第3節「針の上の日常」

 Xシステム。

 2035年の大改革において施行された、新治安維持システム。その制度は極めて単純である。


 Xに選定された者は、その1日の間、あらゆる犯罪行為が許される。


 この制度の導入をめぐっては、言うまでもなく、国民すべてを巻き込んだ大議論になった。国家が犯罪を許容するなどということがあっていいのか。そもそも単に犯罪が増える結果に終わるのではないか。

 このXシステム導入に先駆けて、これまでの刑法における量刑が大きく変わった。軽犯罪を除くほとんどの犯罪において、仮釈放無しの終身刑以上が適用されることになったのである。これにより、従来よりも格段に犯罪を犯すリスクは高くなった。強盗などしようものなら、まず死刑は免れなくなった。

 この刑法改正とXシステムのセットは、2035年から現在にかけて絶大な威力を発揮した、とされている。史上最悪の犯罪件数を叩きだした2034年、国民の10人に1人は何らかの犯罪に関与していたと言われるこの年と、2035年の犯罪件数を比べれば、それは確かに一目瞭然である。それどころか、このシステム導入後の犯罪件数は、戦後で最も低い数値になっていた。

 Xシステムによって犯罪が許可される可能性があるのに、わざわざ普通に犯罪を行うリスクを冒す必要はない…。また、Xシステムが貧困層にとって、人生の一発逆転に作用しているのも事実であった。硬直した格差社会を打ち破る一つの劇薬。Xになっても罪を犯す可能性が低い高齢者より、若者の貧困層に向けた施策が重視されるようになったのは、このシステムの影響が大である。


 これがXシステムに対する一般的認識である。


 ごく少数の犯罪を許可することで、多数の犯罪の防止する。そういう功利主義的論理の産物である。


 ただし、Xシステムには欠陥があった。それは、犯罪が許されるとは言っても、犯罪自体に社会的リスクが存在するという点である。

 例えばXシステムに選定された日に、気に入らない友人を殺したとする。そんなことをすれば、確実に他の友人からは絶縁され、家族からも見放されるだろうし、勤め先から解雇されたりするかもしれない。挙句、その殺した友人の家族がXに選ばれたりしたら、報復されるかもしれない。

 そこで考案されたのが「匿名犯罪装置」通称"ギュゲス"である。

 Xに選定された場合、当日に「匿名犯罪装置」が本人のリング型PCに電送される。これは陸上自衛隊が開発した光学迷彩技術を応用したものであり、起動すると、周囲の人間からは全身が黒い膜で覆われたように見える。同時に特殊な電気信号を神経に流しこむことで、身体能力も格段に向上する。これによって、誰にも個人を特定されず、何者にも縛られずに、匿名で犯罪行為を行うことができるのである。当然、推理によって誰がXだったかを探ることは可能であるが、そのような行為は犯罪として罰せられることになっている。


 もちろん、Xに選ばれたからといって必ず犯罪を行わなければならないというわけではない。公式発表によると、Xシステムの行使率は、2045年6月現在で約25%。その内、30%が殺人などの重大犯罪である…。



 ※


2045年6月。


 金曜日。

「では、来週の月曜日までに『Xシステム以前と以後の治安維持の構造変化』というテーマで小論文を書いてきてください」

 授業の最後、雪の担任教師である黒崎恵一が出した課題に周囲で非難の声があがる。

「えぇ~!」

「難しいよ先生!」

 黒崎は少し困った顔をしながら、

「ほら、だからいつも言ってるだろ?みんな「井戸」だとか、便利なアプリだとかをたくさん持ってるんだからそういうのを活用して…。それに、協力してやっていいんだよ!文章さえコピペしなければね」

と生徒をなだめた。

「協力してやったって評価は下げないよ!むしろ議論して出た内容で書いたということなら、それは価値あることだ。そのいきさつが書いてあったら逆に加点する。じゃ、みんな頑張って」

 黒崎が教室を出て行くと、みんなわいわいと話し始めた。

 この程度の課題で何を困ることがあるんだか、とあきれていると、隣の席の浩樹がこっちを向いた。何を言いたいのかは聞かなくても分かった。

「雪!」

「手伝わない」

「まだ何も言ってないのに…!」

 相変わらず声が大きくてうるさい。浩樹がしゃべるとクラス中に聞こえてしまう。

「自分でやってよ」

「そこをなんとか!俺と雪の仲じゃないか!」

「じゃあそういう仲だからこそ、お前のことを想って試練として崖下に突き落とした、ということに」

「えー!」

 そんなことを言い合っていると、綾野がやってきて、

「浩樹、声うるさい、デカい」

と、後ろから浩樹の頭をわしづかみしながら言った。

「なんだよー!」

「だから、うるさいの~!」

 後頭部を握力で締め上げる。綾野の女子離れした力が浩樹を襲う。

「いた、いたた!痛い!」

 周囲のクラスメートたちは、やれやれまた夫婦漫才が始まったと苦笑している様子だったが、いつも通り二人は周りが見えていない。楽しそうに言い合う二人。

 雪は二人を見ながらぼんやりと考えていた。本当にお似合いの二人なのに、と。

「じゃああれだ、綾野も一緒に課題をやろう、それならいいだろ!」

「あーいいわよやってやるわよ!雪のを写すだけで終わらないように監視してやるから!」

「ぐっ!い、いいだろう!」


 ――綾野は浩樹が好き。なのに、浩樹は私が好き。それは何故だ?――


 どう考えても、雪には理解できなかった。中学校二年の冬。綾野が委員会で遅くなり、たまたま浩樹と二人で帰った日。二人きりなんて滅多にないことだったから、よく覚えている。学校からの帰り道で、雪は突然告白された。

 今と変わらず、基本的に冷たくあしらう形で――そういうやりとりをする仲だとお互い承知していた上で――浩樹と接していた雪にとって、これは全くの予想外であった。

「頭がおかしくなったのか?」

 思わず雪はそう尋ねた。非難ではなく。

「いや、本気だ。本気で好きになった。だから」

 雪は、浩樹の普段と違って落ち着いた様子、そして覚悟を決めた表情に、好感や興味を抱くよりも、違和感を覚えていた。

「…理由は?」

「そうだな…まず…雪自身は気づいてないかもしれないけど、お前はすごく可愛いんだぞ」

 少し恥ずかしそうにしながらそう言う姿は普段の快活な浩樹と違って、ますます違和感が増していった。

「自覚はしてるよ」

「え、ああ、そう…それだ!そういうところが、だ!」

 急に思いついたように、浩樹は雪を指差した。

「ええ?何?」

「そういうハッキリしたところ!普通の女の子は、自分が可愛と自覚してる、なんて言わないだろ。本当に可愛い人だってそんなことを言わない。他人に嫌われるかもしれないのに、雪は恐れない」

 それって変な子が好きってこと?と、雪は心の中でつぶやいた。なんだか今日の浩樹は嫌だ。変だ…。

 結局返事を待ってもらうことにして、その日は別れた。

 翌日の朝、綾野も一緒に登校しているとき一言、

「浩樹、無理」

とだけ言った。浩樹は

「ん」

とだけ返事した。綾野は怪訝そうな顔をしていたが、何も訊いてこなかった。

 結局その後、このことが話題になることはなかった。


 この告白の一週間後に、綾野が浩樹に告白し振られていたと知ったのは、中学校を卒業するころになってからだった。二人は雪にそのことを決して話さなかった。雪はその事を偶然、養護の先生から知った。


「あ、明暗さん!二人はその後うまくやれてるのかしら」

「はい?二人って…?」

「宮前さんと和田くん。振られたって大泣きしながら宮前さんが保健室来たときはもうビックリしたわよ…。うまくやれてる?」

「え、ええ、まあ」


 本人たちに確認するわけにもいかないが、浩樹は告白されたその場で綾野を振ったらしかった。雪は全く気づかなかった。その、大泣きしたという翌日も普通に三人で登校していたはずなのだ。バカでくだらない、いつものやり取りをしながら。


 しかし、雪はあまり考えないことにしていた。

 この二人は友人であり、それ以上でもそれ以下でもない。考える必要が無い。この関係が永遠に続きさえすれば、それでいいのではないか。裏にどんな事情があっても…。自分らしくない考えだとは思いながら、雪はそれ以上踏み込みたくも、逃げたくもなかった。今のところは。

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