第48話

 その頃クラリスは、未開封のスナック菓子を横に三袋程置いて、寝転がってPCを開くクロムの横に座り、PCの画面をチラチラと見ていた。

 今までの記憶の中にも、クロムが寝転がってPCを楽しんでいる様子はあったものの、何をしているのかまでは知らなかったクラリスは、湧き出た好奇心からクロムの邪魔をしない程度に画面を覗こうとしていた。

 真横に鎮座するクラリスが気になって気になって仕方ないクロムは、無作為に選んだ菓子袋を一つ掴んでから起き上がり、クラリスの方を向く。


「どうか、しました?」


「えっ、ああいや、クロム殿が何を見ているのか今になって気になってしまって……」


 目を若干反らしながら申し訳なさそうに理由を話すクラリスに、こんな可愛らしい一面があるんだと内心にやけながらも、折角だからと、クラリスに閲覧しようとしていた如何わしい雰囲気の電子書籍を見せようとした。

 その時、後ろからクランが手早い動作でクロムの手を退かし、早急にウインドウを閉じた。


「あっ、ちょっと!」


「流石にそれはまだクラリスには早いだろう。さて、待たせたなクラリス」


 不満げなむーっとした顔をクランに向け、クロムはクラリスに画面が見えないように、PCごと180度移動してから、消されたウインドウを復元し、スナック菓子を頬張って楽しみを再開させた。

 クラリスは、目の前で繰り広げられた茶番のような何かにきょとんとしながらも、すぐさまクランへと視線を合わせて真剣な表情へと戻った。


「それじゃあ、さっきは中断されてしまったが、改めて話を聞こうじゃないか。外で一体何があったんだ?」


「はい、実は……」


 明里のハイテンションに響き渡った帰宅の大声で中断された報告を、クランは場所を変えて改めてクラリスへ問い掛けた。


「……というわけなんです」


 クラリスは可能な限り、自身に起きた出来事を記憶の中から引き出して言葉にし、伝えられる限りをクランに伝えていった。


「ふむ、なるほど。記憶を読み、魔法らしき物を使い、空を飛ぶ悪魔ベルアか……相当厄介そうな奴だな」


 これまで様々なモンスターの存在を検知してきたクランも、とうとう悪魔が現れるまでにもなったかと息を漏らした。

 クラリス一人で対峙した結果とはいえ、そのベルア相手にまともな傷一つすら付けられず、果てには嬲り殺すかの如く心を踏みにじるような攻めを同時にぶつけることから、その底知れぬ強さと狡猾さが伺い知れた。


「……いずれ対峙するとなると、対策を考える必要がありそうだな」


「みなさーん! 出来上がりましたよーっ!」


 未知の脅威への対抗策を一からか練ろうと、顎に指を当てて思考を始めようとした時、幸せの絶頂のような明るく大きい声で、明里が料理の完成を部屋中に響き渡らせた。


「……後にするか」


 大声で思考が中断されたクランは、今の状態で考えても仕方ないだろうとすぐに頭を切り替えて、下半身をテーブルへと座り込んだ。

 同じように待ってましたと言わんばかりに、クロムは体勢を変えて、上半身をテーブルの上にぐたっと寝かせて食事の準備を楽しみに待つ。

 初めての食事のため、いまいち勝手が分からずどう動けばいいかわからなかったクラリスは、見よう見まねでクロムの隣へと座った。


「座る場所は自由でいいんだろうか……?」


「ああ、うん、大丈夫」


 まず座る場所から考えなければならない程、食事に大して完全なる無知なクラリスに対して、クロムは隣から安心できるように優しく教えながらも、その大人っぽい容姿とは正反対のあまりの不完全っぷりとのギャップに、心の中で可愛い尊いという感情が爆発して悶え苦しんでいた。

 抑えられないニヤケが表面に漏れだし、思わず口角がほんの少しだけ上がり、身体が微振動を起こす。

 その様子を見たクラリスは、何かあったのではないかとちょっと心配そうな顔でクロムに調子を尋ねた。


「ん、どうかしましたかクロム殿?」


「い、いや、なんでも、ない……」


 どうにか無理矢理押さえ込み、クロムは平常心を取り戻した。

 それから間もなく、キッチンの方から本日の夕食が盛られた皿を両手に置いた明里がやってきた。


「お待たせしました!」


 運ばれた皿の上には、平たく皿の半分に盛られた米の香りを誘う湯気が立つほかほかの白飯と、もう半分に盛られたスパイスの刺激的な香りと野菜や果実の風味が溶け込んだカレールーが、上弦の月を描くように乗っていた。


「おおー、明里くんはカレーが特に好きなのか」


「はい、いいことがあった日や、私のお祝いの時によくカレーを作ってもらってたんです。手伝った時に見てた作り方をうろ覚えでやってみました。これなら、クラリスさんの初めてのご飯にピッタリかなと思って」


「私の、ご飯に?」


 最後にくっついていた発言に、クラリスははっと反応を示す。


「えっと、クランさんに折角だから私の大好きな料理をクラリスさんに作って食べさせてあげたら……って。それで今日、少し離れた所まで足りない材料を仕入れてきたんです」


 今回エステルではなく、明里が料理を作ることにになった簡単な経緯を聞き、面食らったような顔になるクラリス。

 一方のクランは、人によっては恥ずかしがるであろう事情の暴露にも動じず、しれっと明里の後から言葉を続けた。


「初めての食事だからな。初めてというのは何事でも特別なものだ」


 クラリスの胸の中が熱くなる。

 今までに感じたことのない、物理的な物ではない暖かい何かが胸の中でじわりと広がった。

 それと共に頬も緩み、緊張気味だったクラリスの表情は、和やかな食卓の中でも違和感のない優しい面持ちとなった。

 そして、クラリスを含めた、食事を行う室内のメンバー全員分のカレーがテーブル上に用意される。

 目の前に差し出されると、カレーの香りと炊きたての白飯の湯気は一層強く感じられ、カレーの中には一口サイズよりはちょっと大きめに切られたじゃがいもやにんじん、カレーの色に染まったようにも見えるみじん切りにされた半透明の玉ねぎ、少し浮いた黄色が目を引くコーンの粒、野菜よりも若干小さいが、その分多く皿の中に点在している四角い牛肉と、カレーを構成する具材達が目の中に飛び込んだ。


「いただきます」


 我先にと、スプーンを手にしたのはクロムだった。

 クロムはご飯とカレーの境目の部分を軽く混ぜ、そこに具材を運んだ後に、その小さな山をスプーンで掬って口へと運んだ。


「うーん……おいひい!」


 口一杯に入ったカレーが喋りを遮りながらも、その美味しさに舌鼓を打った。


「うむ、確かにうまいな。まさに家庭の味って感じか」


 いつの間にか口に運んでいたクランも、素直にカレーの味への感想を述べた。

 母親のものを参考にしたカレーが好評であることに、明里は笑みを溢した。


「よかった……それじゃあ私も、いただきます!」


 明里も二人に続き、スプーンの上にカレーと白飯を半々に掬い、バランスよく口の中に運んだ。

 目を瞑り、過去の思い出にノスタルジックに浸りながらしっかりとカレーの味を噛み締めた。


「お母さんの味とはちょっと違うけど、ちゃんと出来てよかった……」


 三人が食べ進める中、クラリスは未だに手を出せずにいた。

 クランの協力もあり、自分の機械の身体のことが少しずつ理解できるようになったと同時に、主人に改良を施してもらったとはいえ、本当に食事が可能なのかということに一抹の不安を覚えていた。

 それに加え、一度も食事をしたことのないクラリスは、皆の様子からカレーの食べ方やスプーンの持ち方は理解したが、それらを理解できても、一番わかりやすい感想であり感情でもある『おいしい』を果たして自分に理解できるのかというまた別の不安も浮かんでいた。

 クラリスが手をこまねいている様子を察した明里は、軽い気持ちで尋ねる。


「大丈夫ですかクラリスさん?」


「あ、ああ……大丈夫だ。ちょっと、不安があってな……初めて何かを食べる私が、果たしておいしいということがわかるのかどうか……」


 折角緊張が溶けて柔らかくなったクラリスの表情は、今度は逆に陰りを見せていた。

 そんなクラリスに、明里は一拍置いてから優しく語りかける。


「おいしいと思えるかじゃなくて、食べてからクラリスさんが何を思ったかでいいんですよ。」


 明里の一言に、クラリスは胸に抱えた重荷がスッと下りたように心が軽くなった。

 それから間もなく、クラリスは明里と同じような半々の掬い方でカレーを乗せ、一度口の前で止めてから一気に頬張った。

 一口の後でクラリスの頭の中に浮かんだのは、そのカレーを構成する成分と材料だった。

 香辛料、小麦粉、食塩、油脂、でんぷん、スパイス、水分、たんぱく質、等々、クラリスの新たに備わった舌によって解析されたそのデータは、頭の中で駆け巡り蓄積された。

 しかしそれは、クラリスが求めていた感覚とは全く違うものだった。


(違う、こうじゃない……!)


 ただ淡々と分析をされた物が欲しいのではないと、苦い顔をして頭を振る。

 その様子を心配そうな表情を見つめる明里を見て、再びクラリスの中で不安が増大する。

 次こそはと意を決し、人間らしく味わうために二杯目を口の中へと運んだ。


「……!!」


 その時、クラリスの中に新しい世界が花開いた。

 クラリスの舌を最初に刺激したのは、無数の米粒だった。

 一粒一粒から成る温かさに包まれた白米は、みずみずしさと淡白さを舌に与えると共に、噛むごとに伝わる柔らかい刺激と潰れた白米から生まれた旨味が連鎖を引き起こし、口の中へと広がっていった。

 それを手助けするかのように、快楽とも言えるカレーの辛くもあり甘くもある刺激的な濃い味が、白米の淡白さによってさらに鋭く味覚を震わせ、クラリスの感情は静かに、そして加速的に高揚感に包まれていった。


「っ……!」


 クラリスの手は止まらなくなった。

 スプーンを掬う度、口に運ぶ度に自分が知らない新しい快感と悦楽が押し寄せる。

 みじん切りによって小さいながらも、素材の味と染み込んだカレーの味が共存した小さな爆弾の玉ねぎ。

 ほくほくとした食感と共に、潰れた瞬間カレーや白米と混ざり合い至福の大波と化すじゃがいも。

 さっくりと程良い歯触りと同時に、個性的に強く主張する独特な甘味が皆を引き立てるにんじん。

 野菜とは全く違う歯応えと舌触り、それでいて主役級でありながらも主張しすぎず肉の旨味によってさらに全体の味を引き上げている牛肉。

 具材達の中で主張する明るい黄色とは対照的に、小気味良い皮の食感と中のみずみずしい食感が、優しい甘味と共に口の中にまた違う風を吹かせるコーン。

 一口一口全てが初体験、人間と変わらない容姿を持ちながら味わったことのなかった人間の原初の娯楽、それがクラリスの生まれたばかりの自我に、これでもかと強く強く刺激された。

 夢中になって食べ続けていたクラリスは、突然食べるのを止めて顔を伏せる。


「ど、どうしましたクラリスさん!?」


 心配になった明里が、クラリスの側へと回り込む。

 クラリスの隣にいたクロムは、空気を読んでその場を離れ、明里が座っていた場所へと移動した。


「大丈夫ですか? 具合でも……」


 不具合の心配をしつつも、この場合どんな異常が起きるか全く予測もつかない明里は、背中を優しく摩る。

 すると、ほんのわずかに身体が震えているのが手を通じて確認できた。

 状態を確かめるために、黙り込んでいたクラリスの顔を確かめようと下から覗くと、そこには瞳を潤わせて純粋な子供のようになったクラリスの表情が見えた。


「明里……殿……私は今、すごく幸せな気分だ……食べると……いうことが……こんなに、素晴らしいことだったなんて……」


 振り絞るような震える声で、感動に満ち溢れた感想を明里に呟く。

 その声は苦しみからの振り絞りでは決してなく、大きすぎて押し潰されそうな幸せから来る感極まった物だった。その情動のあまり、名前を呼んだ後に殿をつけないようにするという頑張りの意識を忘れてしまうほどに。


「教えてほしい……これが、『おいしい』ということなのか……?」


 顔を上げ、明里に向けて質問する。

 下を向いていたために影に隠れていたその表情は、光が当たってより一層柔らかく、そして幸せそうに見えた。


「……はい、そうですよクラリスさん」


 そっと目を瞑りほんの一秒程夢想した後、心の底からの満面の笑みで答えを返した。


「……明里殿、『すごくおいしい』です」


 お返しするように、クラリスも満面の笑みで初めての『おいしい』を返した。

 その瞳からは、一筋の涙が零れ落ちた。

 その涙は、人間らしい幸せの絶頂から現れたものであり、戦いにまみれていたクラリスの心から確かに流れ出た物だった。

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