弍ノ弍 水神ノ里(二)
『水神様』がお隠れになったという情報はあっという間に村全体へと広まり、村人たちに不安と恐怖が伝染していく。
与次郎たちが『水神様』の話をきちんと聞くのは初めてのことだった。
なんとなく、知ってはいたが、詳しいことは知らない。
それを聞いたときは、ある種の神秘の世界をみたようで興奮し、底知れない未知の世界に畏怖の念を抱く。
「でも、ただの守り神でしょ」
話を聞いた与太郎の言葉に母が激怒した。
「そんなこというものではないの。あのお方は、この村を長いことお守りしてくださっていたのよ。そのようなこといったら、あなたもただでは、すまされないわ」
どれほどに信仰が厚いのだろうか。
兄弟二人には理解できなかった。信仰が厚いのは、父も同じはずだ。
「でも、どうして僕たちに教えなかったの?」
与次郎が尋ねると、母は面食らったような顔をした。
「その……えっと……」
母は困惑する。聞いてはならなかったのだろうか。
「そういう決まり」
「はい?」
「よくは知らないけど、そういう決まりだったのよ」
わけがわからない。
どうやら子供たちに水神様の存在を知られないようにしていたらしい。そもそも、湖の存在さえ知らなかった。
村は相変わらずの不作。食べるのもやっというところだ。それに拍手をかけるかのように、ようやく実った稲が一晩でなにものかによって荒らされるという被害が横行するようになっていた。
そのために困窮極まりない。
「また食い荒らされとった」
「今日も……ですか?」
畑から戻ってきた与作は日に日にやつれていく。あまりの被害の激しさに、精神的負担が大きくなってぃるようだ。
「父ちゃん。なにがおこっとるのじゃ?」
与太郎が尋ねた。
「わからん」
「でも、この前、村の会議が開かれたとやろう?」
「そうやけど、こがんことになるとは思うとらんやったんじゃ」
「また、話し合いをすっと?」
「そうなるじゃろうな」
与次郎は、与作と朔太郎の会話を隣で話を聞いていた。
与次郎の脳裏には、『天導神』を巻きつくモノが浮かんだ。
うっすらとしか見えなかったが、あれは白い蛇に見えた。本来ならば、幸福をもたらすといわれる白蛇。けれど、あの得体のしれないなにかは、決して幸運をもたらすものではない。ただ恐怖した。
あれは何だったのだろうか。
与次郎には、この不況があれによるもののように思えてならない。
「父ちゃん、いいよったよなあ、水神様がおらんごとなったって……」
与次郎はあれが『水神様』ではないかと思った。確証はない。けれど、そうとし
か、考えらない。
もしかしたら、『水神様』の怒りをかったのかもしれない。
あの日からだ。あの日を境に何者かの襲撃が始まった。
この村の中央あたりにそびえる小高い山。その中に湖が存在していた その湖には、村を見守り続けている『水神様』が住まわれる場所としてあがめられ、麓に社が築かれていた。
いつのころかはわからない。けれど、はるか昔から先祖代々、村の男たちは毎日、交代で社に供え物をしており、その日は与作の番だった。
与次郎たちは知らない。父たちがそのようなことをしていたとは気づきもしなかったが、いま思うと年に数回山へ出かけている姿を見ている。何度か尋ねたけれど、父も母も今度ねとしか答えてくれなかった。
その日、与作が社で最初に見たものは蛇の亡骸。社へと続く道に多くの蛇の亡骸がころがっており、奇妙に思いながらも進んでいくとそこには無残に崩れ落ちた社だったものがあったのだという。
それを見た瞬間、与作は『水神様』がこの世を去ったと思った。なぜかはわからないが、なにかの事態がこの場所で起こり、『水神様』がこの世を去らざるをえなかったと思ったのだ。
水神様がいなくなったというだけで、村人たちに不安がよぎるのも必然。それほどに『水神様』を守り神としてあがめていた。
そんな村人たちを揶揄するかのようにこのような被害が続出している。
「わからない。でも、社は立て直した。それで収まってくれたらよかとけど……」
与作は田園のほうへと視線を向けた。ようやく米の収穫時になっている。遠くをみると、荒らされたままの田んぼの姿もあった。いままでこの田んぼは被害をうけていないが、もしかしたら明日には荒れ地になっているかもしれない。そういう不安がよぎる。
「今年は、どうもできんかもしれん。ここの米が無事だったとしても、後藤様へ年貢を納めることができるかどうか……」
「それはどうにかなるだろう」
いつの間にか朔太郎の姿があった。
「後藤様は情のあるお方……。事情を話せば、おそらく免除してくださるはずだ」
朔太郎は笑みを浮かべているものの、心もとない。
後藤様。ここ当たり一体を仕切る大名の棟梁後藤助明様はたしかに温厚なお方として知られている人物。
本当に完全に免除してくださるのだろうか。
それよりも領主様に救いを求めるべきではないか。
「領主様にお願いできないのか?」
大人たちが今月の年貢はどうすべきか話し合っているときに口をはさんだ。
「お願いしようとしているだろう?与次郎」
「そうじゃない。犯人を捕まえないといけないってことだよ」
「犯人?」
「畑を荒らした下手人‼いくら年貢を免除してもらっても、畑を荒らすものをどうにかしないと、結局同じじゃないか」
与次郎の訴えにようやく大人たちは気づいたようだ。
(この人たち、バカだよね。ものすごーくバカだ)
そんな突っ込みを心の中でしつつ、大人たちの答えを待った。
「そうか。そうじゃ。そうしよう」
そういったのは村長だった。齢六十を超えたばかりの坊主頭の老人は、いかにも自分か思い立ったかのようにポンと手を叩く。
「さっそく、領主さまの元へいくことにしよう。与作。お供を頼む」
「わかりました」
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