第5節「発生、そして収束(後編)」

水曜日。

 結局先週金曜日の放課後、雪は黒崎に坂東涼子のことを伝えた。

 そこからの黒崎の行動は早かったようだ。即日黒崎立ち会いのもと、当事者の話し合いの場が持たれたらしい。

 そして今日の放課後、雪は黒崎に呼び出されている。

 雪は全く人の気配がない研究棟の廊下で、扉の上の「人文社会科学研究室」と書かれたプレートを見上げていた。

 人文社会科学科は、数年前の教育改革によって創設された新科目である。これまでの国語科、社会科を融合したような科目だ。

 扉を2回ノックすると「どうぞ」と黒崎の声が聞こえた。

「失礼します」

 雪が扉を開けて入って行くと、部屋の左右に3つずつ並んだ机の左奥に黒崎が座っていた。その他には誰もおらず、机の上にも何も載っていない。この部屋は黒崎以外使っていなかった。人文社会科学科をこの第2高校で教えているのは、というよりも、教えられるのは、黒崎だけである。

 黒崎は足を組み、奥の窓の方を向いて本を読んでいた。

「やあ、こっちに来て座って」

「はい」

 背を向けたままの黒崎に促され、雪は左の真ん中のデスクの椅子に座った。古く錆びついた椅子がギギッと鳴った。黒崎は本を閉じ机の上に置いて、こちらを向いた。

「一応伝えておこうと思ってね、坂東涼子さんのことを」

「はい」

「うん、まあ噂で知っているかもしれないけど、本人たちから事情を聞いて、今後の指導をしたよ」

 雪は黒崎が読んでいた本に目をやった。ジョン・ロックの『統治二論』だ。

「金銭まで絡んだ事態になっていたからね…この段階で対応できてよかったよ…」

「はい」

 雪は黒崎に目を合わせた。

「…まあそれで、加害者の彼女たちには厳重注意と…今後このようなことが起きたら自主退学するという誓約書を書かせたよ」

「…」

 雪はどこか違和感を感じ、

「なぜそんなことを私に教えるんですか」

と尋ねた。

「…何となく知っておきたいんじゃないかと思ってね。自分の行動の結果を」

「…そうですか」

 雪は黒崎という男をはかりかねていた。自分の行動の結果…。自分ではあまり意識していないことだった。

「なんにせよ、自分の行動や選択の結果を見届けることは重要だ」

「…はい」

行動には結果が伴う。これは黒崎なりの戒めなのか?それとも褒めているのか?

「…明暗さん、あんまり警戒しないでほしいな」

「え?」

「そう怖い顔しないで!別に怒ってるわけじゃないんだから」

 雪は自分の頬に手をやった。表情を変えたつもりはなかった。至っていつも通りである。心を見透かされた気分だった。

「やっぱアレかな、私は少し身長高いから威圧感あるのかな…う~ん」

 どこかとぼけた様子の黒崎。考えてみればこの担任教師と雪が二人きりで話すのは初めてのことである。普段教室で見る黒崎の姿と、今の黒崎の姿は、何となく同じ人間には見えなかった。

「あ、そうそう。話は変わるけど」

 今度は何が出てくる、と雪は心の中で身構えた。

「先週の課題、評価が終わったんだけどね。明暗さんがダントツだったよ」

「ああ、あれですか」

「うん、『Xシステム以前と以後の治安維持の構造変化』について。ほとんどの人が日本の秩序の具体的構造についての説明だけ…というか、ほぼwikiの内容要約だったのに対して、明暗さんは治安維持という社会的事象そのものの議論に踏み込んでいた。こんな一節があったね、治安維持とは…」

「時の権力者、体制側によって恣意的に決定される、社会のあるべき姿を志向する動きである…」

「そう、それ!」

 左手の人差し指を上に立てた。黒崎の癖だ。

「いやあ、高校1年生になりたてでそこまで書けるとは驚きだよ」

「いえ、そんな…」

 雪は少し照れていた。

 いままで大人に褒められると、自分よりわかっていないくせに、とむしろ腹立たしい気持ちになることが多かった雪だが、黒崎には、そうは思わせない雰囲気があった。深い洞察と思慮を感じた。これまであまり印象のなかった黒崎だが、この短時間のやり取りで、雪はそう確信していた。そんな人間から褒められるのは悪くない気分だった。

「欲を言えば、治安の定義をする者が権力者や体制側だけか、という点をもう少し考えて、秩序がどのような構造で成り立っているのか、まで考えてくれると良いと思うな。きっと明暗さんなら思いつくだろうから」

「はい」

 自然と、今までより明るい返事の声が出た気がした。

「じゃ、話は以上だ。呼び出して悪かったね。気をつけて帰ってね」

「はい。失礼します」

 雪は研究室を出て行った。黒崎はしばらく雪の出た扉を眺めていたが、やがて再び窓の方を向き、本を読み始めた。外には黄色く美しい夕焼けが広がっている。


 帰り際、雪は坂東涼子を見かけた。

 自分から友人でもない他人に話しかけるなどということは滅多にしない雪だが、何故か今日は話してみたくなった。何か、ふわふわと漂っているような気分だ。

 校門を出たところで、思い切って涼子に声をかけた。

「あの…」

「はい?」

 気弱そうで落ち着いた声だ。体育館でも聞いた。

「坂東涼子さんですよね」

「そうですけど…」

 何と切り出せばよいのか、声をかける前に考えておけばよかった、と雪は思った。慣れないことはするものではない。

「私は明暗雪といいます。体育の時間とか一緒なんですが」

「…ごめんなさい、覚えてないです」

「ああ、お話するのは初めてですから」

 日は沈みかけていた。

「それで…何ですか?」

「その、例の…」

 いじめの件を先生に言ったのは、私です、と言おうとして思いとどまった。しまった。私は何を言おうとしているんだ?自分があなたを救いましたということを誇示したいのか?今になって自分が上機嫌になりすぎていたことに気がついた。何をやっているんだ、私は。

「あの…噂に…聞きました。大変だったとか」

「…ああ」

 涼子の声に一気に黒いものが乗っかったように感じた。

「で、でも、よかったですね、解決して」

 馬鹿なことを言っている、と自覚しつつ、そんな言葉しか出なかった。本当に、慣れないことはするものではない。

「…よかった?」

そうはいかなかった。

「何が良かったっていうのよ!!」

 今までの落ち着いた声のトーンから想像できない、鋭い声が響き渡った。

「あ、あの」

「あんなので…あんなので終わったのよ!?」

 雪はますます後悔していた。

「お金は返します…?今まで申し訳なかった…?もうしません…?だからなんだって言うのよ!!?」

 涼子の目は見開かれていた。

「そんなので終わりなんて許せない!あんなにも私をいじめて、ごめんなさいで済むわけないじゃない!誰も助けてくれなかったのよ…?私が何をされても…誰も…。わ、私は、こんなに傷つけられたのに、あいつらは傷つかないまま…おかしいわよ…こんなの!こんなのっ…」

 涼子はその場で泣き崩れた。

 こうなってしまっては仕方ない。雪はうずくまった涼子を抱きしめる。

「ごめんなさい…無思慮だったわ…ごめんなさい」

 ああ、声なんかかけなければよかった。柄にも無く馬鹿なことをしたものだ。何故だ。

 自分の行動の結果。

 その言葉を思い出しながら、雪は涼子の背中をさすった。


 思えば、変化はここからだったのか?

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