第20話 本井将兵と彼らの覚悟
私、着替えてくる。そう言って彼女は控室の方へと戻っていった。
彼女の瞳に驚きを隠せず何も言えない俺は、待合室で再び一人となった。
「結局、誤解は解けなかったな」
脚に力が入らなくなり、その場で壁にもたれかかるようにして、床へと座り込む。
「なんだってんだよ……ちくしょう」
彼女の演奏は、彼女のものだった。彼女らしく精一杯輝いていた。
対して、俺の演奏は平凡で捉えどころがなく無機質でこの上なく退屈でどうしようもないくらいに面白みに欠けている。そんな演奏をしても彼女には到底かなわない。一位にはなれはしない。
一体俺はどうすればいいんだ。
「好き放題言われやがって」
へたり込んでいる俺の前に一つの影が落ちた。
顔を上げてみれば、茶髪少年が俺を見下ろしていた。
「よう!」
……だれだっけ。
俺の返事がなかったのをいぶかしく思ったのか、何度も「俺だよ、俺」と繰り返し声を掛けてくる。
「もしかして俺のこと分かんないのか」
半分涙目になりながら、へたり込んでいる俺の前まで顔を近づけてくる。
「よく見ろ、よく」
自分の顔を指さしながらなんとか思い出させようとしてくれているが、俺は思い出すことができない。
「ごめん、思い出せないや」
神代さんと同様に、俺は自分のことばかりで彼のことをまったく見ていなかったのだろう。見ようとしていなかったのだろう。
「ガーン! まじか! まじなのか! 宿敵のライバルの名をお前は忘れてしまったのか!」
目の前の少年が、へたり込んでいる俺の前でへたり込む。
外の人から見たら今の俺たちは互いに頭を下げ合っているように見えるだろう。
彼は急に立ち上がり、俺に指を突きつける。
「じゃあ、今改めて名乗らせてもらう。俺は本井将兵。いつもお前と二位を争っている関係だ。よく覚えておけ」
そうか、この子が二位のコンクールでは俺が三位ということか。
「お、おい。何か言うことはないのか」
一体彼は何を求めているというのだろう。
「あーもう、埒が明かないな」
ワックスで立ったショートの茶髪を手でかき乱し始めたかと思えば、再び指を突きつけてくる。
「早紀と同じく俺もはっきり言わせてもらうぜ――落ち込んでんじゃねえよ! お前はお前の求めるままに演奏すればいい。お前が譜面通りに正確に弾くのを求めているならばそうすればいい。ピアノもそれに応えてくれる。お前が元気いっぱいに明るくこの曲を奏でたいと思うなら、そうすればいい。お前の想いをピアノは表現してくれる。もしどんな風に演奏したいのかはっきりしていないのなら、今のお前の、感情を曲にピアノに込めてやればいい。第一、自分なりの演奏をしたいと思っている奴なんて、俺たちの中では少数だ。楽譜通りに弾けたらそれで満足してる奴らが大半だ。だけど、俺たちはそれじゃあダメだ。そんなありきたりで面白味のない演奏じゃあ、俺たちが弾く意味がない。つまり、俺が言いたかったのは、自分らしい演奏っていうもんはいつまでも死ぬまで探し続けるようなものだってこと。俺だって今も、このコンクールでも自分らしく演奏するためにもがき苦しんでいる。お前だってそうだろう。確かに今のままの演奏をしたんじゃあ、不十分かもしれない。聴衆は満足してくれないかもしれない、反感を買われるかもしれない。それでも、そんな未完成で未熟な演奏でも、俺たちは舞台に上がって表現しなくちゃならない。その覚悟がお前にはあるのか」
彼は再び床にへたり込む。その行動は先ほどと同じだけれど彼の表情は違っていた。
「俺は――」
彼、本井くんの言う通りだ。俺には覚悟がなかった。コンクールで負けてもいい理由を言い訳を探している自分がいた。「まだ自分らしく演奏できていないから」「演奏する目的を見失ってしまったから」――言い訳はこれでもかというくらいにたくさんあった。その言い訳に甘んじていた俺がいた。
「お前、今いい顔してるよ」
そう言い残して彼は待合室を後にした。
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