第2節「ある一日(後編)」

 日が傾いてきた。とにかく帰ろう。

 力を振り絞ってなんとか歩き始めると、ピコン、と雪の聴覚にだけ聴こえる効果音が鳴った。左手の人差し指に付いたリング型PCが点滅している。右手でリングに触れ、神経ディスプレイを表示させる。どうやら綾野からのメッセージらしい。開くと、『こんなの見っけた!』というテキストと、URLが表示された。

 また「井戸」で面白いものでも見つけたのだろうか。雪は『帰ったら見る』と返信し、神経ディスプレイを閉じた。少し気が楽になっていた。


 「井戸」は、"国民総合ソーシャルネットワークサービス"の通称である。

 2024年、中国の不況に端を発する世界同時株安が発生し、その波はアメリカ市場を直撃。戦前の世界恐慌、21世紀初頭のリーマン・ショックなどとは比較にならない経済危機が発生した。日本も大打撃を受け、膨大な失業者が生まれた。その結果、2025年から2035年に至るまで、犯罪率は戦後最悪を更新し続けたのである。

 政府は治安維持のためあらゆる制度改革を行った。その一つが、国家によるウェブサイト統制である。

 2025年7月に発生した「7月暴動」、同年9月発生の「永田騒乱」は、いずれもネット上で参加者を募ったものであった。不特定多数の人間による恣意的な"世論"の形成。それはメディアコントロールよりもおぞましいものであった。フェイクニュースを作り、広告収入を得ることだけを目的とした世の風潮は、まさに悪意の塊であった。人間は元来メディアリテラシー能力に恵まれていない。偽情報を真に受けた人々は暴動を大規模な物にしていった。結果的に、自衛隊の一部も暴徒側に回り、おそらく歴史の教科書には「内戦」「クーデター」と記述されるであろう「永田騒乱」では、ときの総理大臣が混乱の中で暗殺されるという最悪の事態が発生してしまった。このような事態を二度と発生させないため、2035年、政府は国内のあらゆる電子掲示板、SNSを統制下に置き、それらを包括的に置き換えた政府によるネットワークサービス"国民総合ソーシャルネットワークサービス"を開始したのである。

 当時すでに国民の7割に普及していた神経伝達式リング型PCとマッチングされたこのサービスは極めて利便性が高く、国民に好意的に受け入れられた。「完璧なセキュリティ。望めば完璧な匿名性」を謳ったこのサービスは、実際に非常に高度なセキュリティによって個人情報が守られていた。

 これまでの10年間、暴動やデモは起きていない。一説には、このサービスが検閲を実施し、そのような動きを扇動するする人間を取り締まっているためである。かつてアングロ・サクソンが「エシュロン」を用いて世界を監視したように、現代の日本は「井戸」で国民を覗いているのではないか、というわけだ。これについて、未だにリベラルな活動家たちは「言論弾圧」だと抗議を行っているが、しかし、大多数の"善良な"、すなわち"普通の"国民には全く関係のないことであった。


 この10年で日本は大きく変わった。雪はまだ15歳だが、それを肌で感じながら過ごしてきた。社会の大きな波。雪の身の回りに起こった小さな波。全てが積み重なって、雪に襲いかかっていった。

 両親の死は、周囲から見れば最も大きな波であっただろう。周囲から見れば。


「そうだ、たまご買って帰らないと」

 もうすぐ家だったが、ふと思いついた雪は踵を返し、商店街に向かった。すでに施設を追い出され一人暮らしの身。いろいろと仕事は多い。だが自由なのは悪くない。

「今日は安い日…だったかな…」

 貧乏なのは仕方がない、と雪は割りきっていた。


 商店街まで来ると、普段には無い人だかりができていた。ここの商店街は駅も近く、周辺に大きなスーパーも無いため繁盛している方だが、こんなに人がいるのは珍しい。どうやら人々は何かを囲んでいるようだ。あたりを見回すと、いつも使う八百屋が目に入った。店主に声をかける。

「おっちゃん、何かあったの」

「おお、雪ちゃん。あれだよあれ、Xエックスだってさ」

 X。そう聞いて雪は、少し、興味を持った。

「X…が、何してるの」

「いやぁ、店から離れるわけにいかないから、俺はよく見てないんだ」

「そっか」

 雪は人だかりの中に入っていった。

「ああ雪ちゃん!今日は大根が…」

 もう店主の声は掻き消された。怒号と悲鳴、そして笑い声が飛び交い、騒然としている。なんとか隙間を見つけて少しずつ進んでいくと、ようやく中が見えた。


 そこには凄惨な光景が広がっていた。

 全身が黒いゴムのようなもので覆われた人型…Xが、中年の男に馬乗りになって、その首をノコギリで切っている真っ最中だった。男は悲鳴を上げながらノコギリを手で押しのけようと抵抗しているが、手ごと切られて指がぼとぼとと落ちている。その近くには四肢を切断された女の死体が転がっていた。囲んでいる人々は、指差して笑ったり、野次を飛ばしたり、動画を撮ったり、「井戸」で実況したりしている。

 もっとよく見ようと雪が一歩踏み出ると、なにか柔らかいものを踏んだ。

「あ、すいません」

 と詫びて下を見ると、切断された女の脚だった。ちょうど切断面を踏んだので血が飛び、ソックスにかかってしまった。

「あっ…これ落ちるかな、血」

 思わず声が出ると、隣りにいた男が

「お嬢ちゃん、平気なんだ」

 と話しかけてきた。

「うん。おじさん、最初から見てた?」

「ああ、見てたよ」

「何があったの」

「あの死にかけの男と…」

 と、言いかけたところで男の首がごろんと道に落ちた。

「…あの死んだ男と女が歩いてたんだけど、いきなり駅の方…ほら、あそこの公園の見える道からXが走ってきてね。そんで、殺してやるーって叫びながら、二人を追いかけ回し始めてね」

「それで?」

「まあXだから足も速いし…結局二人とも捕まってこのザマ」

 男は半笑いだった。

「なぜXはあの二人を?」

「さあ知らないけど…あの二人はここらへんじゃ有名な金貸しだからね」

「ああ、そういうこと」

 納得がいった、という様子の雪。

 Xは未だに男の死体を切り刻んでいる。雪は辟易して、さっさとたまごとを買って帰ることにした。そのとき、人の囲みの向こう側に、自分と同じくらいの女の子がいるのに気がついた。

 このような現場で最前列を陣取る少女とは珍しい。雪は自分のことを棚に上げて、その少女を観察し始めた。スプラッター好きの人なのだろうか。

 目が合うと、何故かその少女は睨みつけるような視線をおくってきた。雪は視線を外さず、目を細めた。 

「え…何…?」

 数秒、視線が交差した。明らかに怒りを滲ませる少女と、戸惑いの雪。隣りにいた背の高い男がその少女の肩を叩いて促すと、二人は人混みの中に消えていった。何者かは分からない。少なくとも雪の知り合いではなかった。

 とにかく雪も人混みを抜け、買い物をした。


 買い物を終えて出てくると、ようやく死体遊びは終了したらしい。あのXはどこかに消え、警察官が"事案"の確認を行っていた。人はすっかりいなくなっていた。日もすっかり暮れていた。

「…早く帰ろ」



 ※


 パチッ


『…ではX情報です。本日のXシステム適用者は51名でした。Xシステム利用"事案"は12件。うち、殺人が1件、強盗が5件、強姦3件、その他3件。本日の通常犯罪は、0件です。これで53日連続犯罪ゼロとなりました。続いて、為替と株の』


 ブツッ

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