第4話:通学路

 質感のある夏の風が、狭い路地を吹き抜けていく。

 見た目だけは涼しげな夏仕様の制服に、さっそく汗が滲み始めた。隣の柚葉も、制服をパタパタして暑さを凌ごうと奮闘しているご様子。

「……やっぱり、この時期は蝉がうるさいな」

 夏真っ盛り、蝉も真っ盛りである。

 蝉はそんなに嫌いじゃないんだが、遠い昔に一度だけかけられたことがあるんだよな。何を、とは言わないでおく。

「今日は日差しが強いねー」

 柚葉が嘆声を漏らした。

 気のせいかもしれないが、今日はこいつから妙に甘ったるいにおいが漂っている気がする。なんだか鼻の奥が痛い。

「日焼け止め三倍塗ってきてよかったぁ」

 よくねーよ。それが原因か。

 確か柚葉の使ってる日焼け止めは、ピーチだっけ……まあ忘れたが、何かの匂い付きだったはずだ。

「あ、なんで離れるの? ちょっと! 悲しくなるじゃん」

 これ以上近づくと俺の鼻が悲しくなるんだよ。

 兄の行動が理解できないといった様子で近づいてくる柚葉から、俺はバックステップで素早く距離を取ろうとした。

 実際はコケそうになって一瞬で近づかれた。

「ねえねえ、なんで逃げるの? お兄ちゃんってばっ!」

 柚葉は自分の発するにおいを全く自覚していないのか、ためらいもなく俺の腕をつかんでくる。お前、鼻にムシューダでも詰まってるの?

 仕方ない。繰り返されても困るし、ここはガツンと言ってやるか。

「お前、自覚しちゃいないようだが、日焼け止めのにおいがきつすぎるんだよ」

 一瞬の沈黙。

 その後、柚葉は頭の後ろで手を組み、安堵の息を漏らした。

「なぁんだ、そんなことか」

「そんなことって言うなよ……」

 こういう指摘をするだけでも、割と勇気がいるんだぞ。とりわけ、俺みたいなコミュニケーション障害者にとっては。

「焦ったー、お兄ちゃんに嫌われちゃったのかと思った。危ない危ない」

「危ないって、何をする気だったんだよ」

「えーっとね……無理心中、かな?」

 柚葉ははにかみながらそう答えると、ほんのりと顔を赤くした。

 その謎のセリフと謎のしぐさに、俺は頭を抱えてうずくまりたくなる衝動に駆られる。

 朝霧柚葉。俺と同じく徳明高校に通う、一歳年下の妹。やっぱりコイツは、クソ厄介な妹と呼称するにふさわしい。

 ただし、ブラコンだから厄介! というわけではない。まあブラコンだったらそれはそれで困るのだが、コイツの場合はブラコンを装って俺を小馬鹿にしているだけなのだ。それは、普段のふるまいからも容易に理解できる。

 考えてもみてほしい。兄を殴って起床させるようなヤツが、ブラコンであるはずもないだろ?

 いや、決して柚葉にブラコンになってほしいとかそういうわけではない。せめて、普通の妹になってほしいのだ。俺の私服を勝手に着たり、俺の靴下で得体の知れない虫をぶっ潰したりするのは勘弁してほしい。「靴下の臭いが消えるかと思って」とか言ってたけど、言い訳にもなってないし意味が分からん。

 しかし、そんな柚葉にも意外な一面がある。

 それは、学校での振る舞いだ。噂を聞く限り、かなり真面目ぶっているらしい。柚葉がノリノリでようかい体操第一を踊ってる映像をクラスのみんなに見せたら、どんな反応をするだろうなあ。フヘヘ。

「お、お兄ちゃん……いくら私がかわいいからって、ニヤニヤしながら見つめられたら困っ――」

 全力でチョップ!

「いたっ! な、なんでチョップするの⁉ 私がかわいいから⁉」

「…………」

 なんだこいつ……。

 柚葉は大抵こんな調子だが、容姿端麗なのは事実だから参ってしまう。テニス部で、運動も出来るし、勉強もそこそこ。それに家事も得意だ。万能すぎ。劣等感で俺を押しつぶそうとしてるとしか思えん。

 こんなやつ、俺にとっては迷惑だ。さすがに身内を邪魔者呼ばわりまでするつもりはないが、近くにいると疲労が倍増するのは事実。だから出来るだけ遠ざけたいところなのだが、そういうわけにもいかないのが現状だ。

 というのも、母はだいぶ昔に事故で亡くなっているし、親父は一昨年から海外に単身赴任中だから、普段家には俺と柚葉しかいないのだ。一つ屋根の下、二人きりなのだ。なんだこれ、ちっとも嬉しくない。

「今日はテーニス~♪ 日和だねぇ~♪」

 隣の柚葉はやけに上機嫌な様子で、センス皆無の替え歌を口ずさみながらスキップをしている。手提げバッグについているくま○ンのストラップも楽しそうに揺れていた。

(相変わらず毎日楽しそうだな。家事なんかも任せている部分が多いし、常人よりも苦労は多いだろうに)

 思わず含み笑いが漏れた。

 頭上では、電線にとまった小鳥たちが爽やかな朝のBGMを奏でている。雲一つない快晴だ。確かに今日はテニス日和かもしれない。

 小道から学校へ続く大通りに出ると、俺はふと、肝心なことを思い出した。

「なあ、柚葉。俺はともかく、お前は急がなくて大丈夫か?」

「えっ、急ぐ? …………あっ!」

 そう、このままのんびり歩いていたのでは遅刻は必然なのだ。

 不思議そうな表情から怪訝な表情に、怪訝な表情からハッとした表情になる様はなかなかに面白い。柚葉はこんな感じでたまに抜けている。神にバランス調整でもされたんだろう。神様ナイスです。

「やっや、ややばいよ……」

 日焼け止めの効能もむなしく小麦色に焼けている柚葉の顔が、おもむろに青くなっていく。本気で動揺しているようだ。噛みまくってるし。

 俺は学校の成績だとか周囲の視線はあまり気にしないが、コイツはそういうのに極めて敏感なタチなのだ。ってか、女子なんて大半はそうだよな。

「お兄ちゃん、早歩きで行こう?」

「いや、俺はゆうぅっくり行く」

「えっ⁉ みんなになんて思われるか分かんないよ。お兄ちゃんはどうでもいいかもしれない……けど……」

 柚葉は語尾を濁して、アスファルトに視線を落とした。

 その通り。俺にはどうでもいいことなんだよ。

「ううん。とにかく急ごっ!」

 首をぶんぶんと振り、思い立ったように顔を上げた柚葉が、俺の手をつかんだ。

「おい、なんで俺まで……」

「いいからっ」

 手を強く引かれ、嫌でも歩行速度が上がってしまう。

 あぁ、疲れる。

 振り回されるのも疲れるが、振り回すのもきっと疲れるだろう。柚葉はどこに俺と登校することの意義を感じているんだ?

 ちなみに、俺はそんなものどこにも感じていない。一緒に登校するだけで相当な疲労がたまるってのに、意義なんか感じていられるかよ。この乳酸女め。

「……今……なんか言った?」

「え、いや……何も」

 お前、心の声が聞こえるのかよ。

 現在の発言に当たる柚葉の顔を直視して、再び確信を得た。

 時折姿を見せるブラコンっぽい柚葉は、まやかしだ。



 ランニングよりもむしろきついんじゃないかと思われる早歩きを続けること、およそ十分。俺たちは学校に着く手前で別れた。

 毎度足並みをそろえて校内に入ると妙な誤解が生じる可能性があるので、校門をくぐるタイミングを少しずらすのが習慣になっているのだ。入る順番はもちろん、先に柚葉、次に俺。レディーファーストは義務なんです。

 俺が学校に到着する頃には、すでに校門前の人通りはまばらになっていた。しかしまだ人がいるということは、どうやら遅刻は免れたようだ。

 それはいいんだが、心なしか、普段より学校が騒がしい気がするな。

 面倒なことでなければいいんだが……。

 数割増しの喧騒に飲み込まれながら、俺は得も言われぬ不安を感じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る