2話 私は生きる覚悟がないの

 あれからどれだけ経ったのだろう。

 

 ある年の5月のことだ。

 一種の病気が流行した。初めはただの病気だと言われていた。

 状況が一変したのは、一人の感染者が原因だった。その人は、変わらずいつもの平穏な日々を過ごしていただけだった。家族とただ『幸せ』な時間を過ごしていただけだった。ところが、ついさっきまで笑顔で話していた『幸せ』な時間は、絶望と恐怖でぬりつぶされた。感染者は家族に襲い掛かったのだ。それだけではない。まるで、飢えてでもいるかのように、家族を食べはじめた。もちろん、他の者は絶叫したり、固まったり、逃げようとしたりと恐怖に支配された。すると、恐怖に呑まれた者は感染者となった。そうして感染者が増え、本来の姿をあらわにしたのだった。それをみかねた者が、彼ら感染者達を被害が広がる前にどこかへ消し去ってしまった。つい先ほどまでの絶望が平穏に変わった。あまりの変わりように、人々は夢だと思ってしまった。また、感染者の知り合いは感染した人のことを忘れていた。「そんな奴は知らない」と言うであろう。

 そんな絶望を知る者は、もうここにはいない。「ある者」と「感染者」以外は。


「・・・・・・・・・」

「あー、なんでもない。気にしないで」

 そう言って、彼女は笑顔をつくった。

 その返事をするのなんて簡単だ。「そうか」とでも言って流してしまえばいい。

 簡単だ。

「嘘が下手だな」

「そう?」

 口をついて出たのは、本心だった。

 彼女は笑顔をつくるのは、とても上手い。嘘だって、上手い。上手すぎた。

 そんな言葉を聞いてもなお、笑顔で気にも留めていないような口調で答えるのは、君の心が本当にえぐられたのだろう。もしくは、もう心がないのかもしれない。

「そんな話よりさ、もっと面白いことがあるわよ」

「は?別に面白い話なんてしてな・・・」

「真面目だなぁ」

 ボソッと彼女は呟いた。

 その表情は、まるで『化け物』だった。

 俺が立ち止まっていると、彼女は古びたカビ臭い部屋の隅にある小さな窓を開いた。

 バッと風が勢いよく部屋に入ってきた。

「ほら、もう『化け物』が起きる時間になったわ」

 彼女の揺れる髪の隣には、大きな目が除き込んでいた。

 平然と笑う彼女を見て、俺は固まった。

 ああ、なんだこれ。

「えっと、なんだ・・・それ」

 除き込む大きな目に、指を差して俺は言った。

「これが君の戦う相手?」

 何で疑問形なんだよ。そう思ったが、ツッコミを入れている場合ではない。

 どうすんだよ。めっちゃ見られてるじゃんかよ。そいつに見つからないためのこの秘密基地だったんじゃないのかよ。

「・・・今から戦えってか?」

「いやいや、さすがにそこまで鬼じゃないから私」

 ホッと安堵の息を漏らした。

 え…じゃあ、どうすんの。

 そう思うと彼女は口を開いて、今までで一番の笑顔で言った。

「じゃあ、お手本としてまず、私が戦うから。よく見といてね」

 俺がその言葉の意味を理解した頃には、彼女はもう化け物の目の前にいた。

 助けようにも、恐怖で俺は体が動かなくなってしまっていた。

 よく見ると彼女はこちらを向いて笑っていた。いや、よく見とけとばかりに狂気に満ちた笑みをうかべていた。

 次の瞬間、化け物が動き出した。

 かと思うと、彼女は勢いよく剣を出し、化け物に向かって刃をむけた。そして、人間とは思えないぐらい跳ぶと、化け物の背中に着地し、刃を刺した。

 やったかと思って、俺は歓喜の声を上げようとしたが化け物はそんなことには一切動じていなかった。

「ふふっ」

 彼女の笑い声が微かに聞こえた。

 笑った?

 この状況でも笑う彼女は一体何なんだ。怖いと言う感情はないのだろうか。

 そんな他所事を考えているうちに、決着はついていた。

 背中に刺した刃を力強く動かすと、化け物は真っ二つになった。

 緑色の液体が飛び散って、俺にも少しついた。

 化け物の血なのだろうか。

 緑色に染まった彼女は、その後もすごいスピードで化け物を切り刻んでいった。

 化け物よりも彼女のほうがよっぽど怖かった。



「はい、終わったわよ」

「・・・うん。そうだな」

 あまりの衝撃に言葉が出なかった。

 よほどたくさんの化け物と戦ってきたのだろう。

 彼女は、微塵も動揺などしていないように見えた。

 だからだろうか。

 『化け物』よりも『化け物』らしく見えた彼女は確かに怖かった。

 でも、それと同時に美しくもあった。

 少し触ったら、儚く消えてしまいそうなほどに。

「・・・なんで少し楽しそうだったんだ?」

 彼女が笑ったときのことを思い出して、そう尋ねた。

「楽しそうに見えた?」

「うん、まあ」

「そう、それでもいいけどね」

 楽しかったわけではないようだった。

「どういうことだ?」

「いや、別に。ちょっと違うかなと思っただけ」

 近くにあったタオルで、緑色に染まった体を拭きながら彼女は言った。

「楽しかったって言ったらそうだけど、理由が違うかな」

 だいたいは体を拭き終わると、彼女はタオルを首にかけた。

「死ねるかもしれないと思って、楽しかった」

 何を言っているんだと思った。

 「生きたい」から戦っているんじゃないのか。

「私は命令に従って戦っているだけよ」

 この子に意思はないのだろうか。

 この子はどうしてそこまでしてその人物の命令に従っているのか。

 聞きたいことはたくさんあった。

「死ぬ覚悟がないと誰もが言うけれど私は違う」

 ただ今は聞くんじゃなくて、俺の気持ちを伝えたい。

「私は生きる覚悟がないの」

 何でそんな死ぬ前提なのか分からないが、とにかく俺は宣言するように叫んだ。

「俺は生きたい」


 

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