第18話 彼女の想い

 控室に入ると、そこには俺たちがいた。俺たち音楽家がいた。

 楽譜を見ながら指を動かす人――床に座り込み目を瞑っている人――椅子に座り天井を見上げている人――祈るように手を組み合わせている人。

 ここにはいろいろな人達がいるけれど、彼は彼なりに、彼女は彼女なりに、そして俺は俺なりに、これまでを積み重ねてきた。精一杯向き合って取り組んできた。

 その一つの集大成が今日。

 いつも見ている光景が、いつもとは違って見える。

 これまでは周りに目を向けてこなかった。いつも自分の殻に閉じこもっていた。そんな俺に、聴衆の心を震わせるような演奏ができるはずもなかったんだ。

 これから舞台に上がる演奏者たちに視線を巡らせていると、彼女――神代さんがいた。

 彼女もこちらの視線に気が付いたようで、近づいてくる。

 俺の目と鼻の先ほどの距離に顔を近づけると、彼女は口を開く。

「ねえ、どうして千春さんが来たの? 最近はまったく顔を見せていなかったのに」

 彼女から俺の心をくすぐるような香りがしてくる。

「ど、どうしてって言われても……千春さんが久しぶりに俺の演奏を聴きたいって言ったから」

 彼女が顔を寄せてくるだけ、俺は体を後ろに退けていく。

「そう」

 彼女は顔を遠ざけ、視線を明後日の方向に一瞬向けた後、俺の瞳を見てはっきりと言った。

「私、今のあなたの演奏が好きじゃない」

 ……。

「もちろん、失礼だとは思う。ピアノは、演奏は、音楽は、本来自由でしかるべきものだから、他人の演奏に文句を言う私はとても愚かだと思う。それでも私は言わずにはいられない。……これまでずっと我慢してきたけれど、いつかは戻ってきてくれると思っていたけれど――何年待っても戻ってこなかった。いい機会だしここではっきり言わせてもらう」

 ……俺は何を言えばいいというのだろう。怒りの感情はまったくない。俺自身が俺自身の演奏を好きではないのだから、、むしろ嫌いと言っても過言ではないのだから。

『一番、神代早紀さん。入場をお願いします』

 控室にアナウンスが響き渡る。

「じゃ、そういうことだから」

 彼女は俺の横を通り過ぎ、控室を出ていった。

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