拾陸ノ壱 白縫立ツ(一)
「なんですって⁉八郎たちが?」
「はい。とくに須藤殿のけががひどいようでござる」
八郎たちがこの阿蘇を出立してから、十日以上が過ぎたころ、白縫の元へ訪れた八郎の家臣が一人、与三の言葉は耳を疑うものだった。
悪七別当による八郎の号令を聞いた与三は、さっそく各地方に散らばっている八郎の家臣たちに知らせていったのちに、松浦の地へと足を踏み入れた。すると、そこいたのは、意識の戻らぬ家李と意気消沈している八郎の姿。
なにがあったのか、尋ねると、紀平治は事細かに事の顛末を教えてくれた。それをそのまま、白縫に伝えたのだ。
それは、あの場所に居合わせていた紀平治の指示だった。
紀平治は、阿蘇の地を出立する前、白縫と約束を交わしている。
「おねがい、紀平治。もし、なにかあったら、すぐに私に伝えて頂戴。どんなことでも構わないわ」
そう告げる白縫の眼差しは、ただひたむきな思い。あふれる情は、だれに向けられているものなのか知っている紀平治には迷いがない。
「もちろんです。必ず姫にお知らせします」
その言葉に白縫は、絶対よと念を押した。
だから、いち早く駆け付けた家臣たちの中で一番足の速い与三に、阿蘇の白縫いの元へ行かせたのだ。
本来ならば、主の許可が必要かもしれない。しかし、当の八郎は毒にやられていたこともあり、指示を仰ぐ余裕もない。
いまやるべきことがあるとすれば、白縫との約束を果たすこと。
「いいのかい」
「かまわん。御曹司の愚痴ならあとで聞くさ。とにかく、姫に知らせてこい」
「そこまでいうなら仕方ねえ。おいらがひとっ走りいってくるでござる」
「ああ、頼む」
そういうことで、与三は、すぐさま阿蘇へやってきたわけだ。
「それで、八郎は?」
白縫は、尋ねた
「八郎様は、毒にやられていたらしいでござるが、毒は抜いたから元気になるはずとのことだけど、おいらが見る限り、そう思えんかったでござるよ。ありゃ、ずいぶんと意気消沈していたでござった」
白縫は、一瞬眼を見開き、顔を伏せる。
「そう……」
白縫が、短くつぶやいた。
「御曹司が?そんな」
すぐそばで話を聞いていた八代の顔は、青ざめてしまっていた。信じられないのだ。あの気高く自信に満ちた主の姿しか思い浮かばない八代にとって、八郎が意気消沈している姿など想像もつかない。どのようなことがあろうとも、その気高さを忘れないのが、彼女の知る主の姿であった。それがいまは、その生気さえもなくしているということは、いったいどれほどのことだったのだろうか。
其れを思うと、胸が痛む。
八代は、不安な眼差しを白縫へと向けた。
白縫もまた、傍若無人で気高い夫の沈んでいる姿など想像できないでいるのだろう。だからこそ、彼女は驚きながらも、自分がやるべきことを考えている。
「けど、八郎の落ち込んでいる姿っていうのは見ものよねえ」
突然、先ほどまで神妙な面持ちでいたはずの白縫は、突然なにが含んだ様な笑を浮かべている。
それには、八代は眼を丸くした。
「そりゃあ、見ものでござった。あれは見もの」
しかも、彼女のつぶやきに、暢気の答える与三の神経を正直疑いたくもなる。
いったい、このお方たちは、御曹司を心配しているのだろうか?どうみても、楽しんでいるとしか思えなくもない。
八代は、不安になった。
「これは見に行くしかないわねえ」
「姫!」
八代が叫んだ。
「いいじゃない。八郎がどんな面しているのかみてみたいじゃない」
「白縫。君はそちらが楽しみなのだな」
「あら~。父上~」
いつのまにか、白縫の父である忠邦が顔を出していた。
与三と八代は、この屋敷の主に頭を垂らす。
「話は聞いた」
「ちょっと、盗み聞き?」
「そういうな。わしとて、為朝殿のことももとい、家李殿のことも心配しているのじゃよ。して、白縫、行くつもりか?」
「はい、もちろんですわ」
「為朝どのの馬鹿面でも見にいくつもりか?」
「父上!そのようなことを言うべきではございませぬ」
そういいながらも、白縫の口元は笑みを浮べている。
「それは悪かったな。行って来い。為朝どのを慰めてきてくれぬか?」
「もちろんですわ」
白縫が、張り切って答えた。
そんな親子の会話に八代は少々あきれ返っていた。どうも、この二人は真剣みが足りないのではないだろうかと……。八代が与三のほうを見ると、どこか楽しそうに無邪気な眼差しを白縫たちに向けている。
年はまだ若い。白縫よりも年下で小柄な少年の瞳には、好奇心が映し出されている。
(本当に、暢気なものばかりだ。私の主たちというのは)
それは、おそらく八郎にも言えることだろうと八代も思った。けれど、そんな八郎でさえも、暢気にいられない事情というのが、家李という為朝にとって幼き日より共にいた兄弟同然の存在が、失われるかもしれないという状況だからなのかもしれない。いや、それだけではない。話を聞いていると、彼の気高さも自尊心も踏みにじられたのかもしれない。その大蛇というものに。
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