第一章

第3話:思い出と後悔

「お兄ちゃん、朝だよ! 起きて!」

 どこからともなく、妹の声が聞こえてくる。

(ああ、もう起きる)

 そう言おうと口を動かしてみたが、声にはならなかった。ただパクパク動いただけだった。

「急がないと、学校遅れちゃうよ!」

 声は一層大きくなった。

(まだ大丈夫だろ)

 やはり声にはならない。

「起きないと、殴るよ」

 間をおいて、今度はささやくような声色に変わった。

(おいおい、殴るのはよせ)

「メガキログラムパーンチッ!」

「ぶへッッ」

「もう一発……」

「お、起きたから、もう起きたから」

 すぐさま身体を起こし、目の前で狂気じみた微笑を浮かべている妹を手で制す。

 脇腹はやめろよ、いってぇな……。

 ていうか、メガキログラムパンチって何だよ。変なところでオリジナリティーを追求すんなよ。

「もう、お兄ちゃん起きるの遅い!」

 俺の妹、柚(ゆず)葉(は)はぷいっとそっぽを向いた。

「……悪かったな。ただ、もっといい起こし方があると思うぞ」

「そんなのないよ。だって私、お兄ちゃんは体罰を加えないと起きないって知ってるもん」

 いつそんなこと知ったんだコイツ。

「んなわけねぇだろ。朝に弱いのは確かだけどな……せめて体揺らすぐらいにしてくれ」

 柚葉は特に気にする風でもなく、「はいはーい」と適当に答えて一階に下りて行った。

(まったく、朝から疲れるな)

 朝っぱらから寝ぼけた兄を殴打する妹がどこにいるんだか。

「はぁ……」

 柚葉は早朝からあんなテンションだから本当に参ってしまう。

 目覚ましという名目でみぞおち蹴りを決められたり、往復ビンタを喰らったりなんてのは、いつしか日常茶飯事になっていた。一応普通に起こしてくれる時もあるんだが……いかんせん情緒不安定なんだよな、柚葉は。

 昔はもう少し分別のある幼馴染に起こされていたから、こんなことはなかったんだが。

 枕元に置かれた目覚まし時計が、カタカタとおびえるように震えている。本来ならば鶯の鳴き声が聞こえるはずのオンボロのそれを、片手で止めた。

(また鳴らなかったな。そろそろ寿命か)

 この時計は、その幼馴染からもらったものだった。

 物心ついた時から、いや、それ以前から俺と懇意な間柄だったアイツは、毎朝俺の寝室にやって来ては、「起きて~」と身体を優しく揺らしてくれた。家が近いのもあって、雨の日も風の日もお構いなしに押しかけてきたものだ。

 思わず「お前は俺のメイドかっ!」なんて叫んでしまうこともあったが、今思えば俺は恵まれていたのだと思う。毎朝心地よく起きられたし、アイツの満開の笑顔を見ることが出来たのだから。

 って、いかんな。アイツのことは忘れようと心に決めたはずだ。


 ――もうこの世にはいないのだから。


「はぁ……」

 嫌なことを思い出してしまった。

 まだ起床したばかりだというのに、すでに今日二度目のため息だ。

(失ってから気づいても、遅いよな)

 俺は小さく三度目のため息をつくと、ぼんやりとしたまま着替えを済ませて一階に下りた。


               ◇◆◇


 あれは忘れもしない、小学六年生の時の出来事だ。

 あの日、いつも通りアイツと一緒に下校している最中、アイツは何を思ったか、急にまだ行ったことのない公園に寄りたいと言い出した。

「けーちゃんもいっしょに行こ!」

 随分と唐突な提案だったが、特に断る理由もなく。

「いいよ」

 二つ返事で承諾した。

 ちなみに、けーちゃん、というのは当時の俺のあだ名だった。もっとも、そう呼んでいたのは幼馴染であるアイツぐらいだったが。

「よーし、出発しんこー」

 この提案を断っていれば……俺がもっと冷たいヤツだったら、アイツは今でも俺のそばにいたのかもしれない。



「とうちゃーく」

 ほどなくして、俺たちは公園にたどり着いた。

 下調べをしていたらしいアイツが道案内はしてくれたが、通学路から外れているから途中何度か迷いかけたりした。だいぶもたついたが、まあ何とかなるものだ。

 公園には、遊具と呼べる遊具は何もなく、あるのはトイレとベンチぐらいだった。そのくせ敷地の面積は無駄に広く、だだっ広いという印象を受けた。ボール遊びでもしてくださいということなのだろうが、生憎学校帰りでそういうものを持ち合わせていない俺たちには、何もすることがない。

 しかも、周りを大規模な工場に囲まれていてほとんどひとけがなく、気味が悪い。田舎の過疎地域、恐るべし。

 文句を垂れつつベンチに腰を下ろすと、隣にアイツも座ってきたので、二人でたわいもない会話をした。小学生同士の会話なんて、そのほとんどがたわいもないものだ。

「ねえねえ、けーちゃんは好きな子いる?」

「……いない」

「うそでしょ~?」

「いないってば」

「ぜったい?」

「ぜったいの三乗」

「さんじょう……ってなに?」

「数学やってみれば分かるよ」

「教えてくれないの?」

「……めんどう」

「もぉ~、けーちゃんのいじわるっ!」

 ほらな。超絶たわいもないだろ。

 そうして、ふと会話が途切れると、アイツは急にもじもじしだして……トイレに行きたくなったらしく、席を立った。

 あの時、アイツがものすごい勢いでトイレに駆け込んでいったのを今でもよく覚えている。トイレは逃げてかねーぞ、って俺が脳内でツッコミを入れたのも。

 で、アイツが駆け込みトイレに成功すると思われた、次の瞬間――

 ベンチに残された俺の視界の端に、疾駆する一匹の狼が映り込んだ。

 狼というより、狼によく似た得体のしれない猛獣といった方が正確かもしれない。イメージにある狼よりも一回り大きく、それでいてスラッとしている印象だった。

 そして、ギラギラと。

 狼もどきのソイツは、深紅のガラス玉のような眼から鋭い眼光を放ちながら、一直線にトイレの方へ駆けて行った。

 そこには当然、幼馴染(アイツ)がいるわけで。

「…………」

 俺は思考速度のメーターを目いっぱい上昇させ、状況の把握をしようと試みた。

 とはいえ、当時はまだ小学生。人生経験がまだまだ不十分で、しょうもない下ネタで爆笑してしまうようなお年頃だ。状況を把握するどころか、頭が真っ白になり、動けなくなってしまった。メーターが振り切れたら壊れてしまうのと同じように。

 なすすべもなく、アイツが噛みつかれそうになった瞬間、俺はただ反射的に強く目をつぶった。

 グオオオオォォォ! きゃっ。

 猛々しい咆哮と、短い悲鳴。

 直後に、「ポワーン」というゲームの効果音のような音。

(何が……起きたんだ)

 恐る恐る目を開くと、驚くことに、そこには狼もアイツもいなくなっていた。

「…………?」

 最初は狼がアイツをどこかへ連れ去ってしまったのかと思ったが、そういうわけではなさそうだった。アイツと狼が接触したはずの辺りで、狼の足跡が途切れていたのだ。

 思い切って女子トイレに入ってみても、アイツはいなかった。思いっきり名前を叫んでみても、返事は帰ってこなかった。

 眩暈がした。耳鳴りがした。

 アイツは、跡形もなくこの世から消えてしまったのだ。



 その後、この一件を皮切りにして、子供を対象とした『神隠し』が日本全国で何件か続けざまに発生し、世間を騒がせたのは記憶に新しい。

 偶然なのか必然なのか定かではないが、当時の俺のクラスからはアイツだけでなく、もう一人犠牲者が出た。そいつとはあまりかかわる機会がなかったのですっかり名前は忘れてしまったが、男だったということと、朧気ではあるが顔もなんとなく覚えている。

 学校中の、いや日本中のみんながみんなパニックに陥っていた。神隠しが起こる日本から脱出しようとして、外国に引っ越す計画を立てていたやつもいるほどだ。

 気持ちは分からなくもない。突然行方不明になるなんて、そりゃ怖いだろう。

 ……でも、俺は神隠しに遭いたかった。

 多少なりとも家族を顧みるようになった今となってはそんな風には思っていないが、当時は本気でそう思っていた。もしかしたらアイツにまた会えるかもしれない、と淡い期待を抱いていたのだ。そのためならその他全てをなげうってもいいと、そう思っていたのだ。

 こうして考えてみると……なんというか、アレだな。

 俺は、アイツに初恋でもしていたのだろうか。

「ねえ、お兄ちゃん。ぼーっとしてないで、そろそろ家出ないと本当に間に合わなくなっちゃうよ?」

 柚葉にそう言われて現実世界に引き戻された俺は、目の前の朝食よりもまず先に時計を確認する。いつの間にやら針は遅刻まっしぐらの時刻を指していた。考え事をしているうちに随分と時間がたってしまったようだ。

「先に行っててくれ」

 いつもは柚葉が勝手についてくるので大抵二人で登校しているのだが、今回ばかりはやめた方がいいだろう。

「やだやだっ! 早く準備っ!」

 ったく、なんで俺と登校したがるんだよ。普通は気が引けるもんだろ。

「わーったよ。ちょっと待ってろ」

 隣でせかす妹を横目に、その妹が作った味噌汁やら焼き魚やらトマト(苦手なのによく出てくる)を喉に流し込む。

 ワシャワシャと適当に歯磨きをして、準備完了。

「よし、行ってくる」

「私もー。行ってきまーす☆」

 部屋の傍らに飾られている、今は亡き母親の形見である着物に別れの挨拶(妹に限っては罰当たりな気もするが)を告げ、重い玄関扉を開いた。


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