第17話 神代早紀

 コンクール当日。

 俺は会場に足を運んでいた。

 これまで通り、練習はしっかり行ってきた。

 だけど、これまで通りだということは――。

「和音ちゃん! こっち、こっち」

 会場に入ると、両手を高く振っている女性がいた。千春さんだ。隣には、香織と香織のお父さんもいる。

「和音ちゃーん! 和音ちゃーん!」

 会場に来ている人たちがこっちに目を向けている。めっちゃ恥ずかしい!

「和音ちゃーん!」

 香織まで俺のことをそう呼び始めた。

 俺は急いで彼女たちのもとへ駆け寄る。

「……ちょっと、やめて、くださいよ。人前で、その、呼び方、は」

 膝に両手を当て、体を何とか支える。少し走っただけで息が上がっている。

 息が落ち着くと、顔を上げる。

「がんばってね。客席からだけど、応援してるから」

 さきほどまでの元気溌剌な調子はどこにいったのか、千春さんは真面目な表情を浮かべ、俺の両肩に手を乗せ、俺の瞳を見つめていた。

「はい」

「うん、さすが和音ちゃん」

 彼女は笑顔を浮かべ、俺の方から手を離した。

「……だから、和音ちゃんはやめてほしいんですけど」

 俺のつぶやきは千春さんの耳には届かなかったようで、「今日は焼き肉ね! さっそく店の予約をしなくちゃ」と千春さんは元気いっぱいだった。

 それは、そうと――。

「おい、香織」

 俺のもとから逃げようとしていた香織は、ビクっと体を震わせた。

「……なに、かな」

 彼女の顔がゆっくりとこちらに向けられる。

「さっき、俺のことを『和音ちゃん』って呼んでたよな」

 香織は目を泳がせる。

「え、なんのこと。和音の空耳でしょ」

 彼女のもとへ一歩一歩近づいていく。その度に彼女の目が泳ぎ始める。

 俺は両手の握りこぶしで彼女の頭を挟み込んだ。

「ちょ、ちょっと、痛いってば。ごめんなさい! 確かに言いました! 『和音ちゃん』って言いました!」

 俺の拳が離れると、香織は自分の頭をさすり始める。

「もー、かなり痛かった。ぼうりょく、はんたーい」

 口をタコのようにすばませながら、ブーブー文句を言う香織。

 お仕置きが足りなかったようだな。よし、次はもっと――。

「あら、早紀ちゃん!」

 千春さんが目を向ける方へ視線を走らせると、そこには一人の女の子がいた。肩ほどまである黒髪、目鼻の整った顔立ち――どこかの女優さんだろうか。

 思わずそう感じてしまうような美しさを放っていた。

 周りにいた見知らぬ人たちも彼女の姿を見て、声を上げている。

「お久しぶりです、千春さん」

 一瞬こちらに視線が向けられた気がしたが、早紀と呼ばれるその女の子は、そのまま千春さんとの会話を続ける。

「お会いするのは、小学生のとき以来でしょうか。お元気そうで何よりです」

 彼女の口から紡がれる言葉は、この場の全員の心をわしづかみにするみたいに透き通っていた。

「ところで、今日はどういったご予定で?」

 大人の微笑を漂わせながら、彼女は千春さんに問いかけた。

「この子の演奏を見に来たの」

 千春さんに腕を引っ張られ、俺はよろけながら彼女の前に出る。

 向かい合った彼女の瞳は、これまでに見たどんな瞳よりも透き通っていた。

「……鳴守くん」

 どうして彼女が俺の名前を知っているのか。突然の出来事に言葉を返すことができない。

 彼女はハッとした表情を浮かべると、俺の瞳から視線を逸らした。

「失礼ながら、千春さん。今のこいつの演奏を聴いても、何も『ない』と思いますよ――それでは、私はこれで」

 彼女は千春さんに一礼して、そのまま控室の方へと向かっていった。

「……なに、あの子。いやになっちゃう! 和音、あの子誰なの?」

 ……まったく記憶にない。どこであの子と知り合いになったんだろう。

「え! 和音ちゃん覚えてないの! 早紀ちゃんだよ。神代早紀。小学生の頃からピアノコンクールに一緒に出てるじゃない。ほとんどのコンクールで優勝しているじゃない、彼女」

 …………。

 記憶をたどっていくと、確かにそういう名前を見かけたような気がする。頭の片隅に手を伸ばすような感覚。それにしても――。

「それにしても、一位の子を覚えていないなんて、和音はどうかしてるよね」

 なぜだかどこか嬉しそうな調子で、香織がつぶやいている。

 確かに俺はどうかしているのかもしれなかった。一位の子の名前を覚えていないだなんて。あれだけ一位が獲りたいと言っている俺が。

『会場のみなさま。まもなく開演いたします。ホールにお入りください』

 俺は心に靄がかかったまま、ホールに入っていく香織たちを見送った。

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