第三話 遭遇

 そこにあったのは、二つの頭。一つは、短く借り上げられたような髪、もう一つは腰に届きそうなほど長く伸びていた。二つの顔は、造形自体は全くといって似ていないのに、がらんどうの目だけはそっくりだ。目の端からだらだらと黒い液体を流している。それぞれの頭から伸びた首は、ごく自然に融合し、一つの胴体につながっている。そして、その胴体の下には無数の足が生えていた。ゲジゲジなんて目じゃないくらいの足の山。大きさもまばらで、関節がおかしな方向へ曲がっているものもあった。


 私は知っている。


 は俗に、幽霊と言われる者たちである、ということを。


「ひぎゃああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」


 バッチ―ン、と高らかな張り手の音が夜空に響く。しまった、パーじゃなくてグーにすればよかった。なんて片隅で思った瞬間、平手で吹っ飛ばしたために横を向いた子供の口から、眼球がごろりと出てきた。飛び出た眼球の数は四つ、そのまま地面に転がった。二つ頭の子供は、三本目の腕を伸ばし眼球を一つ拾い上げると、目に押し込んだ。また一つ、また一つと目の空洞に押し込んでいく。四つ入れ終わった子供は、こちらをみてにたりと笑った。がらんどうだったその部分には土に汚れた目が収まっていて、ぐるぐると動いていた。

 私は、すぐさま前へ向き直り、全力で走り出した。


「きっっっっもいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!!!!!!!」


 きもいきもい、めっちゃきもい!!どっから足生やしてんだお前!!!きっっっっも!!!というか、目ン玉があるならちゃんとつけとけ!!口にしまうなこの馬鹿者!!汚いでしょ!!!!!

 部活で鍛えた脚力で走る。と、いっても速さに自信はない。遅くもないのだけれど、どちらかと言えば持久力があるほうなのだ。スピード負けして追いつかれてしまうかもしれない。コンクリートを必死に蹴って前へと進む。私の後ろからは無数の素足が地面については離れる音が追いかけてきていた。その音は近づくことはなく、けれど離れることもなかった。

 まずい、ひっじょーに、まずい。私は、小さい頃から幽霊をよく見ていた。姿や声もはっきり聞こえていて、しゃべることさえできた。見えること自体にはあまり恐怖はない。話せる幽霊もいたし、一部の幽霊は親切で優しかった。

 でも、はだめだ。ぐちゃぐちゃにいろんなが寄せ集まってできた集合体。苦しい、つらい、死にたくないっていう生前の強い気持ちが核となって、引き寄せあった幽霊だ。はなんで苦しかったのかを忘れてしまっている。自分がなぜ死んでたのか、なぜ苦しんでいたのか、全く覚えていない。それでも悲しくて辛くて、そのまま長い時間がたつと、その思いをもった幽霊たちが固まってしまう。ただ痛くて苦しいことから逃げたがっている、塊なのだ。に思考は存在しない。過去も未来ももう存在しない。個はなく、集であり、そこに存在ありはしない。


 まぁ、ようするに、だ。


「話が通じないんだよなあああああああああああああ!!!!!!」


「アソボォヨォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」


「ちょっと!お姉ちゃん!そういうのお年頃は!過ぎちゃったから!!またこんどねええええっ!!」


「アソボォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!タノシイヨォォォォオオオオオオオオオオオオ!!!???」


「これだもんなあああああああああ!!!!くっそ!!!話聞けこんちくしょう!!!がきんちょどもがああああああああああああああああ!!!!!!」


 こういった幽霊は話なんて通じない。つまり、逃げる以外の選択肢がないのだ。

 あぁ!もう!こんなことになるなら駅舎で寝てればよかった!!!私の大馬鹿野郎!!!

 切れる息に喉を痛めながらも私は走り続けた。けれど、あの子達はを引き離すことは出来ず、一定の距離感で後ろを付いてきていた。諦める様子もなく、私の体力だけが減っていった。

 あぁ、もう、だめ、苦しい。喉痛い、足痛い、だるい、もう、ダメかも。

 そんな時、足に何かが引っかかった。いきなりのことに私は大きくバランスを崩した。スローモーションのように地面が視界に写り、あぁ、終わったなと酷く冷静な思考がぐるりと頭の中を回った。

 硬いアスファルトに自身の体が大きく擦れる音がした。痛みはない。逃げなくては。

 すぐさま立ち上がろうと足に力を入れると、かくんと膝が曲がった。

 嘘でしょ、ちから、入らない。足はまるで自分のものではないかのようにガクガクと震え、思ったように動かせなかった。

 なんとか動く上半身を使って後ろを見る。一定に保っていた距離は跡形もなく、手を伸ばせば触れられそうなほどの所にいた。


「やだっ…来ないで…!」


 自分でも驚くほど、か細い声が出た。ちくしょう、どんなに強がったって怖いものは怖い。私の体は思った以上に恐怖に正直だった。

 アスファルトに体を擦らせながら、必死に後ろに下がる。それでとれる距離は雀の涙のようなもので、じりじりとその距離は縮まっていった。は口角をひどく釣り上げ、私に関節が3つある手を伸ばした。


「ア ソボ …?」


 あぁ、もうダメだ。おしまいだ。拝啓、お父さんお母さん、このクソ両親とか思ってごめんなさい。娘の命日は今日になりそうです。ようになってからこんな日がくるかもと覚悟はしてたけど。

 必死に後ろに下がるうちに、地面についていた手がリュックの何かに触れた。小さくて、薄くて、長方形のような形で、布におおわれたもの。私はこれが何かを知っている。


 あぁ、藁にもすがるってこういうことか。


 私はリュックについたお守りを握りしめた。そしてギュッと目を瞑った。ここまで来たらこれしかない。



 ———神様助けて!!!







 …なんて思ってみたところで何かが起こるはずもなく、鼻が曲がるような匂いが覆いかぶさった時、私は確信した。

 もうだめだ、死んだ。




 カコン




 軽い、木製の何かが、コンクリートにぶつかる音。

 乾いた、何でもない音。たったそれだけ。

 なのに、


 あたりの空気が変わるのを感じた。


『ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙!!!!!!!!』


 の悲鳴が響き、水音が落ちていく。苦しんだ声だった。私は何が起きてるかもわからずに耳をふさぐ。

 やだ、何、なんなの…!?

 次第に音は止み、夜らしい静けさが戻っていった。終わった…のだろうか。そろりと手を耳から外した、その時。


『 』


「え…」


 思わず声を漏らし、閉じていた目を急いで開ける。

 淡い月の光が目を刺す。何度か瞬き、ようやくピントが合った先には、一人の少年がいた。

 夜の空より濃い黒の髪、あどけなく日本人らしい整った顔立ち、髪と同じ黒色の目、見慣れない和服に身を包んでおり、腰には刀を下げていた。私はその少年から目を離せなかった。何故だろう。体が動かなかった。逃げなければと、頭では思っているのに。どうしても、彼を見ていたい。そう感じていた。


 ぱちぱちぱち、と手をたたく音がして、私の視線がその音を追う。そこにはにこりと笑う青年がいた。その隣には、きっちりと髪を切りそろえた美しい女性。奇妙な人達だった。あまりにも顔が整いすぎている。美形の友達はみんな美形なのか、なんてことを3人が何やら話しているのを眺めながらぼんやりと考えていた。

 突然、少年が私をちらりと見た。


「私が視えているのか?」


 少年の口が少しだけ開き、音が漏れだす。声変わりのすんだ少し低めの声。

 え、なに、これ。私に聞いてるの?

 叫び声をあげたせいか、それとも非現実的な出来事を体験したからか。とっさに声がでなくて、口だけがはくはくと動く。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう。答えないと、答えないと殺されてしまうかもしれない。

 恐怖で頭が回らない。自分でもわかるほど、視線が挙動不審に揺れた。

 というかこれどうなってんの、何が起きたの。あれはこの子が切ったの?刀って本物?私は助かったの?生きてる?というかこの人たち何者なわけ、黒い羽根なんか生やして、田舎の人は一味違うな…ん、え、羽?

 揺れていた視線が一点に集中する。カラスのような羽。黒く、月明かりを浴びて鈍く光沢を帯びていた。

 羽だ、まごう事なき羽。羽が生えた人間などいるだろうか。答えはNOだ。当たり前だろう。あと、この人たちの服。一般人が着るようなものじゃない。装飾がすごい。凝ってる。あと、刀。圧倒的銃刀法違反。本物かどうかはこの際置いておいたとしても、普通模造刀でも身に着ける人なんていない。このご時世、刀を犯罪に使う日本人なんてほぼいない。ここから導き出される結論は————。


「…ふ」


「ふ?」


「不審者だあああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」


 コスプレして田舎の道を徘徊し、刀を振り回し、知らない人に絡む。これのどこが不審者じゃないといえる。

 私は勢いよく立ち上がり、町明かりに向かって走り出した。そりゃもう全速力で。後ろから追いかけてくる気配はなかった。好都合だ、このまま逃げ切れる。




 私は、速度を落とすことなく走り切り、なんとか生き延びたのだった。



 *******************



 と、いうのが数十分前の話。やっと電波のつながったかまぼこ板を操作して、私は一軒の家の前にたどり着いた。立派な門には羽間と書かれた表札がついていた。


「ここ、かな」


 時刻は十時過ぎ。当初の目的である「連絡を取る」ということを、上記の一件ですっかり忘れていた私は、立派な木造住宅には不似合いのインターホンを押せずにいた。

 絶対怒られる。ホウレンソウもできない若造だと思われる。初対面でこのやらかしはアカン。信頼関係の構築どころじゃない。くっそ、全部あの人たちのせいだ。

 なんてことをぐるぐると考えて、中途半端に伸ばされた人差し指は未だにインターホンを押せていない。

 …このままでいても仕方がない、か。

 私はぐっと勇気を振り絞り、恐る恐るベルを鳴らした。ぴーんぽーんと聞きなれた音が響くと、しばらくしてぱたぱたと廊下を走る音がした。玄関の開く音がし、続いて目の前の門が開いた。


「どちらさまですか?」


 私は、視線を下にやった。想定していた高さより、その声が低い位置から聞こえてきたからだ。そこには、巫女のような服を着た女の子がいた。中学生くらいの少女はこちらを見上げると、こてりと首を傾げた。

 か、かわいい…!

 見上げる瞳は大きく、肩まで伸びた髪はふんわりとカールしている。端正な顔立ちをしているのに、ゆるく曲線を描く輪郭が彼女にかわいらしい印象を与えている。巫女装束から少しだけ見える手足は少し頼りなげだが、しっかりと成長過程を積んでいることが見て取れる。まさに文句なしの絶世の美少女。


「え、えっと。ここは羽間さんのおうちであっていますか?」


「はい!」


 美少女は声までかわいいのか。本日一番の幸福を感じながら、わたしはさらに美少女に問いかけた。


「羽間、優莉ゆうりさんはいらっしゃいますか?」


「羽間優莉は私ですが…」


 思わぬ返答に私の思考は停止した。

 ん?今この子なんて言った?羽間優莉は私?いやいやそんなわけないじゃん。お父さんの従兄弟だよ?お父さんと歳もそう変わらないって言ってたし、こんな可愛くて幼い女の子なわけが…。

 困ったように眉を下げる彼女を見て、私は無言で美少女を見つめてしまうという失態を起こしていることに気がついた。慌てて何か言おうと口を開くが上手く言葉がでず、あーだとかえーとだとかそんなことを繰り返してしまう。すると少女は小さく目を見開き、納得したような笑顔を見せた。


「あぁ!もしかして結依か!大きくなったなぁ!」


「ぇ、え?」


 少女の思わぬ反応に私の思考がぐるぐる回る。え、えっと。どういうことなの?とりあえず、彼女は私を知っていて、大きくなったってことは、あれ?でも…え?


「なんだ〜驚いたぞ!来るなら来ると一言くらい連絡してくればよかったのに」


「あ、えっと。今日伺うと数日前にメールでご連絡させて頂いたと思うんですけど…」


 まとまらない思考のまま誤解だけは解かねばと、とりあえず口を開く。それを聞いた少女はぱちくりと大きな瞳を瞬かせ、ポケット(?)らしき所をごぞごそと漁り始めた。取り出されたのは、今となっては珍しい2つ折りで長方形の携帯電話だった。


「んー?メールは来てな…」


 と、少女の声がそこで途切れる。少女の携帯が大きな音をたててメロディを奏で震えたからである。少女はパカリと携帯電話を開くとカチカチとボタンを使って操作し始めた。覗きみようと思ったわけではないが身長の関係で少女の携帯の画面が見えた。見覚えのある文面と宛名がちらりと目に映る。


「………今来たみたい、だな」


 あぁ、今来たわけね。そりゃあ返信がない訳ですわ〜…ってそんなことってある!?ここがいくら田舎で、電波が悪かろうがもう3日は立っているのだ。どう考えてもおかしいでしょ!あ、いやでも何度電話をしても繋がらなかったしな…ありえるのか?田舎ってそういうもの?

 すると、ぱっと少女が顔を上げた。にっこりと愛らしく微笑むと可愛らしい声で言った。


「こちらの不手際だったみたいだ。ごめんなぁ、結依が無事でよかった」


 まぁ結局のところ無事にたどり着けたわけだし、信頼もそこまで落ちていないみたいだし、私が心配していた問題はないと言ってもいい。無事にたどり着いたといっても差し支えない。

 …しかし、だ。新たな問題が発生している。


 この子って…誰?!


 先程名前を聞いた時に彼女は『羽間優莉』は自分だと言っていた。でも、お父さんの従兄弟さんの名前なわけで。こんな小さな子がお父さんと同い年くらいだなんてそんなこと…


「改めて、今日から結依の保護者になる羽間優莉だ!よろしくな!私のことは父親からは聞いたか?」


 保護者という言葉が頭の中を駆け巡る。ほごしゃ、ということは私よりも確実に年上だって事で。この子…もといこの人が、羽間優莉さん…?


「ち、父からは、父の従姉妹の方だと聞いてます」


 混乱したまま質問に答えると、羽間さんはにぱりと人の良い笑顔で笑った。


「そうだ、結依からみるといとこ伯従母いとこおばにあたるな。今はここで巫女をやっている。昔に1度あったことがあるが…まぁ、覚えてないだろうな!小さかったし」


「そう、ですね…」


 肯定の意味を込めて申し訳なさそうに軽く相槌を打つ。会ったことがあるなんてお父さん達からは聞いていなかったけれど、羽間さんがそう言うのなら相当小さな頃だったのだろう。覚えていないのも当然なのかもしれない。


「まぁ、こんな所で話すのもなんだ、上がれ。疲れただろ」


 そう言いながら優莉さんはちょいちょいと門の中へと手招いた。私は軽く会釈をして中へと入る。立派な門の中には、立派な平屋の家が建っていた。The日本家屋といった感じだ。玄関に靴を置き、恐る恐る廊下を進んだ。とてとて、と歩く羽間さんに付いていく。


「夕飯は食べたか?」


「あ、いえ。まだです」


 そういえば食べてなかったや。いろいろあったからだろうな、そう思うとお腹のあたりがキュウと縮まり空腹感を覚えた。


「そうか、じゃあ直ぐに用意しよう。知っていたらちゃんと用意したんだが…まぁ仕方が無いな、余り物で我慢してくれ」


「あ、ありがとうございます」


 ぺこりとお辞儀をすると、羽間さんが少しおかしそうに「お礼なんていらないぞ、これからは毎日一緒にご飯を食べるんだからな」と言って笑った。


「ここが居間だ、あの奥のところが台所になっている」


 からりと羽間さんがあけたふすまの先には、居間とは思えないほどの広いスペースがあった。畳の上に大きなちゃぶ台とテレビと大きな窓、それに沿った形で伸びる縁側にその奥にこれまた広々とした庭。大きな木が印象的に映るつくりになっていて、私は思わず感嘆の声を漏らした。


「あ、と。食事の支度をしている間に風呂に入ったほうがいいか、こっちだ」


 羽間さんは身をひるがえすと、また廊下を進んでいった。私はあわててその小さな背を追った。


「ここが結依の部屋だ」


 そういって開けられた部屋は一人で使うには大きすぎるほどのものだった。前の家の私室の倍はある。隅のほうに私の引っ越し荷物という名の段ボールが積まれているにも関わらず、部屋には窮屈さのかけらもない。それどころか、和室によくなじんだタンスやら机などが置かれていた。


「ある家具は好きに使ってくれて構わない。いらなければ物置にしまうから、使わなければとは思うなよ。荷物をほどくまでの間に合わせだと思ってくれ。他に何か欲しいものがあったら遠慮なく言ってほしい、用意するからな。

 それと、この廊下の突き当たりを右に行ったところが風呂だ、準備が出来たらゆっくり温まってくるといい。風呂から出たらさっきの居間の方に来てくれ」


 私がぽかんとしていると羽間さんはにこやかに笑って言った。ワンテンポ遅れて私が「は、はい」と答えると、羽間さんは満足そうに頷いて来た廊下を引き返していった。

 私はそろりと広すぎる部屋に入ると段ボールの近くに荷物を置いた。軽い音が静かな部屋に鳴る。私は急な脱力感に襲われ、小さくため息をついた。しばらく広い部屋をぼうっと見つめた後に、ぽつりとつぶやいた。


「…お風呂、入ろう」



 *******************



「はぁー…」


 肺の中の空気がすべて出てしまいそうなほどの息を吐く。気持ちいい、お風呂最高。肩までしっかりとつかるとゆるゆると体の緊張が解けていくのがわかる。湯船に浮かぶ柚子の香りが、体の疲れが溶かしていく。

 今日は本当にいろいろなことがあった。慣れない電車に揺られて来たもののバスはないし、幽霊に襲われるし、不審者にも合うし、めっちゃ走ったし、メール届いてないし…。ただでさえ慣れない環境下で緊張しているというのに、散々だ。せめてもの救いは羽間さんが優しく迎えてくれたことだろうか。…見た目は、ちょっとあれだけど。

 両手で柚子を持ち上げ、顔を近づけると柚子の香りが強く香った。ほぅと息をつくと、私はそのまま柚子から手を離した。ちゃぽんと音を立てて柚子は湯船に落ち、またぷかりと浮かんできた。

 私は浮かんでくる柚子を見てふっと疑問に思った。


「柚子って、この時期取れるっけ?」


 黄色い色をした柚子をもう一度持ち上げる。冬の時期じゃなかったけ、柚子がとれるのって…。だが手の上にあるのは生の鮮やかな黄色をした果実だった。うーん…品種によるのかな?そう考えて私は湯船から上がったのだった。



 *******************


「あの、お風呂出ました、ありがとうございます」


 そういいながら居間の入り口から顔を出すと、食事を持ってくる羽間さんと目が合った。


「おお、出たか。ちゃんと温まったか?」


 ふわりと羽間さんは美少女スマイルを私に向けた。ま、眩しい…私は思わず目を細めた。


「はい。あの、何かお手伝いできることって…」


「あぁ、大丈夫だ。もう出来てるからな、座ってくれ」


「は、はい」


 ちょいちょいと手招きされ、速足でちゃぶ台に向かう。すでに用意されている箸の前に座ると、羽間さんが手に持った料理を置いた。


「わぁ…!」


 目の前に並べられた料理は“あまりもの”と言っていたとは思えないほど豪華だった。夏野菜のてんぷら、いわしの梅煮、焼きそら豆にいんげんの胡麻和え…豪勢にもほどがあるのでは…?天ぷらは揚げたてだし、どの料理も適温だ。私がお風呂に入っている間に作ったとは思えない。恐ろしいほど手際が良くなければできないだろう。


「残りものですまないな、口に合うといいんだが」


 残り物でこれだけ豪華って凄すぎませんか?

 …とは口に出さなかったものの、日ごろの羽間さんの食生活が気になると同時に、これからの食事に期待が込み上げた。


「い、いただきます」


 しっかりと手を合わせて言う。羽間さんは「どうぞ」と言うと嬉しそうに笑った。

 まずは…やっぱり、天ぷらだよね。私はおもむろに茄子の天ぷらに箸を伸ばした。箸でつかんだだけでさっくりと揚げられていることが分かった。そっと一口食べる。


「あふっ……っんん!おいしい…っ!」


 さっくりとした衣の感触の後に、じゅわりと口の中に茄子のうまみが飛び出てきた。そのあとに茄子独特の香りが追いかけてくる。噛むと衣のサクサクと茄子の柔らかさが楽しい。茄子のうまみ、香り、それを引き立てる油…全てが口の中に広がっていく。

 おいしい、びっくりするほどおいしい。


「ふふ、それならよかった」


 羽間さんが楽し気に笑う。私はおいしいですともう一度声に出すと、次の料理に口を付けた。これもおいしい、すごい!私は楽しくなって、すっかり食事に夢中になっていた。

 私がおいしい料理に舌鼓を打っていると、ふと羽間さんの視線が気になった。じぃと見つめられている。


「あ、あの。なにか…?」


 気になって聞くと、羽間さんは「あぁ、すまん。見すぎたな」と言って少しだけ申し訳なさそうに笑った。


「いや、やっと柔らかい表情が見れたと思ってな。急なことで今までも今日も大変だっただろう。…よく頑張って来てくれたなぁ、ありがとう」


 ふわりと優しく羽間さんが笑う。あまりにも優し気な声にほんのりと涙腺が緩む。

 私は「いえ、大丈夫です」と小さくて返すと、少しだけうつむいた。うるんだ目をしぱしぱと瞬かせ、ばれないように繕う。なんだかすごい子供みたいで恥ずかしい。


「道中なにか起きなかったか?」


 その言葉にひゅっと涙が引っ込む。思い返されるのは、幽霊と不審者たちとのあれやこれ。不審者はともかく、幽霊に関して信じてもらえるとは思えない。それに引っ越し初日から迷惑をかけるわけにはいかない。


「いえ、特には…」


 私は、少しばかり悩んだ末に何もなかったことにした。別に問題はないだろう、不審者に実害はなかったし。幽霊に関しては今までの経験上、私みたいな特殊な人じゃなければ問題ないし。羽間さんはじっと私を見た後に「そうか」と小さくつぶやいた。


「それならいいんだ。でも駅からここまで歩いて来るのはくたびれただろう、ご飯を食べ終わったら早めに寝るといい」


 厳密には走ってきたんだけど、なんて考えながら私は笑って「はい、そうします」と答えた。


 今日は本当にいろいろあった。疲れたし、相変わらず前途多難な感じは否めないけれど…何とかやっていけそうだ。羽間さんを見ていると、そんな気がした。






























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白詰草の忘れ物 双月 @hutatuki

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