斜 まだ見ぬ母の話
「それでは、わしは帰るとしましょう。では、御曹司どの」
悪七別当は、夕餉をすませるとすぐに屋敷を立ち去った。
「相変わらず自由な人ですね」
そんな悪七別当を見送った忠邦はにっこりと微笑みながら八郎のほうを振り返る。
向けられた微笑みは、まるで悪戯がばれて叱られている子供のような心地になり、八郎は思わず視線をそらした。
「いつもすまぬ」
八郎は、遠慮がちに、忠国の様子を伺う。
「気にしてはおりませぬ。別当殿らしいではありませぬか。それに彼はいざというときには頼りになる家臣なのでしょう?」
「ああ……」
八郎は、うなずいた。
「では、私は仕事がありますので……」
忠国は立ち上がるとすぐに部屋を出る。
紀平治もまた屋敷の見回りをしますといってから部屋を出て行き、入れ替わるように八代が皿などを片付けるために部屋へと入ってきた。
「手伝います」
白縫が何気に申し出ると、八代は顔を青くした。
「それはなりませぬ。姫様はごゆるりとお過ごしください。これは私の仕事でございます」
八代は手際よく次々と食事の乗った台を片付けていく。
「お主ならば器ごと落とすにちがいない」
「そんなことないわよ!」
八郎になじられて白縫はむっと頬を膨らましながらそっぽを向き、八郎は悪戯な笑顔を浮かべる。
「では……私も……」
「もういくのか?」
八郎たちは突然立ち上がった行慈坊のほうへと視線を向けた。
「これ以上ご迷惑をかけるわけには参りませぬ」
「そういうな。泊って行け」
「八郎君! 勝手なことを……」
「よいではないか。もうすでに日は沈んでいる。せっかく出会ったのだ。もう少しゆっくり話をしてもよいではないか」
「八郎君! 忠国殿の承諾もなく勝手に決めては成りませぬ!!」
「それは、大丈夫と思うわよ」
声を荒くする家李とは反して白縫は落ち着いた口調で言った。
「父様は情に厚いお方ですもの。きっと……。いいえ即答で許可してくださるはずよ」
情というよりはただ何も考えていないだけではと、家李は思う。
言いようによっては、お人よしともいえるが、どこか抜けていて貧乏くじを引いているだけのようにも思えてならない。
「ならば良いではないか。どうだ!! 行慈!!ここに止まっていかぬか? 俺に旅の話しを聞かせてくれ!!」
目をキラキラと輝かせながら見つめる少年の姿を見た行慈坊は彼らの好意に甘えて一泊させてもらうことにした。
それからしばらく八郎たちに旅の話を聞かせた。
それを聞いている八郎はとにかく目を輝かせていた。大柄で見た目だけならば大人びて見える彼なのだが、旅物語に耳を傾ける姿はまだあどけない童にしか見えない。
すでに日が沈み月はぽっかりと夜空を彩りはじめたころ、邸内のものたちはすでに寝静まってしまったらしく、静寂のみが漂っている。
行慈坊の話への興奮が冷めやまなかった八郎は、なかなか寝付けなかった。ついには、寝床から起き上がると縁側のほうへと出る。すると、そこにはぼんやりと空を眺めている行慈坊の姿があることに気づいた。
「行慈殿。なにをしておるのだ?」
「ああ、御曹司殿」
行慈坊は八郎から月のほうへと視線を向けた。
「月?」
八郎も釣られるように夜空にぽっかりと浮かぶ月を見上げる。
「月がきれいですね」
「お前は月がみえるのか?」
「いったでしょ? 完全に視力は失っておりません。それにどちらかというと遠くのもののほうが見えるんですよ」
行慈坊は、八郎の質問に月を見上げたまま答えた。
「なあ、行慈殿……」
行慈坊が振り返ると、八郎はなんでもないと慌てて視線をそらす。
そのまだあどけなさの残る少年の横顔を見ていた行慈坊は、口元に笑みを浮かべる。
「申し出くださいませ」
八郎ははっとしたように行慈坊を振り返った。
「申してくださいませ。御身が知りたいと思うことを申してくださいませ。私に答えられることならば何でもお答えいたします」
「いや……べつに……」
八郎は戸惑いを覚えた。
「聞きたくはないのですか?」
「もう十分の旅の話を聞いたのでな」
そういいながらも八郎の目は明らかに何かを訴えている。
「ならばもう一つお話をしましょうか。摂津国江口の遊女のことでございます」
八郎は目を大きく見開いた。
「知っているのか?」
八郎は無意識に身を乗り出す。
「いったでしょ。私はさまざまな場所を旅して参りました。源氏の棟梁様の御子に関することのお噂も聞いております」
「……」
「それに、私はお会いしております」
「それは……」
「もちろん、あなた様の母君でございます」
「母君?」
「摂津国の江口の遊女。確か、名前は、『テン』と申されておりましたかな?」
「テン?」
「そうでございます。江口の遊女の天と……。それが実名なのかは、わかりませぬ」
「本当に、俺の母上か?」
「はい……。今日、あなた様にお会いして確信しました。あなた様は面影が天殿に似ておられる」
八郎は、顔を伏せる。
「あなたは、母君が恋しいのですか?」
「恋しいとは思わぬ。突然消えた女だ。記憶にすらない女だからな」
母親……
八郎の産みの母親は摂津国の江口の遊女だ。どういう
もとより実母よりも乳母に育てられるという風習があったために実母との記憶はほとんどない。
そのうえ、弟を生むとすぐに姿を消したのだ。ゆえに顔も声も性格も八郎の記憶の中から抜け落ちている。
自ら出たのか。追い出されたのか。
それはわからない。
けれど、彼女が父の正妻やほかの側室たちに疎まれていたことは、八郎でも知っている。彼女がいなくなってからも八郎と実弟が正妻や側室にどんな扱いを受けたことか。
「でも、会いたいのでしょ?」
「……」
「何も恥じることではありませんよ。いくつになっても、母は恋しいものですよ」
八郎は、再び弓張りの月を見上げる行慈坊の横顔を見ていた。
その様子を片隅で見ていた白縫は、胸元でぎゅっと手を握り締めると、彼らに気づかれないように、そっとその場を立ち去った。
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