丗伍ノ壱 妖(一)

 少女は、身一つで、旅立った。

 高瀬の里から後藤家の屋敷までの距離は、さほど長いほうではない。

 女子の足でも、一日もかからないほどの距離である。

 朝早く出発をしたのだが、いつのまにか日は、高く上っていた。

 万寿は、ここらで一休みしようと折れた木の幹の上に腰掛け、持ってきたおにぎりを食すことにした。

 最近ようやく手に入った米。

 それで今朝方、万寿は弟と母親のためにお米をたき、その残りでおにぎりを作った。

 おにぎりはほんの一握り。

 それだけでは、体が持つとは、到底思えない。

 万寿は味わうかのように、たった一つのおにぎりを少しずつ口に入れた。

 周囲を見回すと、埋め尽くされるほどの木々が立ち並び、舗装されていない道には雑草が高く伸びている。

 聞こえてくる小鳥のさえずり、木々の隙間から見える空と揺れる木々たち。

 静かだ。

 動乱の世になりつつある時代というのに、自然という世界はなんて静かで穏やかなのだろうか。

 ほんの少し、人の世界へ踏み込めば、一瞬で崩れ去ってしまう静けさ。ここには、おそらく魑魅魍魎など存在しない。いるのは、おだやかな日々を過ごすアヤカシたちだけだろう。

 すべてがそうならばよい。

 けれど、世の中というものはいつの時代もうまくはいかない。どよめくのは、いつも人の欲望


 時は平安の世。


 最近、武士たちの動きが怪しくなっているという。

 武士は本来、貴族たちを守るためにのみ存在していたはずだった。しかしながら、時代の流れだろうか、武家の中には、天皇や貴族から政治をのっとろうという動きが存在するという噂は、肥前国にも伝わってきている。

『時期に帝の統べる世は終わるだろう』

 そんなことを考えてしまうものたちさえもいた。

 帝の世が終わる。

 そんなことがあり得るのだろうか。

 帝は神だ。この国でもっとも愛おしい高貴なる存在。それを蔑ろにして、どのような国ができるというのか。万寿には想像もつかない。

 これから、日ノ本はどうなっていくのだろうか。

 武士の世。

 貴族が政治を動かすのではなく、武士が政治を動かす。

 そんな時代が迫っている。

 平安という世が終わり、新しい世……。

 それを感じさせてしまうのは、事実、この九国でも武士たちの争いが繰り広げられているせいだった。

 武家の二つの勢力。

 源家と平家。

 どちらも元は天皇家とゆかりのある血族らしいのだが、なにかとこの二つの一族は仲が悪い。

 常にお互いを蹴落とそうとしているということだ。

 いま、現在優勢なのは、平家で、いつかは平家が天下を統一するのではないかという噂が伝わっていた。

 万寿にとっては、正直いってどうでもいいこと。

 日ノ本を変えるほどの力など、ただの女子にあろうはずもない。ただ目の前の願いだけで精いっぱいだ。


 願いは一つ。家の再建


 私は、欲張りなのでしょうか?


 万寿は、だれにでもなく問いかけた


 私は、わがままでしょうか?


 答えてくれるものなどいない。


 答えは出ている。


 たった一つの願い。愛する家族のためにできることをやるだけだ。

 自分ができることがあるとすれば、『生贄』になること。

 それ以外に家族を救う道はないと思った。

 そうしたら、必ず道は開ける。

 母のことも小太郎のことも必ず良しなに計らってくれるに違いない。

 おにぎりを食べ終わり、立ち上がった。


「ううううううう」

 再び歩みだそうとしたとき、奇妙な音が響き渡った。

 万寿は、はっと振り返る。

「うううう」

 うめき声だ。人とも獣とも思えぬ、聞いたことのない声。

 万寿の鼓動が高まっていく。それを落ち着かせるように荷物を抱きかかえながら、周囲を見回す。

「なに?」

 万寿の顔が青ざめ、声が震える。

 万寿は、荷物を握り締めたままで目的の方角へと走り出した。


 ううううううう


 うめき声なのか、人の声なのか。

 狂っているような声。

 その声が徐々に万寿のほうへと近づいてきている。


(助けて!だれか!!)


 万寿は心の中で叫んだ。

 しかし、ここは山の奥だ。


 助けにくるものなどいるはずがない。


 道を間違えたのだろうか。



 確かに後藤家へといく道を歩んでいるはずだ。

 予定では、もうそろそろ山から出ていてもいい頃だというのに、一向に出口が見えない。


 ウオー


 狼の遠吠えのようなものが聞こえてくる。


 それは、確かに自分を狙っている。

 思い過ごしならばよい。

 しかし確かに……。

 逃げなければ、今すぐに……。

 この場所から

 どこへ逃げる?


 どこへ?


 万寿は地面から伸びた蔓に足を絡め取られ、そのまま地面に倒れこんでしまった。


「イタッ」


 万寿がゆっくりと起き上がると、足に痛みが生じた。

 気がつけば、衣類が破れ、血が滲み出ている。


 ウオー


 声が徐々に万寿のほうへと近づいてくる。


 風がざわめく。


 がさがさと草が揺れる音が聞こえてくる。


 逃げなければ、早く……。

 お館様の元へといかなければ、そうしなければ……。

 ここで朽ち果てるわけにはいかない。

 お役目を果たさねばならない。



 がさがさ

 バサバサ


 音が少しずつ万寿のほうへと近づいてくる。




 早く見つかってしまう。

 恐ろしいものに見つかってしまう。

 万寿は立ち上がると再び走り出そうと足を進めた。


 がさ!!


 しかし、その行為は一瞬でさえぎられた。

 万寿のすぐ目の前に、見たこともない大きな獣が現われたのだ。


 獅子の頭に異常に長い毛に全身を覆われており、体長は万寿の二倍以上もありそうな体つきをしている。

 血のような赤い眼は、鋭く万寿を威嚇している。


「あっ妖?」


 万寿は声を上げた。


 そして、荷物を抱きしめると逃げようと試みたが、足がまったく動かない。

 妖は、万寿のほうを捕らえて、うなり声をあげる。それは確かに獲物を威嚇している。


 食われる。


 この得体の知れない妖に食われて

 自分はここで死ぬのでないだろうか。


 激しい恐怖が万寿の中で襲い掛かってくる。


(死ぬ?死ぬのか?私は役目を果たさないままで)


 脳裏には弟の顔が、そして、母の顔が思い浮かんだ。


 死ぬわけには行かない

 こんなところで死ぬわけには

 私はやるべきことがある

 だから……


 万寿は勇気を振り絞って、立ち上がり走り出す。

 妖はすぐさま跳躍し、万寿の行く手を再び阻んだ。

 万寿は恐怖を必死に堪えて、妖を睨む。


(なぜ?)

 妖はなかなか襲ってこない。牙をむき出しながら唸り、威嚇を続けているだけだ。

 いますぐ立ち去れ

 妖がそう告げているのではないか。

 それならば、逃げ切れるかもしれない。かすかな希望だった。


 万寿は再び背を向けると走り出した。

 しかし、再びア妖は、万寿の行く手を阻む


「そこをどけて!私にはやるべきことがあるの!だから、通して!!」


 万寿は叫んだ。

 しかし、妖はそこから離れようとしない。

「どうか、お願い! 私はいけねばならないの!だから、そこをどけて!」


 必死に、懇願した。

 しかし、妖は万寿を睥睨するばかりである

 やがて、その大きな口を開き、遠吠えをあげたかと思うと、万寿へ向かって跳躍した。


「きゃあああああ!」


 万寿は荷物を握り締めたまま、目を強く閉じた。


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