第4章

第9話

 周囲を見渡しても真っ白で何もない空間の中、明里は一人立ち尽くしていた。

 何時から此処にいたのかはわからないし、自分にも何故此処にいるのかもわからない。そんな世界を何度も何度も振り返り、見渡す。


「どこなんだろここ……いつからここにいたんだっけ……?」


 このまま止まっていても埒があかないと思い立ち、明里は一歩前に踏み出した。

 その瞬間、右足を中心に足下が薄氷のように崩れていく。


「ひっ! 何……」


 崩れた足場は、深淵を覗けそうな程の底の見えない深い穴となった。

 足場の崩壊は徐々に拡がり、だんだんと下がって行く余裕も無くなっていく。そしてついには、足を揃えなければ立っていられない程の小ささにまで崩れた。


「何これ……なんなの……いったいどうしたら……?」


 いつ足下が崩れ落ちるかわからない恐怖の中、明里は下を見るよりも上を見た方が恐怖が和らぐのではないかと閃き、唾を飲み込んだ後で頭を上に向けた。

 すると、天から二本の手が伸びているのが見えた。明里にはその二本の手には覚えがあった。


「お母さん……お父さん……」


 足下への恐怖を省みず、勇気を振り絞って、天からの手に藁にも縋る想いで手を伸ばす。身体全体を使ってその距離を縮め、僅かでもずれれば落ちてしまいそうな程のギリギリを無意識に攻めながら腕を伸ばす。

 もう少しで届きそうだったその時、最後の足場が崩れさり、明里共々落下していった。


「やだ……いや……いや……!!」


 吹き飛ぶような速さで離れていく手に、明里ははち切れんばかりの悲しみに崩された表情を見せた。

 そして、明里は夢から覚めた。


* * *


 明里は勢い良くソファーから飛び起きた。息を切らせ、掛け布団の端を力強く握り締め、急角度のジェットコースターから降りる直前のように恐怖を目の前にしたような状態になっていた。

 起き上がった勢いによって、明里の寝顔を覗きに来たクランの顔に額が激突し、クランは顔を手で覆いながら痛みで悶え、床を転げ回っている。


「はぁ……はぁ……ゆ、夢……?」


「ごぉぉぉ……痛ったい…… 何するんだ明里くん!」


「あ、えっと……ご、ごめんなさい」


 夢の恐怖で周りが見えていなかった明里本人には、何が起こっていたのかが全くわからなかったが、クランの位置やポーズやリアクションからだいたいのことを察し、申し訳なさそうに謝った


「オハヨウゴザイマス、明里サン」


 お盆の上に器に入った卵粥を乗せて、病人の元へ向かうようにエステルが明里の目の前までやってきた。スプーンで粥を一杯掬い、そっと口元まで持っていく。


「スグニ食ベマスカ?」


「えっと、じゃあちょっとだけ……うっ、いたた……」


 差し出されたスプーンに口を持っていこうとしたその時、胸元に痛みが走る。フラッシュのような一瞬の痛みの後に、じわじわとのしかかるような痛みがやってきた。


「あまり無理するなよ。打撲で済んだとはいえ、下手すれば内臓にも被害が及んでいたんだからな。運が良かったよ。粥はテーブルの上に置いておいてくれ」


「カシコマリマシタ。オ大事ニ明里サン」


 手元のお盆を言われた通りに側のテーブルの上に置き、エステルは一礼をしてその場から去っていく。


「さてと、先日はご苦労だったな。何の戦う力もない一般人がモンスター退治なんて、世が世なら地方新聞の目玉だぞ」


「いえ……こんな時のために乾燥剤を用意してくれてたクランさんのおかげですよ……あれ? でも先日って」


「ああそういえばそうか、明里君はざっと3日間程気を失っていたんだ」


「3日間も!?」


  告げられた3日間という予想外の日数に、そわそわと研究所の室内をボーっと見回す。自宅からいつの間にか移動していた子とを除けば、それらしい実感は全く沸いてこなかった。


「そうだ、あの電話の後でエステルにクラリスと一緒に運んで貰ったんだ。それで念のため今ある機材でなんとか検査をしてみたら、さっき言ってたような状態だった……というわけだ」


 クランはソファーに大きく腰を預け、アイスココアを飲みつつ明里が気を失った後の経緯を明かしていく。


「そうだったんですか……クラリスさんは大丈夫なんですか!?」


 自身に起こったことを一通り聞いた後で、明里は肝心のクラリスの事が心配になった。

 必死に逃げながら戦った一方で、浴槽内で放置されたままになった筈のクラリスの現状を、嫌な予感を内に秘めながら問う。


「ああ。内部回路がイカれたところも多かったが、今は問題ない。ちょっと起動までにはもう少しかかるがな」


「いやー、明里っちが倒れたって聞いた時はホントどうなることかと思ったッスよ……」


「あはは……って、ええっ!?」


 先程部屋を見回した時にはいなかった孝太郎の声が、背後から突然聞こえてくる。幻聴かとも一瞬考えたが、その後すぐに孝太郎本人の姿が視界の中に入ってきた。


「やっぱ綺麗な最新のトイレっていいッスねー」


「そうだろう? 清潔さと機能性は大事だからな」


「な、なんでここに……??」


 明里そっちのけで盛り上がる二人。知り合うことはないだろうと思っていた二人の人物が目の前で楽しそうに会話をしている様子に、これもまた夢なのではとちょっとだけ疑った。


「ああ、こいつとはつい昨日知り合ってな。短時間の看病を頼むために、エステルに連れてきてもらったんだ」


「いきなり尖った耳の子に無理矢理連れ去られた時はホントどうなることかと思ったッスよ~」


 半ば拉致のような状況を笑い話のように語る。その後、孝太郎は息を大きく吐いて、改めてクランの顔を見る。


「よし! 明里っちの目も覚めたことだし、俺はそろそろ行きますわ。約束は守ってくれるッスよね?」


「ああもちろんだとも。協力してくれてありがとう孝太郎くん。ちょっとの間エステルをよろしくな」


 何か約束を交わしていたらしい二人。クランの返答を聞いた孝太郎は、皆に背を向け、右手を振りながらそのまま研究所の外へと向かった。


「あの、エステルさんがどうかしたんですか?」


「ああ、明里くんを看病する代わりにエステルを借りたいとのことだ。なんでも、今いる店の地下を掘ってスペースを作りたいらしい」


「へぇ……でも、なんで掘る力を持ってることを知ってるんですか?」


「私が話したからな」


「ああ……」


 話に一区切りがついたところで、明里は身体を再びソファーに預けて、自分で掛け布団を肩までかける。一つ溜め息をつき、スライムと戦った時の事を思い出しながら、死ななかった運の良さに感謝して肩の力を抜いた。


「まあ、しばらくはこっちでゆっくりしていきなよ。いずれにせよ、今の状態ではすぐには家には戻れないんだし」


「はい、そうさせてもらいます……。あと、クランさん、少し相談があるんですが」


「ん、どうした? 私がなんとかできる範囲で聞こう」


 掛け布団の中に隠れた握り拳と、緊張した面持ちで明里は唾を飲み込み、小さく強い決意の眼差し向けて、一拍置いたところで話を続ける。


「私……ちゃんとモンスターと戦える力が欲しいです! 今までは、私があんな化物達と戦うなんて無理、絶対殺されちゃうと思ってました。でも、クラリスさんの側にいる以上は、あの時にみたいに戦うことは避けられないんじゃないかって……そう思ったんです。でもそうなると、今のままじゃ私はクラリスさんの足手まといになってしまいます……だから!」


「ふふん、そう言うと思ったよ」


 明里の言葉を途中で遮り、予想していた言動を心中で的中させた事へのこれでもかという程のドヤ顔で、今度はクラン側から話を進めていく。

 予想外の割り込みに、緊張した顔と手がぽかんとした具合にほんの少しだけ緩む。


「明里くんとの電話で、USBの中には明里くんに必要な物が入っていると言ったのは覚えてるかな?」


「はい、言ってましたけど……それがどうかしたんですか?」


「実はあの中には、武器の設計図も入っている。身体が治ったら確かめてみるといい」


 まさに求めていたそのストレートな返答に、明里は屈託のない満面の笑顔を見せる。今の状態ではその設計図を見ることも難しいしそれを作るような事もまず出来ない。しかし治った後にはそれがあるという新しい期待に、今うまく動けないことへの悔しさは吹き飛んだ。

 明里の気持ちは今、完治後の未来へ想いを馳せている。


「PCは明里くんの家から持ってきておいたからな。ついでに今まで分解してきた部品や道具とかその他諸々もあるから安心したまえ」


「はい! ありがとうございます! ……あれ? どうしてこっちに持ってきたんですか?」


「あんな荒れ放題になった家にこのまま住み続けるわけにはいかないだろう? ちなみに、君の家は今スライムの巣になってしまっているぞ」


「…………えええええええええええ!!??」


 衝撃の事実を聞かされた、明里は大声を出した後に、ズキズキと響いた胸の痛みと共に咳き込んだ。

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