弐ノ壱 水神ノ里(一)

 日本国の都・平安京より、遠く離れた筑紫洲つくしのしまにある肥前の国。

小高い山々に囲まれる小さな集落があった。

岩山という土地柄のため、稲作を耕すには、いささか適さない土地柄。それでも、人々は長年の営みと自然の恵みの中で、困難ながらも生活を続けていた。

 都では、勢力を伸ばしている武士たちの醜い争いが絶えないと聞く。その影響はこの九国にも及びつつあるという噂はあるものの、ただの村人である彼らのしてみれば、ただの戯言かなにかのような遠い世界の出来事。いまの生活を維持していくことで精いっぱいだった。

 最近では、大雨、洪水、干ばつなどの災害も起こっている。

 天災地変が続いているせいで、彼らの生活も自然と疲弊してしまう。

「大変なことになってしもうた」

「どうしたんか? 与作よさくよ」

山の神に供物を備えに行っていた与作が、真っ青な顔で帰ってきた

 それゆえに、息も絶え絶え。友人の朔太郎さくたろうは、水を渡す。いっきに飲みほほした与作は、落ち着きを取り戻した。


「いったい、なにがあった?」 


 与作の異常さに気づいたのか。いつの間にか周りに村人たちが集まっていた。


「あんた……」


「父ちゃん?」


 その中にいた与作の妻子が心配そうに近づいてきていることにも気づかず、与作はまるで恐ろしいものをみたかのように瞳孔を見開かせ、幼馴染みの朔太郎さくたろうへ訴えかけていた。


「神様が……」


「神様がどうした?」


「水神様が、お隠れになられた‼」


 与作はがそう叫ぶと、周囲が騒然とする。

 その中にいた与次郎よじろうは、兄を見るが、兄はただ首を横に振るう。

 母のほうをみると、口を手で押さえながら震えているではないか。与次郎は、母の手をぎゅっと握り締めた。母は、はっとしたように振り返る。すると、兄もまた母の手をにぎる。


「母ちゃん。どうしたの?」


「震えてる……」


 母は、涙を浮かべながら。まだ幼い与次郎たちを抱きしめた。


「大変なことになったのよ」


 母の声が震えている。よく理解はできないが、尋常でないことが起きたことだけは、幼いながら理解できる。


「そんなに震えないで」


「僕らがいる。父さんもいる。大丈夫だよ」


「ありがとう。すまないね」


 母の体はすでに震えてはいない。子供たちの頭をなでると、立ち上がり、大人たちのほうを振り返る。


「水神様がお隠れになっただと‼」


「なぜ?」


「なぜ?」


「とにかく、長老様のところへ参りましょう‼」


 母に隠される形で大人たちの動向を見ていると、父が数人の大人たちを連れて、どこかへ向かおうとしているところが見えた。


「父ちゃんたち、どこへいくの?」


「村長さんのところよ。水神さまがお隠れになったことを伝えにいくの。それからの私たちがどうすべきかを尋ねるのよ」


 父は振り返らない。その代りに母が答えた。


「ねえ、水神さまって……。あそこにいるの?」


与次郎は山頂に聳え立つ大きな岩を指さした。


「だめよ。指を差したら……」


母親は無理やり指をさすのをやめさせた。

与次郎の視線の先には、『天導神てんどうしん』という大きな岩があった。

それは太古昔からあるという岩で、草木も生えず、ただ天を貫かんばかりに聳え立つ岩。

まるで天へと導く神のごときもの。

だから、『天導神』なんていわれて、崇拝すべき対象となっているらしい。けれど、与次郎にしてみれば、ただの大きな岩だ。信仰の対象ではない。

それなのに視線を向けてしまったのは、自分でもわからない。


「あっ」


 与次郎は小さく声をもらした。


「どうした?与次郎」


 兄の与太郎よたろうはその小さな声に、与次郎と同じ方向へ視線を向けた。


「あの岩がどうかしたのか?」


 与次郎は、微動さえせず、岩を見上げていた。


「お兄ちゃん、なんか、あの岩に巻きついているよ」


 自分の放つ言葉がぼやけているように感じた。

 自分ではなく、別の正体不明のなにかに言わされているような感覚。

 夢なのか。

 幻なのか。


「巻き付いている?なにもないぞ」


何の返答を聞いて、見えているものが幻覚に過ぎないという不安がよぎる。それでも、あれは、動いている。与次郎には聡明に感じられていた。

けれど、やがて、聡明さは失われて、ただの幻想が空想の中へと溶け込んでいく。見えていた岩を蛇行していたものは空へと消え去り、与次郎の眼には、相変わらず周囲を統治しているかのように聳え立つ岩の姿だけだ。

それでも、一瞬目に映ったものに恐怖を感じた。背筋に冷たいものが走り、思わず身震いする。


「与次郎?」


 兄の声に与次郎は我に返る。


「お兄ちゃん……」


与太郎はた、与次郎の頭を優しく撫でた。


「わかっている。与次郎はちょっと変わっているからな」


「兄ちゃん」


 与太郎はそれ以上なにも言えず、再び『天導神』を見上げた。


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