どうしても整理できなかった。

 だいいち、なぜここまで自分がこの一件にこだわるのかも、自分で分からなかった。あの日、なぜ黒崎のところに行ってあんなことを言ってしまったのかも、よく分からない。

 ただ、どこか自分がこの一連の出来事を引き起こしてしまったかのような感覚があった。自分の行動の結果が、こんな形になった。もやもやした気分はそこから来ているのかもしれない。


 ふと顔を上げると、食堂の入口近くのテーブルに坂東涼子がいた。友達と思われる女の子たちと楽しそうに食事をしている。彼女にも友達がいたのか、と、しばらくその様子を眺めていた。実に清々しい、屈託の無い笑顔だ。涼子のそんな顔を見て、雪は少し気が晴れてきた。

 彼女は誰だかわからないXに救われた、それでいいじゃないか。結局のところ、誰が殺ったかなんて関係無い。あれはXの"事案"なのだから…。こうして、終わりのない悩みに無理やりけりをつけることにした。

 

「雪?」

「…なんでもない。ごめんね、心配かけて」

 気が付くと、浩樹と綾野はすっかり黙ってしまった雪の顔を覗き込んでいた。

「大丈夫か?」

「ええ、本当にもう、平気だから。だから浩樹も普通に喋れ。声が小さいと逆に気持ち悪い」

「はは!いつもの雪だ!」

「うん、ほんとに!」


 昼食を終え学食から出るとき、雪は坂東涼子の座る前を通った。こんなに綺麗な子だっただろうか、と雪は校門で話したときの姿を思い出していた。やはりあのときとは雰囲気が違う。肌が艷やかだし、髪型も少し変わり、胸には面白い形の白いペンダントが掛かっている。

 まるで別人だ。雪はそのまま流し目で観察し、出て行った。


「…あれ」

「ん?どうかした、雪?」

「………いや、なんでもない」


 雪はふと起きた違和感を忘れようとした。


 あの涼子の白いペンダント。いままでかけているのを一度も見たこともなかったペンダント。あれは何か…。


 何故か、あの3人の死体がフラッシュバックした。脳をくり抜かれた頭蓋骨が引っ掛かる。


 行動の結果、か。

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